出浦盛清
(出浦昌相から転送)
出浦 盛清(いでうら もりきよ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。真田氏の家臣。実名は昌相(まさすけ)。幸久(ゆきひさ)・頼幸(よりゆき)とも伝わるが誤伝である[3]。信濃国更級郡の上平城主(出浦城主)や、上野国岩櫃城代などを務めた。江戸時代後期に松代藩の家老を務めた河原綱徳が記した『本藩名士小伝』の記載に甲州透破(三ツ者・甲州忍者)の棟梁とあり、忍者として知られるが、後述の忍城攻めにおける活躍を「忍」と誤伝された可能性が指摘されている[4]。
時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天文15年(1546年) |
死没 | 元和9年8月18日(1623年9月12日[1]) |
別名 | 出浦昌相、出浦幸久、出浦頼幸 |
官位 | 主水佐、上総守(介)、対馬守 |
主君 | 武田信玄→勝頼→森長可→真田昌幸→信之 |
父母 | 父:出浦清種 |
兄弟 | 男子、盛清 |
子 | 幸久[2] |
生涯
編集天文15年(1546年)、信濃埴科郡出浦[注釈 1]にて、清和源氏・信濃村上氏の一族である出浦清種の次男として誕生したとされる。
天文22年(1553年)に村上義清が武田信玄に敗れ越後国に逃れると、その後甲斐武田氏に臣従し、甲州透破(三ツ者)を統率した。武田氏滅亡後は織田信長家臣の森長可に属し、本能寺の変の後、長可が海津城から撤退を図った際には、長可配下の信濃国人はほぼ全員が長可を裏切ったが、昌相は撤退に協力した。長可は深く感謝し、別れる際に脇差を与えたという。
その後、天正11年(1583年)から真田昌幸・信之に仕え、小県郡武石村に30貫文を領し、吾妻奉行を拝命した。更級郡上平城主を務め、岩櫃城では最後の城代を務めている。横谷左近と共に吾妻忍び衆を統率して活躍。天正18年(1590年)6月、豊臣秀吉の関東平定では真田軍として北条方が守る忍城攻め(忍城の戦い)でも活躍した。
松代藩では忍者の頭領となり、武者奉行にもなった。この頃は出浦対馬守を称している。関ヶ原合戦後は、上州吾妻郡原町[注釈 2]に住み、 元和9年(1623年)に78歳で死去。
子・幸久は松代藩で1000石を領する家老となっている。
脚注
編集注釈
編集出典
編集出典
編集- 丸島和洋『真田四代と信繁』平凡社〈平凡社新書〉、2015年。ISBN 978-4-58-285793-1。
- 丸島和洋『真田一族と家臣団のすべて』KADOKAWA〈新人物文庫〉、2016年。ISBN 978-4-04-601099-5。