土倉 一之(とくら かずゆき、宝暦9年閏7月24日1759年9月15日) - 文化8年9月30日1811年11月15日))は、岡山藩家老

父は岡山藩家老土倉一信。母は側室。正室は池田長仍の娘。子は土倉一静。養子は伊木忠順。幼名は琳治。通称は四郎兵衛。

生涯

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宝暦9年(1759年)閏7月24日、岡山藩家老土倉一信の子として岡山に生まれる。天明8年(1788年)、一信の隠居により家督相続し、岡山藩家老、佐伯1万石の領主となり、通称を四郎兵衛と名乗る。

寛政3年(1791年)6月、仕置家老となる。寛政9年(1797年)、藩政改革を志す藩主池田斉政に守旧派として責任を問われ、仕置職を辞職する。しかし、反対派の激しい抵抗で岡山藩における寛政の改革が頓挫し、改革派が次々と罷免されると、寛政12年(1800年)3月、再び仕置家老として復帰した。

文化8年(1811年)9月30日没[1]。家督は嫡男の一静が相続した。

脚注

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  1. ^ 『岡山県通史 下編』(岡山県通史刊行会、1962年)p.323

参考文献

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  • 『池田老臣累記』
  • 『備前家老略伝』