善福寺 (大阪市)
善福寺(ぜんぷくじ)は、大阪市天王寺区にある高野山真言宗の寺院。山号は如意山。本尊は弘法大師。「どんどろ大師」の名で知られる。宗教法人としての登録名は「どんどろ大師善福寺」[1]。山号については「三松山」とする資料もあるが誤りである。
善福寺 | |
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所在地 | 大阪府大阪市天王寺区空堀町10-19 |
位置 | 北緯34度40分24.6秒 東経135度31分36.9秒 / 北緯34.673500度 東経135.526917度 |
山号 | 如意山 |
院号 | 甘露院 |
宗派 | 高野山真言宗 |
本尊 | 弘法大師 |
開基 | 聖徳太子 |
中興年 | 宝亀9年(778年) |
中興 | 開成皇子 |
正式名 | どんどろ大師善福寺 |
別称 | どんどろ大師 |
札所等 | 摂津国八十八箇所第11番 |
法人番号 | 7120005001495 |
歴史
編集現在、善福寺のある場所には鏡如庵大師堂(鏡如寺・通称:どんどろ大師)という寺があったが、明治時代に廃仏毀釈で廃寺になった。その後、1909年(明治42年)1月9日に大阪府豊能郡東能勢村(現・豊能町)の如意山甘露院善福寺が鏡如庵大師堂のあった場所(現在地)へ移転する。当寺は鏡如庵大師堂の時代から大阪の弘法大師信仰の巡礼「大師巡り」「浪華大師巡り」の巡礼地として多くの参拝者で賑わい、大阪の弘法大師信仰の拠点寺院のひとつであった。
1945年(昭和20年)6月1日の第2回大阪大空襲により、本堂、諸堂や本尊の薬師如来像が焼失する。戦後になり本尊を弘法大師像(真如様御影、彩色木像)に改めて復興した。脇侍の愛染明王像と不動明王像、脇仏の如意輪観世音菩薩像、薬師如来像も戦後になって新たに造立されたものである。
2007年(平成19年)、境内にある勝軍地蔵尊の建立百年と、2009年(平成21年)、どんどろ大師善福寺中興當地開創百年を迎えることから、この2つの百年を記念して、2009年(平成21年)に山門前に歌舞伎「傾城阿波の鳴門 どんどろ大師門前の場」に登場する「お弓 おつる」母子像の銅像が建立された。
境内
編集鏡如庵大師堂(どんどろ大師)
編集大坂冬・夏の陣の戦跡
編集鏡如庵大師堂(きょうにょあんだいしどう)は、宝暦2年(1752年)3月に高野山岩本院 法資法道が慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の戦死者の霊を弔うために創建されたという。鏡如庵とも称する。鏡如庵大師堂のあった付近は、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣で真田幸村が真田丸を築いた場所である。大坂冬・夏の陣ともに激戦地であった。本尊は如意輪観世音菩薩、脇士は左側に薬師佛、右側に地蔵尊が祀られていた。
堂内には、「大坂夏の陣の戦死者」を供養するために、「大坂夏の陣の戦死者」を悼む文章と和歌が記された額が掲げられていた。その額文は「摂津名所図会大成」巻3に拠れば、「當庵の地にハ(は) いにしへ 元和の仲夏 兵革闘諍の地たりしも 今は佛乘の場となり 菩提結緣の雨に潤ふ事 いと有難くぞ おもふ 曇りなき法の鏡にかけ見へて こゝろの塵をはらすゝしさ 玉造住 和氣隅 謹詠」
弘法大師巡礼の道筋にあたり、毎月21日の弘法大師の縁日には多くの参拝・巡礼者があったという。かつては、境内には藤吉稲荷の祠があり、「子授けの利益」でよく知られ、「饅頭喰い人形」が授与されていたというが、今はその祠もなく、廃れてしまった。
1873年(明治6年)に住職の義等が帰農して鏡如庵大師堂は廃庵となる。1879年(明治12年)鏡如寺(きょうにょじ)と寺号を改めて再興するが、まもなく廃寺となった。
「どんどろ大師」のいわれ
編集「どんどろ大師」の語源については、土井利位(生没年:1789年 - 1848年・下総国古河藩主)が大坂城代に在任中の期間(1834年 - 1837年)の屋敷が鏡如庵大師堂の近くにあり、土井利位が鏡如庵大師堂に祀られている弘法大師に深く帰依し、参拝していたために「土井殿の大師」(どいどののだいし)の名が起こり、遂に、どんどろ大師に転訛したというが、正確な語源は分っていない。境内に、土井氏と彫られた五輪塔が今も残る。
歌舞伎の舞台
編集また、鏡如庵大師堂は、歌舞伎「傾城阿波鳴門」、歌舞伎「国訛嫩笈摺(くになまりふたばのおいずる)」の「どんどろ大師 門前の場」の舞台として設定されている。巡礼姿の娘おつると母おゆみの愁嘆を描いた場面が有名である。
善福寺
編集開創・江戸
編集大阪府豊能郡豊能町(摂津国能勢郡木代村(きしろむら)にあった高野山真言宗(高野山・発光院の末寺)の寺院。伝承によれば推古天皇の勅願で聖徳太子が開創し、中興は宝亀9年(778年)開成皇子によるというが詳細は不明である。
広大な境内を有し、伽藍が整い、多くの僧坊があったという。本尊は薬師如来、脇士は日光菩薩・月光菩薩 、十二神将、厨子には降雨に霊験があるとされる聖徳太子像を奉祀していたが、創建以来度重なる火災に遭い、多くの堂宇を失った。
木代村から宮中へ献上される「御玄猪餅」(おげんちょもち)(別名・「亥の子餅」)を作る時に使用する井戸や調理道具などを善福寺の院主が浄(きよめ)の御加持(おかじ)を行ったという。文禄2年(1593年)には、朝廷より「御玄猪餅」の御加持役のため、田地約2反を下賜されて寺運は興隆した。
明治・大阪市へ移転
編集しかし、明治時代になり宮中への「御玄猪餅」の献上は1870年(明治3年)に停止。それに伴い、御加持役を廃された。また、田地などの返納を命じられて経済基盤の多くを失い、寺運は急速に傾いていった。
1909年(明治42年)に大阪市天王寺区空堀町へ移転する。
年中行事
編集前後の札所
編集交通
編集脚注
編集出典
編集- 「摂津名所図会(有馬郡・能勢郡)」
- 「浪速奇談」
- 「摂津名所図会大成」
- 「大阪府全志」
- 「豊能町町史」