壬生宇太麻呂
壬生 宇太麻呂(みぶ の うだまろ、生没年不詳)は、奈良時代の官人。名は宇多麻呂、宇陀麻呂[1]、于太万呂[2]とも記される。姓は使主。官位は外従五位下・玄蕃頭。勲位は勲十二等。
経歴
編集聖武朝の天平6年(734年)少外記を務めていた際、造公文使録事として出雲国へ派遣される(『出雲国計会帳』)。この時の位階は正七位上、勲位は勲十二等。天平8年(736年)遣新羅大判官に任ぜられて、大使・阿倍継麻呂に従って新羅に渡る。この時に詠んだ和歌5首が「大判官」の作として『万葉集』に採録されている[3]。しかし、帰途において大使・阿倍継麻呂は対馬で病死、副使・大伴三中は疫病に感染して入京できなかったため、宇太麻呂は少判官・大蔵麻呂と入京し[4]、帰朝報告を行う。ここで、新羅がこれまでの礼儀を無視し、使節の使命を受け入れなかったことを奏上した。これに基づいて官人45名が内裏に召集され、対策のための意見の陳述が行われた[5]。その後、天平10年(738年)上野介を務めていたことが見え。天平18年(746年)外従五位下・右京亮に叙任される。
孝謙朝の天平勝宝2年(750年)但馬守に任ぜられて地方官に転じており、同年6月26日付の「但馬国牒」に「守外従五位下勲十二等壬生使主宇太万侶」の自署が見える[6]。天平勝宝6年(754年)玄蕃頭として京官に復した。
官歴
編集注記のないものは『続日本紀』による。