函谷関の戦い (紀元前318年)
春秋戦国時代の戦い
函谷関の戦い(かんこくかんのたたかい、中国語: 函谷关之战)は、紀元前318年に発生した戦国時代の戦い。楚・韓・趙・魏・燕の五国合従軍と義渠が秦へ侵攻した。
函谷関の戦い | |
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戦争:合従攻秦の戦い | |
年月日:紀元前318年 | |
場所:函谷関 | |
結果:5国合従軍の敗戦 しかし義渠は秦軍を李帛で破った | |
交戦勢力 | |
楚 韓 趙 魏 燕 義渠 |
秦 |
指導者・指揮官 | |
懐王 武霊王 公孫衍 太子奐 公子渇 |
樗里疾 |
戦力 | |
不詳 | 不詳 |
損害 | |
82,000人以上 | 不詳 |
函谷関の戦い
編集秦の東方拡大戦略は、東方六国[注 1]を深刻に脅かした。紀元前319年、公孫衍は韓の支持の下、張儀に取って代わり魏の国相となった。魏の恵王は張儀を追放し、張儀は秦へ亡命した。
紀元前318年、公孫衍は魏・趙・韓・燕・楚の合従軍を率いて秦に侵攻した。合従軍の総大将は楚の懐王が努めた。公孫衍は義渠へ遊説し、合従軍に組み入れた。秦は綾絹1000匹と婦女100人を義渠へ送り、秦への脅威感を和らげようとした。しかし、義渠国君は厚いもてなしが策略であることを見抜いた。秦の危機に便乗し、出兵し秦軍を李帛で大敗させた[1]。しかし、合従軍の五国はそれぞれの利害のため足並みが揃わず、実際に出兵したのは魏・趙・韓の三国のみであった。合従軍は函谷関を攻撃したが、秦軍によって撃破された[2]。
紀元前317年、秦は庶長の樗里疾率いる秦軍が函谷関から打って出て、韓趙魏の軍に反撃した。趙・韓軍を修魚で大敗させ、韓将の申差は捕虜とした。合従軍の8万2千人が斬首された[3]。
脚注
編集注釈
編集引用
編集- ^ 《戦国策 巻四 秦策二》:義渠君之魏,公孫衍謂義渠君曰:「道遠,臣不得復過矣,請謁事情」。義渠君曰:「願聞之」。対曰:「中国無事於秦,則秦且燒爇獲君之国;中国為有事於秦,則秦且軽使重幣,而事君之国也」。義渠君曰:「謹聞令」。居無幾何,五国伐秦。陳軫謂秦王曰:「義渠君者,蛮夷之賢君,王不如賂之以撫其心」。秦王曰:「善」。因以文繍千匹,好女百人,遺義渠君。義渠君致群臣而謀曰:「此乃公孫衍之所謂也」。因起兵襲秦,大敗秦人於李帛之下。
- ^ 《資治通鑑 巻三 周紀三》:楚・趙・魏・韓・燕同伐秦,攻函谷関。秦人出兵逆之,五国之師皆敗走。
- ^ 《史記 巻五 秦本紀第五》:七年,楽池相秦。韓・趙・魏・燕・斉帥匈奴共攻秦。秦使庶長疾与戦修魚,虜其将申差,敗趙公子渇、韓太子奐,斬首八万二千。