夢市郎兵衛

夢 市郎兵衛は17世紀の日本の侠客で、江戸時代前期に実在した人物である。彼は侠客幡随院長兵衛の子分である放駒四郎兵衛の実弟であり、本名は深野茂兵衛である。
夢の市郎兵衛から転送)

夢 市郎兵衛(ゆめ の いちろべえ、生没年不詳)は、江戸時代前期に実在したとされる日本の侠客である[1][2]夢の市郎兵衛夢廼 市郎兵衛(いずれも読み同)とも表記される[2]。侠客・幡随院長兵衛の子分である放駒四郎兵衛の実弟、17世紀の人物である[1][2]。本名深野 茂兵衛(ふかの もへえ)[1]

ゆめ の いちろべえ

夢 市郎兵衛
『夢の市郎兵衛 中村歌右衛門』
三代目歌川豊国、1840年
生誕 深野 茂兵衛 (ふかの もへえ)
生年不詳
日本の旗 日本 江戸浅草花川戸(現在の東京都台東区花川戸)
死没 没年不詳
職業 侠客
活動期間 1624年 - 1648年前後
親戚 放駒四郎兵衛 (兄)
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人物・来歴

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生年月日・生地ともに不詳である[1][2]。兄の放駒四郎兵衛、その親分である幡随院長兵衛(1622年 - 1657年)と同様に、17世紀、とくに寛永年間(1624年 - 1645年)から正保年間(1645年 - 1648年)までのころに、江戸(現在の東京都)で主たる活動をしたとされる[1][2]。一般に長兵衛よりは年長と考えられ、江戸浅草花川戸(現在の東京都台東区花川戸)出身と考えられている[3]

明石志賀之助と義兄弟の契りを交わして[4]、1624年(寛永元年)に明石が勧進元となって行った相撲興行が江戸勧進相撲の始まりとされるが、その後の京都での天覧相撲では明石の後見人になる[1][2]。明石は同天覧相撲で大関仁王仁太夫に勝って、日下開山を勅許されている[4]。明石はこれをもって「初代横綱」とされる[4]

吉原遊廓での喧嘩を大見得を切って仲裁したことで有名となり、そのときの紫鉢巻が、歌舞伎における花川戸助六(助六)のキャラクター造詣に影響を落としたという説がある[1][2]

没年月日・没地ともに不詳である[1][2]

伝説・物語

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1742年(寛保2年)春に中村座で初演された『娘曾我凱陣八島』に登場している[5]。二代目松井幸三が『曾我評判比翼男』を書いた[6]

歌川豊国は、『御誂三段ぼかし』の1作として『夢乃市郎兵衛』[7]を描いたほか、『当世好男子伝 張順に比す夢の市郎兵衛』(1859年)、『時代世話当姿見 夢の市郎兵衛』(同)で市郎兵衛を描き、豊原国周錦絵初代 河原崎権十郎演ずる「夢の市郎兵衛」(1866年)を描いた[8]。1840年(天保11年)には、三代目歌川豊国(歌川国貞)が、四代目中村歌右衛門演ずるところの市郎兵衛を描いた『夢の市郎兵衛 中村歌右衛門』が発表された。

テアトログラフィ

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歌舞伎で「夢の市郎兵衛」を演じたおもな俳優の一覧である[9]。生誕順。

フィルモグラフィ

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日本映画データベースキネマ旬報映画データベース等にみられる「夢の市郎兵衛」の登場する劇映画一覧である。末尾の俳優が市郎兵衛を演じた。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h 夢市郎兵衛デジタル版 日本人名大辞典+Plusコトバンク、2012年7月30日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h 夢の市郎兵衛大辞林 第三版、コトバンク、2012年7月30日閲覧。
  3. ^ 醍醐、p.50-52.
  4. ^ a b c 世界大百科事典 第2版『明石志賀之助』 - コトバンク、2012年7月30日閲覧。
  5. ^ 夢の市郎兵衛jlogos.com, エア、2012年7月30日閲覧。
  6. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus『松井幸三(2代)』 - コトバンク、2012年7月30日閲覧。
  7. ^ 夢乃市郎兵衛国立国会図書館、2012年7月30日閲覧。
  8. ^ 錦絵、国立国会図書館、2012年7月30日閲覧。
  9. ^ 夢の市郎兵衛早稲田大学坪内博士記念演劇博物館、2012年7月30日閲覧。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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