増井敬次郎
増井 敬次郎(ますい けいじろう、1872年3月28日(明治5年2月20日)[1] - 1963年(昭和38年)9月2日[1])は、日清戦争後から大正期の大日本帝国海軍軍人。海機(2期)、海大機関科出身。海軍機関中将。海軍機関学校教官、佐世保・呉海軍工廠造機部長、海軍艦政本部部長などを歴任した。最終階級は海軍中将。功四級。
略歴
編集静岡県出身[2]。静岡県尋常中学校を経て[3]、1895年(明治28年)、海軍機関学校(2期)卒業[1][出典無効]、海軍少機関士[注釈 1]候補生、吉野乗組[1][出典無効]。1896年(明治29年)、葛城乗組[1][出典無効]。
1897年(明治30年)1月、海軍少機関士、7月、金剛乗組[1][出典無効]。1898年(明治31年)、海軍中機関士、八重山乗組[1][出典無効]。1899年(明治32年)2月、水雷術練習所学生、3月、厳島分隊長心得、7月、敷島分隊長心得/回航委員(英国出張)、9月、海軍大機関士、敷島分隊長[1][出典無効]。1900年(明治33年)、帰着[1][出典無効]。
1901年(明治34年)5月、海軍兵学校機関術教官/鎮遠乗組、8月、海兵機関術教官/筑波機関長/分隊長[1][出典無効]。1902年(明治35年)、海軍大学校機関科短期学生[1][出典無効]。1903年(明治36年)7月、海大機関科長期学生、12月、敷島分隊長[1][出典無効]。
1905年(明治38年)1月、海軍機関少監[注釈 2]、11月、海大機関科甲種学生[1][出典無効]。1906年(明治39年)1月、海軍機関少佐、7月、横須賀海軍工廠造機部部員、12月、横工廠造機部部員/検査官[1][出典無効]。1908年(明治41年)、海軍機関中佐[1][出典無効]。1910年(明治43年)、駐英造兵造船監督官[2]。1913年(大正2年)8月、帰朝、12月、海軍機関大佐[2]。1914年(大正3年)、横工廠造機部部員/海軍機関学校教官[1][出典無効][2]。1915年(大正4年)、佐世保海軍工廠造機部長[2]。
1919年(大正8年)、海軍機関少将、呉海軍工廠造機部長[2]。1921年(大正10年)、海軍艦政本部第五部長[2]。1923年(大正12年)8月、海軍艦政本部出仕海軍艦政本部、12月、海軍機関中将海軍艦政本部、同月、待命[2]。1924年(大正13年)2月、予備役[2]、12月、海軍中将[1][出典無効]。1934年(昭和9年)、後備役[1][出典無効]。1939年(昭和14年)、退役[1][出典無効]。
親族
編集- 孫:城戸毅
脚注
編集出典
編集注釈
編集参考文献
編集- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500034。