南部義元
南部 義元(なんぶ よしもと)は、鎌倉時代後期の武将。甲斐南部氏初代当主[2]。南部実光の孫。
時代 | 鎌倉時代後期 - 南北朝時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 正平5年/貞和6年6月13日(1350年7月17日)?[1] |
改名 | 嫡家系譜:宗行、義元 |
別名 | 嫡家系譜:南部庄司、三郎二郎、南部系譜:庄司太郎、彦太郎 |
戒名 | 逸山俊公 |
墓所 | 山梨県南部町の瑞雲山浄光寺? |
幕府 | 鎌倉幕府 |
主君 | 北条高時 |
氏族 | 甲斐南部氏 |
父母 | 南部時実 |
兄弟 | 政光、政行、宗経、義元、宗実、実政 |
子 | 義行、宗行、祐行 |
生涯
編集南部氏3代当主・南部時実の五男として誕生。
義元は父、宗家第3世時実により甲斐の南部庄を分封されて治め家を興し封務を執る[3]。
元弘元年(1331年)8月、倒幕の陰謀が発覚した後醍醐天皇は笠置山に行幸するが、前年の4月に父・南部実継の命を受け上洛した長継は護良親王を奉じて楠木正成の麾下に入っている。
元弘元年9月20日、高時は大仏陸奥守、普恩寺相模守、足利治部大輔、他を大将軍とする20万余騎の幕府軍を京に差し向けると正成らは赤坂城に立篭る。この時、幕府軍の中に南部三郎二郎の名が見える[4][5]。幕府軍は9月に笠置山、10月に赤坂城を落とし、翌元弘2年(1332年)3月7日に捕えていた後醍醐帝を隠岐島へ配流すると、12月には捕縛されていた実継が斬られている。
元弘3年(1333年)2月11日[6]、大塔宮の発した綸旨を受けた新田義貞が関東へ戻ると、5月、高氏は幕府に叛き京の六波羅を攻め鎌倉に反旗を翻し、北条仲時などが討たれるが、義元は甲斐に帰っている[7]。
脚注
編集出典
編集- 岩館武敏 『九戸戦史』 1907年 九皐堂
- 吉田政吉 『盛岡南部氏物語』1975年 (株)国書刊行会
- 佐藤今朝夫 『南部史談会誌』 1983年 (株)国書刊行会
- 山下宏明 『太平記』 1991年 (株)新潮社
- 身延町誌