桓武朝の天応元年(781年)4月、正六位上から従五位下に叙爵されるのが史料における初見である。同年5月には巨勢池長の後任の中衛少将に任ぜられた。この時点での他の1名の中衛少将は藤原末茂であった。また、この時、従来から任じられていた播磨大掾を兼務している[1]。延暦2年(783年)6月、百済王仁貞の後任の播磨介に昇格した[2]。以後の経歴は不明である。
『続日本紀』による。
「中臣氏系図」延喜本系帳の大中臣清万呂の項に、清万呂の孫、子老の子として現れている[3]。
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