百済王仁貞
百済王 仁貞(くだらのこにきし にんじょう)は、奈良時代の貴族。官位は従四位下・右中弁。
時代 | 奈良時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 延暦10年7月29日(791年9月2日) |
官位 | 従四位下・右中弁 |
主君 | 光仁天皇→桓武天皇 |
氏族 | 百済王氏 |
子 | 藤原冬嗣室 |
経歴
編集桓武朝に入り、天応元年(781年)近衛員外少将に遷る。天応2年(782年)播磨介に転じると、備前介・延暦4年(785年)備前守と桓武朝初頭は山陽地方の地方官を務める一方で、延暦2年(783年)従五位上に昇叙される。
延暦8年(789年)中宮亮として京官に復すと、延暦9年(790年)正五位上・左中弁、延暦10年(791年)従四位下と要職の弁官に抜擢され急速に昇進した。
延暦10年(791年)7月29日卒去。最終官位は左中弁従四位下。
官歴
編集『続日本紀』による。
系譜
編集脚注
編集- ^ 『尊卑分脈』