埴原牧
概要
編集『延喜式』には、信濃国に以下の16牧が記述されている。大室牧・高井牧(高井郡)、笠原牧・平井手牧・宮処牧(伊那郡)、新張(新治)牧(小県郡)、塩原牧・岡屋牧・山鹿牧(諏訪郡)、望月牧・長倉牧・塩野牧(佐久郡)、埴原牧・大野牧(筑摩郡)、猪鹿牧(安曇郡)、萩倉牧[2]。毎月4月に都に献上する貢馬は信濃国全体で80疋と指定されていた。鎌倉時代には16牧のうち13牧が荘園化した[3]。
信濃十六牧以外には甲斐に3牧、上野に9牧、武蔵に4牧があり、信濃と甲斐は左馬寮が、武蔵と上野は右馬寮が所管した[4]。『類聚三代格』所収の太政官符には、延暦16年(797年)に、御牧の長官である監牧(のちには牧監)に筑摩郡埴原の牧田6町を公廨田として賜ったとある。また、埴原からは牧監庁の礎石らしきものが発掘されており、牧監庁は埴原牧に置かれ、承久の乱以後に廃止されたものと考えられる[2]。
『吾妻鏡』の文治2年(1186年)3月12日の条にある「関東御知行国々内乃貢未済庄々注文」には、左馬寮の信濃御牧28牧がある。この中に埴原牧は含まれないが、筑摩郡の御牧としてある南内・北内の2牧が、埴原牧の発展したものと考えられる[5]。
信濃の勅旨牧はいずれも左馬寮の荘園化するが、康永3年(1344年)、信濃の知行国主である久我長通は「国衙の機能の形骸化に乗じて、左馬寮の寮家である洞院家が信濃の国衙牧を横領している」と主張した[6]。宮廷行事の駒牽は、信濃など東国からの貢馬によって行われ、国衙牧から国役として馬を貢上させる「国司分」と、左右馬寮の寮家が所領から調達する「寮家分」があった[7]。