多久茂族
多久 茂族(たく しげつぐ、1833年11月1日〈天保4年9月20日[1][注釈 1]〉 - 1884年〈明治17年〉12月20日[1][注釈 2])は、江戸時代後期の武士、明治時代前期の政治家。肥前国佐賀藩重臣家の多久鍋島家(後多久氏)11代当主で、維新後は内政官僚となり、浜松県・伊万里県・佐賀県各権令を歴任。
多久茂族 たく しげつぐ | |
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![]() 多久茂族像(多久市郷土資料館蔵) | |
生年月日 | 1833年11月1日[注釈 1] |
没年月日 | 1884年12月20日(51歳没)[注釈 2] |
配偶者 | 多久雍 |
在任期間 | 1872年7月4日 - 1872年8月15日 |
在任期間 | 1872年6月7日 - 1872年7月4日 |
浜松県権令 | |
在任期間 | 1871年12月26日 - 1872年6月7日 |
略歴
編集10代多久邑主・多久茂澄の長男として誕生[1]。天保7年12月24日(1837年1月30日)家督を相続[1]。弘化4年5月1日(1847年6月13日)元服し名を茂族と改めた[1][3]。
嘉永元年(1848年)長崎警備に従事[1][3]。武具方・御小物成方頭人、長崎仕組頭人、弘道館頭人を歴任[1]。安政2年(1855年)江戸桜田藩邸に入り翌年京都を経て帰国[1]。元治元年(1864年)14代将軍・徳川家茂の上洛に伴い京都に赴任[1]。同年11月、長州征討に出陣[1]。慶応4年5月(1868年)多久領兵500名を率いて国許を出発し、下野国鎮撫のため宇都宮に布陣[1][3]。会津城籠城戦ではアームストロング砲での砲撃の指揮を担当した[1][4]。明治元年10月、降伏した松平容保父子、会津藩重臣5名の身柄の東京への護送も担当した[1]。
明治元年12月7日(1869年1月19日)明治政府に出仕し弁官・弁事局出仕となり、その後、少弁となる[3]。明治4年11月15日(1871年12月26日)浜松県権令に就任。明治5年5月2日(1872年6月7日)伊万里県権令に転任。大蔵省に県庁を伊万里から佐賀に移転することを願い出て、同年5月29日(7月4日)伊万里県が佐賀県に改称され引き続き権令を務め、同年7月12日(8月15日)に辞任した[1][3][5]。
その後、旧佐賀藩士のため炭鉱開発、士族授産等に尽力した[4]。