北条邦時
北条 邦時(ほうじょう くにとき)は、鎌倉時代末期の北条氏得宗家の嫡子。鎌倉幕府第14代執権・北条高時の長男[5][6][7]。母は御内人・五大院宗繁の妹[7](娘とする系図もある[3])。乳母父は長崎思元[8]。邦時の死後、中先代の乱を起こした北条時行は異母弟である[9]。
時代 | 鎌倉時代末期 |
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生誕 | 正中2年11月22日[1](1325年12月27日) |
死没 | 元弘3年/正慶2年5月29日[2][3](1333年7月11日) |
改名 | 万寿[4]・万寿丸[3](幼名)→邦時 |
別名 | 相模太郎(通称)[5][2][3]、若御前(幼少時の呼称) |
幕府 | 鎌倉幕府 |
主君 | 守邦親王 |
氏族 | 北条氏(得宗) |
父母 |
父:北条高時[5] 母:常葉前(御内人・五大院宗繁の妹) |
兄弟 | 邦時、時行[5] |
妻 | なし |
子 | なし |
生涯
編集元徳3年/元弘元年(1331年)12月15日に元服した[10]時は7歳であり[6]、逆算すると生年は正中2年(1325年)となるが、同年11月22日付の金沢貞顕の書状によれば、「太守御愛物」(高時の愛妾)である常葉前が同日暁、寅の刻に男子を生んだことが書かれており[1]、貞顕が「若御前」と呼ぶこの男子がのちの邦時であったことが分かる。同書状では高時の母(大方殿・覚海円成)や正室の実家にあたる安達氏[11]一門が御産所へ姿を現さなかったことも伝えており、嫡出子ではない(庶長子であった)邦時の誕生に不快を示したようである[12]。
翌3年(1326年、4月嘉暦に改元)3月13日に高時が病により出家して執権を辞任。その後継者として安達氏は高時の弟・泰家を推したが、泰家の執権就任を阻みたい長崎氏(円喜・高資など)[13]によって邦時が後継者に推される。しかし、当時の邦時は生後3カ月(数え年でも2歳)の幼児であり、得宗の家督を継いだとしても幕府の役職に就くことはできず、邦時成長までの中継ぎとして同月16日に長崎氏は連署であった貞顕を執権に就けるが、安達氏による貞顕暗殺の風聞が流れたこともあって貞顕は僅か10日で辞任(嘉暦の騒動)、代わって中継ぎの執権には赤橋守時が就任した。
この後、元徳元年(1329年)の貞顕(法名崇顕)の書状には「太守禅閣嫡子若御前」とあって最終的に高時の後継者となったようであり[14][7]、慣例[15]に倣って、7歳になった同3年(1331年)12月に元服が行われた。儀式は幕府御所にて執り行われ[16]、将軍・守邦親王の偏諱を受けて、邦時と名乗った[17]。
元弘3年/正慶2年(1333年)5月、 元弘の乱で新田義貞が鎌倉を攻めた際、邦時は父が自刃する前に伯父である五大院宗繁に託され、鎌倉市内に潜伏した[2]。だが、北条の残党狩りが進められる中で、宗繁は褒賞目当てに邦時を裏切ろうと考えた[2]。邦時は宗繁に言いくるめられて別行動をとり、27日の夜半に鎌倉から伊豆山へと向かった[2]。一方、宗繁がこれを新田軍の船田義昌に密告したため、28日の明け方に邦時は伊豆山へ向かう途上の相模川にて捕らえられてしまった[2]。邦時はきつく縄で縛られて馬に乗せられ、白昼鎌倉へ連行されたのち、翌29日の明け方に処刑された[2]。享年9[18]。『太平記』では、連行される邦時の姿を見た人やそれを伝え聞いた人も、涙を流さなかった人はいなかった、と記されている[2]。
なお、宗繁は主君であり自身の肉親でもある邦時を売り飛ばし、死に追いやった前述の行為が「不忠」であるとして糾弾され、義貞が処刑を決めた後に辛くも逃亡したものの、誰一人として彼を助けようとはせず、時期は不明だが餓死したという[2]。
略歴
編集( )内は年齢(数え年)。
脚注
編集- ^ a b (正中2年か)11月22日付「金沢貞顕書状」。『金沢文庫古文書』武将編368号、『鎌倉遺文』38巻・29255号。
- ^ a b c d e f g h i 『太平記』巻11「五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事」。
- ^ a b c d 『系図纂要』の北条氏系図による。
- ^ 『太平記』巻10「亀寿殿令落信濃事付左近大夫偽落奥州事」。
- ^ a b c d 『尊卑分脉』の北条氏系図による。
- ^ a b 『鎌倉年代記裏書』 元徳3年12月15日条。
「十二月十五日、太守禅閤第一郎七歳、首服、名字邦時、於御所被執行、」 - ^ a b c 『太平記』巻11「五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事」の文中に「相摸入道の嫡子相摸太郎邦時は、此五大院右衛門が妹の腹に出来たる子なれば、…(略)…昨日までは天下の主たりし相摸入道の嫡子にて有しかば、…(略)…朝敵の長男にてをはすれば、」とある。
- ^ 永井『金沢北条氏の研究』P.183、注(27)。典拠は注1前掲文書中の「尼御乳母ふかさわ殿三郎左衛門入道妻」。
- ^ 『系図纂要』の北条氏系図で、邦時の母を「五大院右兵尉宗繁女」と載せるのに対し、時行については記載なし(母親不詳)という形で邦時と同母であることを示していないので異母兄弟であった可能性が高い。
- ^ 永井『金沢貞顕』P.139。
- ^ 高時の母は安達泰宗の娘(『尊卑分脉』・『保暦間記』・「北条時政以来後見次第」)、正室は安達時顕の娘である(細川「秋田城介安達時顕」P.151、典拠は『保暦間記』と『系図纂要』の安達氏系図)。
- ^ 永井『金沢貞顕』P.109。
- ^ 細川重男は、泰家の系統が執権を出す新たな家格として誕生することで、政権中枢を構成する特権集団の家格が相対的に低下することや得宗家そのものが分裂することを危惧して高資が泰家の執権就任を阻止しようとしたのではないかとする見解を述べている(細川、2000年、P.321)。近藤成一は、高時にとっても同母弟の泰家が執権になると嫡流の移動が起こる可能性があり、自らの子孫が得宗家を継げなくなる恐れがあるため、泰家の執権就任を望んでいなかったと考えられると述べている(近藤成一『シリーズ日本中世史2 鎌倉幕府と朝廷』岩波新書、2016年)
- ^ (嘉暦4年/元徳元年12月付?)「崇顕(金沢貞顕)書状」。『金沢文庫古文書』武将編392号、『鎌倉遺文』39巻・30854号。
- ^ 時宗以降、時宗・貞時・高時はいずれも7歳で元服を行っている(細川、2000年、巻末「鎌倉政権上級職員表」No.7・8・9)。
- ^ 脚注2参照。尚、『吾妻鏡』によれば泰時、経時、時宗の元服は全て幕府の御所で行われ、貞時の場合も経時や時宗と同じく二棟御所の西侍が用いられたことが判明しており(『建治三年記』)、歴代得宗の元服は原則幕府御所で執り行われていた(山野龍太郎論文P.168~169)。例外的に、時頼の場合は当初は兄・経時に対する庶子であったため、泰時邸内に新設された檜皮葺の御所に将軍・九条頼経を迎えて行われている(高橋慎一朗『北条時頼』P.19)。
- ^ 山野龍太郎論文、注(27)(山本、2012年、p.182)。
- ^ 『鎌倉年代記裏書』元徳3年12月15日条(注5参照)に記載の元服時の年齢より算出。『太平記』巻11「五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事」にも「此人未だ幼稚の身なれば、…(略)…幼稚の主…」と邦時が幼少であることを示す表現が見られる。
参考文献
編集- 史料
- 『金澤文庫古文書』第1-3輯: 武将書状篇(金沢文庫)
- 竹内理三編『鎌倉遺文』(東京堂出版)
- 竹内理三編『鎌倉年代記 武家年代記 鎌倉大日記 増補』〈『続史料大成』第51巻〉(臨川書店、1979年)
- 『太平記』
- 佐伯真一・高木浩明編著『校本保暦間記』(和泉書院、1999年)ISBN 4870889641
- 黒板勝美、国史大系編修会(編)『新訂増補国史大系・尊卑分脉』第2篇・第4篇(吉川弘文館)
- 岩沢愿彦監修『新版系図纂要』第3冊上・藤原氏(名著出版、1990年)
- 岩沢愿彦監修『新版系図纂要』第8冊上・平氏(名著出版、1995年)
- 図書
- 細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)
- 永井晋 『金沢貞顕』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2003年) ISBN 4-642-05228-3
- 永井晋『金沢北条氏の研究』(八木書店、2006年)
- 細川重男「秋田城介安達時顕―得宗外戚家の権威と権力―」(所収:細川『鎌倉北条氏の神話と歴史 権威と権力』(日本史史料研究会、2007年)第六章)
- 山野龍太郎 「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年)) ISBN 978-4-7842-1620-8
- 高橋慎一朗『北条時頼』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2013年)