内ゲバ
内ゲバ(うちゲバ)とは、内部ゲバルトの略。ゲバルト(Gewalt)はドイツ語で「威力、暴力」の意味で、同一陣営または同一党派内での暴力を使用した抗争のこと。
一般的には、左翼党派内または左翼党派間、特に日本の学生運動や日本の新左翼党派間での暴力を使用した党派闘争を指す場合が多い。逆に機動隊などの国家権力(公権力)に対する暴力を用いた抗争は外ゲバ(そとゲバ)[1]、同一セクト内の場合は内内ゲバ(うちうちゲバ)[2]とも呼ぶ。
概要
編集国家権力の暴力装置(警察等)に対する暴力=ゲバルトを公然と表明する新左翼であるが、革命という共通した目的をもつ左翼陣営の内部にありながら、路線対立・ヘゲモニー争いを理由に、ある党派が別の党派に暴力を行使する。これを内部ゲバルト、略して「内ゲバ」という。
日本では1950年に日本共産党が所感派と国際派に分裂して以降、日本の学生運動で両派のテロやリンチが頻発したのが始まりである[3][4]。
日本共産党(特に国際派の議会闘争路線)を否定して生まれた日本の新左翼が、1960年代初期には多数に分裂し、ここでも内ゲバが発生した。初めは集団の小競り合い程度だったが、後に個人を拉致しリンチを徹底的に加えるという陰惨なものになっていった[5]。また新左翼の街頭武装闘争が激しくなるにつれて、集団での抗争も武器がエスカレートし激しいものとなっていった。こうして1960年代の後半以降は多くの新左翼党派間に内ゲバが蔓延した。特に中核派・革労協と革マル派との間の内ゲバは激しく、1970年代には殺し合いの状態になり、革マル派が中核派と革労協の最高指導者を暗殺したことで、内ゲバは「戦争」[6]状態となった。なお第四インターなどは内ゲバを否定し続けた。
日本共産党は1955年(昭和30年)の六全協で、従来の武装闘争路線から、議会による平和革命を目指す方向に転換したため、その指導を受ける民青とともに表向きは暴力反対運動を主張してきた。選挙戦略の面からも、左翼が暴力的と見られることに敏感だった。しかし、民青系と新左翼系の内ゲバが起こった際には、民青系と新左翼は互いに暴行を振るい、それを新聞が「内ゲバ」「乱闘」と表現したと主張している。東大闘争でも民青もヘルメットやゲバ棒で武装して闘争を行ったが、代々木系は「正当防衛」と主張している。民青の実力部隊は「あかつき行動隊」とも呼ばれた[注 1]。
犯罪白書によれば内ゲバ事件(1968年~2000年)は件数2020件、死者97名、負傷者5429名[7]だが、2004年迄の死者3名を加えると死者100名である。内ゲバの巻き添え、あるいは攻撃側の誤認、活動資金確保を目的としたノックアウト強盗(内ゲバを装う)によって死傷したノンセクトや一般人も少なくない。これらは「誤爆」と言われた。しかし誤爆について、実行した党派が謝罪したケースはほとんどない。
また、大衆運動、学生運動の全盛期には、それらを内部分裂から自滅へ導くため、公安警察が各セクトにその敵対者の所在情報を巧みにリークするなどし、内ゲバを裏で手引きすることもしばしばあった。敵対党派を互いに「警察の手先」と非難するのはこのためであるが、実際に内ゲバで殺された中には、スパイとして潜入していた警察官もいたという。
このように学生運動が凶暴化し、組織的な殺人を繰り返すようになってからは、社会主義や共産主義に対する幻滅を生み、彼ら新左翼が忌み嫌っていたはずのスターリン主義の思想や、同志を大量虐殺した大粛清とも重なり、運動の衰退を決定づけてゆくこととなる。なお最大の内ゲバ状態にあった中核派と革マル派の抗争については両派トップの会談によって停戦状態になったとされているが、両派ともに公表していない。
また、さらに大抵の内ゲバは組織的な犯行で、盗難車を使って別のメンバーが退路の確保、覆面姿で襲撃を行うことが多いため、誰が襲撃に関与したのか特定しにくい。これに加え、電話線を切断するなどの巧妙な捜査妨害、隠ぺい工作から、白昼に行われたり、機関紙で犯行を自認したような事件でも公訴時効が成立して犯人を検挙できなかった事件は少なくない。
内ゲバの原因
編集内ゲバの原因としては、他派切り崩し、自治会の主導権争い、分派闘争があり、その背景として、各派は自派が唯一正しく、自派以外は有害で殲滅すべき革命の敵とする分派撃滅の思想があるという[8]。とりわけ革マル派は、他党派解体を路線化し組織的・計画的に他党派にテロを仕掛けたため、新左翼に内ゲバを広げることとなった。内ゲバによる犠牲者数は革マル派が突出して多い。 各集団は、内ゲバを、「革命闘争」「武装解放闘争の重大な萌芽」「日帝(日本帝国主義)に対する武装闘争の導火線」であり、革命達成に不可避の崇高な義務と位置づけ、正当化してきた[8]。
主な種類
編集代々木系(日本共産党系)と新左翼系
編集初期の内ゲバの代表例。1968年から1973年の5年間で、内ゲバは1023件(死者 10名)発生し、約半数の488件が代々木系全学連と新左翼系学生集団との抗争であった[9]。
中核派と革マル派
編集内ゲバの最も代表的な事例。死傷者数がその他の内ゲバよりも突出しており、両派ともに新左翼の学生運動・大衆運動で新左翼のうち最大で拮抗していたことによる。両派はもとは同じ組織であったことも「内ゲバ」という現象を印象づけた。立花隆『中核vs革マル』でも知られる。
1960年代の分裂後内ゲバが頻発し、1970年代に入り殺し合いの状態になり、全国の大学や職場、路上で内ゲバが繰り広げられた(東京教育大学生リンチ殺人事件、関西大学構内内ゲバ殺人事件、川口大三郎事件、琉球大学内ゲバ誤認殺人事件等)。特に1975年に革マル派が中核派の最高指導者を殺害(中核派書記長内ゲバ殺人事件)以降は、中核派の革マル派に対する内ゲバはさらに熾烈を極めた(川崎市女子職員内ゲバ殺人事件等)。
1990年代に入って、両者の内ゲバは次第に沈静化し、21世紀になると労働組合や市民団体などの大きな集会で中核・革マル両派が並んで穏やかにビラを配る光景も見られるようになった。革マル派公式Webサイトでの中核派等批判ページ「謀略粉砕・走狗一掃」は2004年を最後に更新が無く[10]、中核派公式Webサイトでの革マル派批判ページ「カクマル批判アーカイブ」は2017年を最後に更新が無い[11]。1990年代初めに中核・革マル両派最高幹部が内ゲバ終結で手打ちしたとも言われるが、真相は不明[要出典]。
革労協(解放派)と革マル派
編集東京大学と早稲田大学の拠点ヘゲモニー争いから始まった内ゲバは、1970年代に入り殺し合いの状態となる。1977年 革マル派による革労協の最高指導者殺害(革労協書記長内ゲバ殺人事件)以降は、革労協の革マル派に対する内ゲバはさらに熾烈を極めた(浦和車両放火内ゲバ殺人事件等)。
革労協の内内ゲバ
編集1989年 社青同解放派(革労協)は革労協元幹部内ゲバ殺人事件を起こし「同志殺し」の「内内ゲバ」を正当化した。更に1999年から2004年にかけて、主流派(狭間派・現代社派)からの反主流派(赤砦社派・木元派)の分裂に際して10人が殺害され、大きな内ゲバ事件がほぼなくなっていた時期の内ゲバは社会に衝撃を与えた。
ブント各派の内ゲバ
編集第2次ブント崩壊の過程で、様々なセクトが内ゲバを繰り広げた。1969年7月、中央大学の社学同内部の分裂抗争による内ゲバで、同志社大学生が死亡した。1969年7月6日、共産主義者同盟赤軍派が共産同執行部さらぎ徳二議長を監禁・暴行、翌日には叛旗派による赤軍派襲撃と塩見らの拉致、その脱出時に赤軍派1名が転落死した。
革マル派と他党派
編集革マル派は他党派解体路線をおしだし、あらゆる新左翼党派にゲバルトや個人リンチを加え、暴力的に大学自治会や労組を掌握していった。
中核派と第四インター統一書記局派
編集第四インター統一書記局派は内ゲバを否定していた党派であった。1984年(昭和59年)1月に、三里塚芝山連合空港反対同盟の分裂をめぐって、中核派が第四インター統一書記局派関係者を襲撃して大怪我を負わせた。死者はいなかったものの、アイスピックで大腿部を刺して、ガス壊疽を発症させ、左脚切断を余儀なくさせられた者や、頭蓋骨骨折の重傷者を出した。これに対して、第四インターは抗議声明を出すものの、元から「内ゲバ主義反対」を主張していたことから、中核派を暴力で反撃することはしなかった。これは、中核派による一方的な内ゲバ殲滅と位置づけられている。ただし第四インターも、拠点校では暴力により、対立党派を威圧することもあったため、常に内ゲバ反対という立場を貫徹していたわけではない。
後に中核派関西地方委員会が、2007年に中核派から分裂した革命的共産主義者同盟再建協議会が、中核派による襲撃を謝罪した。
内ゲバの歴史
編集1950年代
編集- 1950年(昭和25年) - 日本共産党が所感派と国際派に分裂し、両派のリンチが繰り返される。学生運動での初めての内ゲバとなっていく[4]。
- 1951年(昭和26年) -東京大学で、国際派の学生らが国際派内部の反対派学生らをリンチ[4][注 2]。
- 1952年](昭和27年) 6月 - 全学連五回大会で、所感派系の学生が国際派の反戦学生同盟メンバーをリンチ。立命館事件[4]。
1960-67年
編集- 1961年(昭和36年)7月 - 全学連第17回大会で、革共同系学生(マル学同)と、ブント・解放派らつるや連合の間で乱闘衝突。学生運動史上初めての角材を使用した内ゲバであり、セクト間の武装部隊による本格的内ゲバの初めとなった[12]。
- 1963年(昭和38年)9月11日に起きた清水谷公園乱闘事件では、同公園で、中核派、解放派ら連合4派250名の集会に革マル派150名が押し掛け、角材で乱闘した[13]。
- 1964年(昭和39年)7月2日 - 革マル派の拠点早大に、中核派・解放派・構改派の3派が殴りこみ[13]。7・2早大事件
- 1966年(昭和41年)7月4日の全寮連第八回大会で、日共系学生と反日共系学生が大会主導権を巡って乱闘が起きた。日共系学生暴力発動の最初であり、「あかつき行動隊」創設につながった[注 3]。
- 同年9月3日の社青同東京地本九三事件では、社青同東京地本大会で、大会の主導権を巡って解放派と協会派が乱闘、協会派側に百人を越える負傷者をだす。
1967年(昭和42年)
編集- 2月、3月 - 2月28日から3月2日にかけて、善隣学生会館(現、日中友好会館)で日本共産党系と反日共系・華僑学生が衝突。(善隣学生会館事件)
- 10月7日 - 法政大学で、中核派が解放派の高橋幸吉などへリンチ。[14]
- 10月8日 - 羽田闘争において中核派、解放派は内ゲバに備えて角材とヘルメットで武装する[15]。この武装は現場で対機動隊に転化され、初めて機動隊を打ち破った。衝突で、中核派の学生山崎博昭が死亡したことで、以来、暴力事件は頻発していった[16]。
1968年
編集1968年(昭和43年)1月、佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争。2月-4月には、王子事件(米軍王子野戦病院開設阻止闘争[17])、2月26日には成田デモ事件が発生した[16]。
- 2月12日 - 九大教養部学館で中核派と社青同解放派が乱闘、1人重傷。[18]
- 6月24日 - 法大で、革マルと中核派学生が乱闘。[18]
- 7月20日 - 反帝全学連大会でブントと、解放派・ML派の両派が乱闘。[19]
- 9月9日~11日 法政大で中核派と民育系が乱闘。[20]
- 10月21日の国際反戦デーには新宿事件が発生した[16]。
- 11月
- 12月
- 4日 - 早大で解放派と革マル派が乱闘。[26]
- 5日 - 東大駒場寮で解放派と革マル派がお互いの拠点を襲撃しあう。[27]
- 6日 - 東大駒場で解放派と革マル派が内ゲバ。[28]
- 10日 - 東大教養学部(駒場)て革マル派と解放派の対立が激化、駒場寮前で約200人が衝突、45人が負傷。[29]
- 11日 - 警視庁が東大学側に警告書[30]
- 13日 - 東大教養学部で全共闘と代々木系学生・有志学生が衝突乱闘。[31]
- 14日 上智大で代々木系学生と反代々木系学生が乱闘。[32]
- 16日
- 17日 - 東大駒場で反代々木系学生間でリンチ。[35]
- 24日 - 東大で全共闘と民青系(代々木系)の学生が乱闘[36]
1968(昭和43)年の内ゲバ事犯による負傷者数は700人にのぼった[16]。内ゲバ事犯の当初の形態は、偶然的な遭遇に起因するもので,集会・デモ等における主導権争いからの抗争が大部分で、凶器も,プラカードの柄,竹竿,角材などのいわゆるゲバ棒であった[16]。しかし、この頃には、襲撃専門の特別部隊を編成し、綿密な計画を練ったうえでの計画的・組織的な襲撃となり、犯行場所も大学、アジトだけでなく、駅のホーム、百貨店、喫茶店などでも行われるようになり、凶器も、鉄パイプ、バール、まさかり、とび口(先端に金属)、掛け矢など殺傷能力の強いものへと変貌し、攻撃の方法も、頭部をねらう事案が多くなるなど凶悪化した[16]。
1969年(昭和44年)
編集- 1月9日 - 東大闘争勝利総決起集会後、民青系と全共闘が乱闘、重軽傷100人余。東大闘争での内ゲバで火炎瓶が初めて使用され、投げ合いになった[37]。翌10日、東大駒場で全共闘と民青が乱闘。民青は寮の屋上からピッチングマシンで投石し、全共闘側は捕まえた民青を殴打し、拷問した[38]。10日夜から、東大本郷でも安田講堂を占拠する全共闘と民青の間で乱闘[39]。
- 4月28日 - 沖繩デー事件
- 9月17日 - 中核派が埼玉大の反戦連合を襲撃[40]。翌18日、芝浦工大で反戦連合の学生が中核派を襲撃し、埼玉大中核派学生が死亡。内ゲバでの初めての死者となった[41]。
- 10月21日 - 国際反戦デー事件
- 11月16日~17日 - 佐藤首相訪米阻止闘争で2500人超の逮捕者を出した。
- 11月28日、日比谷野外音楽堂の集会で、中核派、解放派ら八派と革マル派が竹竿や投石で乱闘した[42]。12月14日にも、同音楽堂での糟谷君虐殺人民葬で同八派に対し革マル派が襲撃し、1500人規模の乱闘で50人が負傷した[43]。
1969(昭和44年)の内ゲバ事犯による死傷者数は1145人、うち,死亡者2人[44]。街頭をバリケードで封鎖したり、駅で混乱を起こして交通機関を停止させるなどし、凶器も、角材だけでなく、石塊、鉄片、劇薬などが用いられるようになり過激化し、検挙人員は前年には6600人であったが、1969年には1万4700人にのぼった[16]。
1970年(昭和45年)
編集- 3月31日 - 赤軍派によるよど号ハイジャック事件
- 5月22日 - 明治大学商学部十一号館前で学生大会参加への呼びかけを行っていた代々木系の学部自治会約80人に対し、反対する全共闘系の約300人が押しかけて衝突。乱闘により数人が負傷[45]。
- 5月30日 - この日までに警視庁が都内で把握した内ゲバが62件(前年同期38件)と増加傾向を見せたことから、警視庁は各警察署に対して「内ゲバ警戒報」を発出した[46]。
- 6月17日 - 早稲田大学二十二号館前で学生集会を開こうとしていた代々木系の学生約200人と大会粉砕を叫ぶ革マル派の学生約80人が衝突。3人が負傷[47]
- 6月 - 豊島公会堂でのブント政治集会で各派が内ゲバ。[48]
- 8月 - 中核派による東京教育大学生リンチ殺人事件(海老原事件)。中核派と革マル派との間で最初の殺人事件であり、事件後、革マル派は『革命的暴力とは何か』(こぶし書房、1971年)を発表した[49]。
1970(昭和45年)の内ゲバ事犯による死傷者数は527人、うち,死亡者2人[50]。
1971年(昭和46年)
編集- 4月28日 - 日比谷公会堂前でブント各派が乱闘。[51]
- 6月19日 - 沖縄人民党・民青による革マル派町田宗秀死亡事件(琉大事件、革マル派は民青によるリンチ殺害とし、民青は両派衝突の際の事故死としている)
- 8月 - 京浜安保共闘による印旛沼事件
- 12月 - 1972年2月 - 連合赤軍による山岳ベース事件
- 12月 - 革マル派による関西大学構内内ゲバ殺人事件
1971(昭和46)年の内ゲバ事犯による死傷者数は425人、うち,死亡者4人[50]。
1972年(昭和47年)
編集- 11月 - 革マル派による早稲田大中核派シンパと疑われた学生内ゲバ殺人事件(川口大三郎事件)
1972(昭和47)年の内ゲバ事犯による死傷者数は340人、うち,死亡者2人[50]。
1973年(昭和48年)
編集- 9月
- 15日 - 革マル派が拠点であった神奈川大学の革労協(社青同解放派)を襲撃。襲撃自体には成功するが、革労協がレポ活動をしていた革マル派東大生と革マル派国際基督教大生を捕捉し殺害。神奈川大学内ゲバ殺人事件[52]
- 17日 - 革マル派と中核派が東京鶯谷駅で集団戦。国電鶯谷駅内ゲバ事件[53]
- 10月20日 革マル派が中核派のアジトを襲撃。中核派アジト襲撃事件。[54]
1973(昭和48年)の内ゲバ事犯による死傷者数は575人、うち,死亡者2人[50]
1974年(昭和49年)
編集- 1月
- 24日 - 東京世田谷区で、中核派が、引っ越し作業中の革マル派活動家とその友人の東大生4人を襲撃、革マル派とは無関係だった友人2人(22歳、21歳)は鉄パイプ等で殴打され、殺害された[55][56][57]。この事件を中核派は「偉大なる戦果」とし、「わがたたかう人民は、暴力革命と革命的暴力の鉄火のなかで自己を実現し、自己を清めていく」との声明を事件後に発表、立花隆はこの声明を「暴力論の一つの極点として、歴史に残る文書になるだろう」としている。[58]
- 24日 - 中核派が革マル派神奈川大生(24歳)を満員の学生食堂内で殺害。止めに入った一般学生数人も負傷。横浜国大内ゲバ殺人事件[59][60]
- 2月8日 - 中核派が革マル派だとして琉球大生(21歳)を講義中の教室内で殺害。琉球大学内ゲバ誤認殺人事件[61][62]
- 5月13日 - 革マル派が中核派東京都特別区男性職員(37歳)を、東京都千代田区の法政大学から出て国鉄市ヶ谷駅に向かう外濠土手下の路上で襲い殺害。[63]殺されたのは中核派東京東部地区委員長(第一次法政大会戦)。[64]
- 6月
- 9月
- 10月
- 12月1日 - 大阪西区で、中核派数人が、革マル派の元高校教諭(30歳)のアパートに侵入、鉄パイプやハンマーで殴打し、殺害。[70]
1974(昭和49)年の内ゲバ事犯による死傷者数は618人、うち死亡者11人[50]。そのほとんどが革マル派対反革マル派(中核派)の抗争であった[8]。内ゲバは従来大学内で発生することが多かったが、昭和49年には大学内84件、学外202件となった[8]。東京121件、大阪32件、神奈川21件、福岡17件、広島14件、沖縄14件と地方165件で、地方での発生が目立った[8]。昭和49年後半から、学生に代わって職場労働者が抗争の主力となった[16]。かつて内ゲバは、集会の主導権や自派の組織力を誇示するため、旗ざお、ゲバ棒で殴り合うといったケースが多かったが、昭和48年後半から個人へのテロへと傾斜した[8]。 74年の第二次法政大会戦までは、集団戦では鉄パイプで武装した革マル派が中核派・解放派を襲撃し圧倒するケースが多かった。集団戦で勝てない中核派・解放派は特殊部隊で革マル派のアジトを襲い死傷させる個人テロ戦術をとるようになった。 この頃の内ゲバの手口は、各派は、「武装遊撃隊・人民革命軍」(中核派)、「全学連特別行動隊(JAC)」(革マル派)、「プロレタリア突撃隊(後に革命軍)」(解放派)などの非合法・非公然部隊を組織し、標的の動静を徹底的に調査し、相手のすきを突いて、奇襲[8]。マンションの隣室に回覧板と偽って侵入して土足のまま駆け抜けベランダから相手の部屋に突入したり、屋上から縄ばしごを使ってベランダ越しに部屋に侵入した例もあった[8]。相手に襲撃を予告したり、犬や鶏の生首等を送りつけるなどの心理作戦 (革マル派はナーバス作戦と称した)も実行した[8]。
1975年(昭和50年)
編集- 3月
- 6日 - 東京の路上で、中核派が革マル派幹部(33歳)を殺害。革マル派機関紙発行責任者内ゲバ殺人事件[71]。
- 14日 - 埼玉のアパートで、革マル派が中核派の最高指導者(41歳)を殺害。中核派書記長内ゲバ殺人事件(本多延嘉氏)[72]。
- 20日 - 東京のマンションで、中核派が、革マル派郵便局員2名を(25歳、28歳)を殺害[73]。
- 27日 - 神奈川の路上で、中核派が革マル派川崎市役所職員(26歳)を殺害。川崎市女子職員内ゲバ殺人事件。[74]。
- 4月
- 5月
- 6月
- 10月
1975(昭和50)年の内ゲバ事犯による死傷者数は563人、うち,死亡者20人[50]
1976年(昭和51年)
編集1976(昭和51)年の内ゲバ事犯による死傷者数は195人、うち,死亡者3人[50]
1977年(昭和52年)
編集- 2月 - 革マル派による革労協書記長内ゲバ殺人事件
- 4月15日の浦和車両放火内ゲバ殺人事件(浦和市内ゲバ殺人事件)では、浦和市内の県道上において、革労協が、革マル派幹部4人をマイクロバスに閉じ込めて全員を焼き殺した[44][87]。革マル派らの乗車するマイクロバスを、2台の貨物自動車で前後から襲い、つるはし等で車の窓ガラスを破壊し、ガソリンを注ぎ込み、放火するという手口だった[44]。
1977年の内ゲバ事犯による死傷者数56人、うち死亡者10人[50]。
1978年(昭和53年)
編集- 1978年(昭和53年)1月27日には、茨城県の水戸市と勝田市において、茨城大学革マル派学生活動家の居宅等4箇所を同時に襲撃した。窓ガラス、出入口等を破壊して侵入し、就寝中の被害者の頭部などを鈍器で殴打して3人を殺害、3人に重軽傷を負わせた[50][88]。
- 2月10日の大阪市内内ゲバ殺人事件では、活動家1人の居室を,鉄パイプ等を所持した5人が襲撃して殺害した[88]。
- 9月30日の横浜国大内ゲバ殺人事件では、構内にいた30数人を,対立する20数人が襲撃して鉄パイプ等による乱闘となり,1人が死亡し,2人が負傷した[88]。
発生件数32件、死者数7人、負傷者数45人[89]。死傷者数53人とも[88]。
1979年(昭和54年)
編集- 5月 - 中核派による津市内内ゲバ殺人事件[90]。
- 11月 - 革マル派が東京、神奈川の革労協アジト3箇所を襲撃[90]。
1979(昭和54)年の内ゲバ事犯による死傷者数40人(うち死者8人)[91]。鉄パイプ、ハンマー、斧、アイスピック等で殺害し又は負傷させる手口が依然続いた[91]。
1980年代
編集1980年代にも内ゲバ事件は発生した。徐々に発生件数は減少したものの、死者数は1980年に8人、1981年2人、1982年1人、1986年2人、1988年1人、1989年3人で、合計17人だった。
- 1980年(昭和55年)9月に発生した、革労協による東成区路上内ゲバ事件では、盗難車両で相手車両をはさんで停車させ、鉄パイプに出刃包丁を取り付けた凶器で攻撃した[92]。同年10月30日の大田区南千束路上内ゲバ殺人事件では、白昼、南千束の路上で、武装した中核派10数人が、東京工業大生ら革マル派学生5人を鉄パイプ,ハンマー等で襲撃し、全員を殺害した[93][94]。1980年の内ゲバ事犯による死傷者数40人(うち死者8人)[93]。
- 1981年(昭和56年) 7月11日、革労協による7.11渋谷区本町内ゲバ殺人事件では、就寝中あるいは出勤途上の被害者を襲撃し、頭部や顔面等を鉄パイプ等でめった打ちにして殺害した[95][96]。1981年の内ゲバ事犯による死傷者数8人、うち死者2人[96]。
- 1982年(昭和57年)2月24日の2.24荒川区南千住内ゲバ殺人事件では革労協が、就寝中の革マル派活動家の部屋に押し入り、その頭部を鉄パイプ等でめった打ちにして殺害した[97][98]。1982年の内ゲバ事犯による死傷者数8人、うち死者1人[98]。
- 1983年(昭和58年)の内ゲバ事犯による負傷者数5人[99]。
- 1984年(昭和59年)、中核派が成田闘争での主導権をめぐって第4インターに対しテロを開始した[100]。1984年の内ゲバ事犯による負傷者数12人[99]。
- 1985年(昭和60年)2月、革マル派による和光大事件。革マル派が中核派に対し7年ぶりに攻撃姿勢に転じたとされる[101]。1985年の内ゲバ事犯は中核派と革マル派の間で発生し、負傷者数は22人だった[102]。
- 1986年(昭和61年)1月20日午前10時30分頃、京都大学教養部A1号館廊下で、革マル派が中核派で全学連副委員長代行の京大生(25歳)を鉄パイプ様のもので頭部を乱打し、殺害した(京都大学教養部構内内ゲバ殺人事件)[103][104][105]。同年9月1日、国鉄分割・民営化にからんで、中核派が、革マル派だとして国鉄労組幹部を殺害した(真国労大阪地本書記長内ゲバ殺人事件)[106][103]。1986年の内ゲバ事犯による死傷者数12人(うち死者2人)[103]
- 1987年(昭和62年)10月30日、赤羽駅で、革労協が革マル派だとしてJR東日本社員を襲撃(JR東日本赤羽駅構内内ゲバ事件)[107]。1987年の内ゲバ事犯による負傷者数は4人。いずれも国鉄分割・民営化に絡んで発生した労組幹部等に対する路上襲撃事件であった[108]。5年ぶりに革労協狭間派による革マル派に対する内ゲバ事件が発生した[108]。
- 1988年(昭和63年)3月、中核派が、革マル派だとしてJR東日本労組高崎地本委員長を殺害。1988年の内ゲバ事犯による死傷者数23人、うち死者1人[109]。
- 1989年(昭和64/平成元年)2月8日、中核派が、革マル派だとしてJR労組幹部を殺害(東鉄労水戸地本組織部長殺害事件)[110]。同年6月25日、埼玉県川口市で革労協狭間派が元最高幹部を殺害(革労協元幹部内ゲバ殺人事件)[111]。同年12月2日、革労協狭間派が、革マル派だとしてJR組合幹部を殺害[110]。1989年の内ゲバ事犯による死者3人。いずれも新東京国際空港反対闘争に関連する[112]。
1990年代
編集1990年代には1980年代よりもさらに内ゲバ事件の発生件数は減少した。
- 1990年(平成2年)の内ゲバ事犯による負傷者数2人[113]
- 1991年(平成3年)の内ゲバ事犯による負傷者数7人[113]
- 1992年(平成4年)の内ゲバ事犯による負傷者数3人[113]
- 1993年(平成5年)の内ゲバ事犯による死傷者数3人、うち死者1人[113]
- 1995年(平成7年)の内ゲバ事犯による負傷者数4人[114]
- 1996年(平成8年)5月14日、神奈川県で、革労協狭間派が革マル派学生を襲撃し、1名を殺害[115]。1996年の内ゲバ事犯による負傷者数9人、うち死者1人[114]
- 1998年(平成10年)の内ゲバ事犯による負傷者数8人[114]
1999年(平成11年)〜2004年(平成16年):革労協現代社派と革労協赤砦社派
編集- 1999年(平成11年)5月 - 革労協狭間派が現代社派と赤砦社派に分裂し、以降殺人を伴う内ゲバの応酬を繰り返す。1999年は3名の活動家が殺害された。[116]。1999年の内ゲバ事犯による死傷者数4人、うち死者3人[117]
- 2000年(平成12年)2月 - 革労協現代社派と革労協赤砦社派の内ゲバで2名が殺害[116]。2000(平成12年)の内ゲバ事犯による死傷者数13人、うち死者4人[117]。
- 2001年(平成13年)5月 千葉県で、革労協赤砦社派が革労協現代社派の活動家を殺害[118]。
- 2004年(平成16年)6月2日 - 東京の路上で革労協現代社派が革労協赤砦社派の活動家2名を殺害[119]。
一覧
編集内ゲバ事件の発生件数一覧
編集年 | 件数 | 死者数 | 負傷者数 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1968 | 85 | 0 | 700 | 件数のうち代々木系対極左系が約4割(36件) |
1969 | 308 | 2 | 1143 | 件数のうち代々木系対極左系が約3割(175件) |
1970 | 175 | 2 | 525 | 件数のうち代々木系対極左系が約4割(77件) |
1971 | 272 | 4 | 521 | 件数のうち代々木系対極左系が約4割(116件) |
1972 | 183 | 14 | 338 | 件数のうち代々木系対極左系が5割強(84件)死者の多くが、連合赤軍の山岳ベース事件の犠牲者 |
1973 | 238 | 2 | 573 | 件数のうち極左間が約7割(164件) |
1974 | 236 | 11 | 607 | |
1975 | 229 | 20 | 543 | 中核派対革マル派が激化、死者数のピーク |
1976 | 91 | 3 | 192 | |
1977 | 41 | 10 | 47 | 革労協対革マル派が激化 |
1978 | 32 | 7 | 45 | |
1979 | 22 | 8 | 32 | |
1980 | 15 | 8 | 32 | |
1981 | 9 | 2 | 6 | |
1982 | 6 | 1 | 7 | |
1983 | 3 | 0 | 5 | 成田闘争が熱田派と北原派に分裂、中核派が「党派闘争宣言」 |
1984 | 11 | 0 | 12 | |
1985 | 12 | 0 | 22 | 中核派対革マル派が全件 |
1986 | 9 | 2 | 10 | |
1987 | 4 | 0 | 4 | |
1988 | 5 | 1 | 21 | 中核派対革マル派が減少 |
1989 | 3 | 3 | 0 | 革労協分裂(狭間派対労対派)が激化 |
1990 | 4 | 0 | 2 | |
1991 | 2 | 0 | 7 | |
1992 | 4 | 0 | 3 | |
1993 | 2 | 1 | 2 | |
1994 | 0 | 0 | 0 | 発生なし |
1995 | 2 | 0 | 4 | |
1996 | 2 | 1 | 8 | |
1997 | 0 | 0 | 0 | 発生なし |
1998 | 4 | 0 | 8 | |
1999 | 5 | 3 | 1 | 革労協再分裂(現代社派対赤砦社派) |
2000 | 6 | 4 | 9 | (白書は2000年迄、内ゲバ事件自体は2004年迄発生) |
主な内ゲバ殺人事件一覧
編集発生日 | 事件 | 加害側 | 死者側 | 死者数 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
1969年7月 | 中央大学内ゲバ事件 | 社学同 | 社学同 | 1 | 社学同の内部抗争で同志社大生が死亡 |
1969年9月 | 芝浦工大大宮校舎内ゲバ事件 | 反戦連合 | 中核派 | 1 | 埼玉大生が2階から突き落とされ死亡 |
1970年8月3日 | 東京教育大学生リンチ殺人事件 | 中核派 | 革マル派 | 1 | 革マル派は中核派に「階級的報復」宣言 |
1971年6月 | 琉球大生内ゲバ殺人事件 | 民青 | 革マル派 | 1 | |
1971年10月20日 | 横浜国大内ゲバ殺人事件 | 中核派 | 革マル派 | 1 | 美術学院生が殺害される。革マル派は「中核派絶滅」宣言、中核派は「カクマルに対する全面的せん滅戦争」宣言 |
1971年12月4日 | 関西大学構内内ゲバ殺人事件 | 革マル派 | 中核派 | 2 | 同志社大生・京大生が鉄パイプで殺害される |
1971年12月 〜1972年2月 |
山岳ベース事件 | 連合赤軍 | 連合赤軍 | 12 | 総括と称したリンチ殺人。メンバーの一部は、あさま山荘事件を起こす。 |
1971年12月15日 | 三重大学構内内ゲバ殺人事件 | 革マル派 | 中核派 | 1 | 鉄パイプで殴打[121][122] |
1972年4月28日 | 大阪城公園事件 | 革労協 | 革マル派 | 1 | 衝突後のリンチ殺人 |
1972年11月8日 | 川口大三郎事件 | 革マル派 | (中核派と誤認) | 1 | 第三次早大闘争で革マル派糾弾、後に復権 |
1973年9月15日 | 神奈川大学内ゲバ殺人事件 | 革労協 | 革マル派 | 2 | 襲撃側の革マル派側を鉄パイプで殺害 |
1974年1月24日 | 世田谷区内ゲバ殺人事件 | 中核派 | 革マル派 | 2 | 引越し作業中に鉄パイプ等で殴打 |
横浜国大内ゲバ殺人事件 | 中核派 | 革マル派 | 1 | 経済学部食堂内で鉄パイプ等で殴打 | |
1974年2月6日 | 琉球大学内ゲバ誤認殺人事件 | 中核派 | (革マル派と誤認) | 1 | 教室で授業中、革マル派は「誤爆」と批判 |
1974年5月13日 | 区役所職員内ゲバ殺人事件 | 革マル派 | 中核派 | 1 | 法政大学前で鉄パイプ等で殴打 |
1974年6月7日 | 大阪産業大生内ゲバ殺人事件 | (不明) | 革マル派 | 1 | アパート自室で就寝中に鉄パイプ等で殴打 |
1974年9月10日 | 東京郵便局員ゲバ殺人事件 | 革マル派 | 中核派 | 1 | アパート自室で就寝中に鉄パイプ等で殴打 |
1974年9月24日 | 大阪市立大生内ゲバ殺人事件 | 革マル派 | 中核派 | 1 | 守口市中央観光バス前で鉄パイプで殴打 |
1974年10月3日 | 東京郵便局員ゲバ殺人事件 | 中核派 | 革マル派 | 1 | 品川公会堂付近を歩行中に鉄パイプで殴打 |
1974年10月15日 | 代々木駅内ゲバ殺人事件 | 革マル派 | 中核派 | 1 | 歩行中に鉄パイプで殴打 |
1974年12月1日 | 大阪元高校教諭殺人事件 | 中核派 | 革マル派 | 1 | アパート自室で就寝中に鉄パイプ・ハンマー等で殴打 |
1975年3月6日 | 東京革マル派幹部殺人事件 | 中核派 | 革マル派 | 1 | 荷物発送中に鉄パイプで殴打 |
1975年3月14日 | 中核派書記長内ゲバ殺人事件 | 革マル派 | 中核派 | 1 | 革マル派が中核派最高幹部を殺害、アパート自室で就寝中に鉄パイプ・ハンマー等で殴打、中核派が「戦争」宣言 |
1975年3月27日 | 川崎市女子職員内ゲバ殺人事件 | 中核派 | 革マル派 | 1 | 川崎市役所から出たところを鉄パイプで殴打、初の女性死者 |
1975年4月1日 | 東京元革マル派全学連幹部内ゲバ殺人事件 | 中核派 | 革マル派 | 1 | 喫茶店内で電話中に鉄パイプで殴打 |
1975年4月26日 | 東京元革マル派幹部内ゲバ殺人事件 | 中核派 | 革マル派 | 2 | 喫茶店内で飲食中に鉄パイプで殴打 |
1975年5月7日 | 鹿児島高校教諭内ゲバ殺人事件 | 中核派 | 革マル派 | 2 | アパート自室で就寝中に頭部等を殴打 |
1975年5月25日 | 岡山大生内ゲバ殺人事件 | マル青同 | (ノンセクト) | 1 | マル青同のマイクロバス突入により轢死 |
1975年6月4日 | 大阪経済大生等内ゲバ殺人事件 | 中核派 | 革マル派 | 3 | 大阪市立大の芝生で鉄パイプ等で殴打 |
1975年6月19日 | 東京郵便局員内ゲバ殺人事件 | 中核派 | 革マル派 | 2 | 路上通行中に鉄パイプで殴打 |
1975年6月24日 | 静岡別荘内ゲバ殺人事件 | 革マル派 | 革労協 | 1 | 歌手加藤登紀子の別荘で就寝中に鉄パイプで殴打 |
1975年7月17日 | 新橋駅内ゲバ殺人事件 | 中核派 | 革マル派 | 1 | 乗車した革マル派約400人が新橋駅到着時に中核派約400名に竹竿・石等で襲撃される |
1975年9月12日 | 埼玉国学院生内ゲバ殺人事件 | 中核派 | 革マル派 | 2 | 帰宅途中に鉄パイプで殴打 |
1975年10月8日 | 立正大内ゲバ殺人事件 | 革労協 | 革マル派 | 1 | 立正大構内で情宣中に鉄パイプで殴打、火炎瓶を投てき |
1975年10月27日 | 東京大内ゲバ殺人事件 | 革労協 | 革マル派 | 1 | 東大構内で情宣中に鉄パイプ等で殴打 |
1975年12月14日 | 金沢大生内ゲバ殺人事件 | 中核派 | 革マル派 | 1 | アパートで就寝中に鉄パイプ・バール等で殴打 |
1976年2月26日 | 所沢市郵便局員内ゲバ殺人事件 | 革マル派 | 中核派 | 1 | 喫茶店内で襲撃[123][124] |
1977年2月11日 | 革労協書記長内ゲバ殺人事件 | 革マル派 | 革労協 | 1 | 革マル派が革労協最高幹部を殺害、革労協が報復宣言 |
1977年4月15日 | 浦和車両放火内ゲバ殺人事件 | 革労協 | 革マル派 | 4 | 革労協の革マル派への報復 |
1977年5月13日 | 盛岡市高校教師内ゲバ殺人事件 | 中核派 | 革マル派 | 1 | 鉄パイプで殴打[125] |
1978年1月27日 | 水戸市、勝田市内ゲバ殺人事件 | 革労協 | 革マル派 | 3 | アジト4箇所を同時襲撃 |
1979年3月5日 | 大田区革マル派神奈川県委員長内ゲバ殺人事件 | 中核派 | 革マル派 | 1 | 路上で鉄パイプ・ハンマーで殴打[126] |
1979年3月16日 | 千代田区元日大生内ゲバ殺人事件 | 革労協 | 革マル派 | 1 | 路上で鉄パイプで殴打[126] |
1979年5月7日 | 津市三重大生内ゲバ殺人事件 | 中核派 | 革マル派 | 1 | [126] |
1979年11月16日 | 新宿区外苑東通り路上内ゲバ殺人事件 | (不明) | 革マル派 | 2 | 路上で鉄パイプ・ハンマーで殴打 |
1979年12月8日 | 金沢大生内ゲバ殺人事件 | 中核派 | 革マル派 | 1 | [126] |
1980年5月5日 | 千葉県旅館「権兵衛」内ゲバ殺人事件 | 革労協 | (革マル派と誤認) | 1 | 合宿中に襲撃され助教授死亡、革労協は革マル派と主張 |
1980年7月20日 | 練馬区郵便局員内ゲバ殺人事件 | 中核派 | 革マル派 | 1 | 路上で鉄パイプで殴打 |
1980年9月19日 | 自治労労働者内ゲバ殺人事件 | 中核派 | 自治労 | 1 | [127] |
1980年10月30日 | 大田区立洗足池図書館前内ゲバ殺人事件 | 中核派 | 革マル派 | 5 | 路上で頭部を殴打、1件5名は最多 |
1981年7月11日 | 渋谷区国学院大生内ゲバ殺人事件 | 革労協 | 1 | 鉄パイプを発見。部屋からは革マル派のものとみられるビラが見つかったが、公安部は被害者が活動家であったかどうかはつかんでいない。[128] | |
1982年2月24日 | 荒川区国学院大生内ゲバ殺人事件 | 革労協 | 革マル派 | 1 | 鉄パイプで殴打。[129] |
1986年1月20日 | 京都大学内ゲバ殺人事件 | 革マル派 | 中核派 | 1 | 構内でオルグ中に鉄パイプで殴打 |
1986年9月1日 | 国労幹部同時多発襲撃事件 | 中核派 | 真国労 | 1 | 大阪・兵庫・埼玉の6箇所同時襲撃 |
1988年3月3日 | 鉄労幹部襲撃事件 | 中核派 | 東鉄労 | 1 | 群馬県の自宅で就寝中に襲撃 |
1989年6月25日 | 革労協元幹部内ゲバ殺人事件 | 革労協 | (革労協元幹部) | 1 | 革労協の内部抗争激化 |
1989年12月2日 | JR総連総務部長内ゲバ殺人事件 | 革労協 | JR総連 | 1 | |
1999年7月2日 | 明大生協理事殺人事件 | 革労協(赤砦社派) | 革労協(現代社派) | 1 | 6/13 赤砦社派は現代社派へ「全面戦争」「無制限・無制約の革命的テロ」を宣言 |
1999年7月21日 | 明大生協職員殺人事件 | 革労協(現代社派) | 革労協(赤砦社派) | 1 | |
1999年11月14日 | 福岡県委員会議長殺人事件 | 革労協(赤砦社派) | 革労協(現代社派) | 1 | |
2000年2月8日 | 真鶴駅学生活動家殺人事件 | 革労協(現代社派) | 革労協(赤砦社派) | 1 | 列車内で刺殺、出刃包丁の初使用 |
2000年2月9日 | 現代社派襲撃部隊殺傷事件 | 革労協(赤砦社派) | 革労協(現代社派) | 1 | |
2000年8月30日 | 鶯谷駅明大生協組合幹部殺人事件 | 革労協(現代社派) | 革労協(赤砦社派) | 1 | 駅前で小型出刃包丁等で刺殺 |
2000年12月10日 | 革労協総務委員殺人事件 | 革労協(赤砦社派) | 革労協(現代社派) | 1 | |
2001年5月16日 | 革労協総務委員殺人事件 | 革労協(赤砦社派) | 革労協(現代社派) | 1 | |
2004年6月2日 | 赤砦社三ノ輪アジト襲撃事件 | 革労協(現代社派) | 革労協(赤砦社派) | 2 | アジト前で出刃包丁・ハンマー等で襲撃、赤砦社派は報復せず、事実上の停戦に |
その他
編集- 恋人同士でありながら中核派に属した奥浩平と革マル派のシンパとなった中原素子。愛し合っていた2人だが、党派の争いが激化していく中で2人の関係も引き裂かれていく。それが理由の一つで奥は自殺する。彼の遺稿『青春の墓標』に描かれた2人の関係は「学生運動のロミオとジュリエット」と呼ばれた。
- 中核派最高幹部陶山健一と、革マル派幹部鈴木啓一(森茂)は血をわけた兄弟。2人そろって東大に入学し革共同に加盟するが、分裂後はそれぞれ中核派と革マル派に分かれた。平成9年1月の陶山の葬儀には鈴木の姿はなかった。
- この左翼の内ゲバから転じて、政治・思想分野に限らず同じ組織に属する人間同士の対立、不毛な仲間割れ全般が「内ゲバ」と呼ばれるようになり、本来用いられた意味の「ゲバルト」よりも広く一般に定着した。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ 「機動隊と乱闘することを外ゲパといった」(『全共闘グラフィティ』p118)
- ^ 警備警察50年
- ^ 「全学連第五回大会で、旧中執二十七人を追放する、共産党中央支持派の玉井新執行部が誕生するのだが、この大会では、新執行部系所感派「人民警官隊」による国際派の反戦学同系活動家に対するリンチ事件が起こっている。これは、反戦学同が帝国主義の手先であり、CIC(アメリカ陸軍情報部〉のスパイだとして、十数人を密室に監禁、リンチを加えたもので、のちに、七0年代に入って激化するグ内ゲバ事件4 のはしりということができよう。」(高木正幸『全学連と全共闘』)
- ^ a b c d 「日本の学生運動の内ゲバは、日本共産党が一九五O年に所感派と国際派に分裂し、両派のテロリンチが繰り返されるというなかで最初に発生しています。五二年六月に開催された全学連五回大会で、国際派の反戦学生同盟メンバーが所感派系の学生にリンチされる事件(立命館事件)がおこりました。お前らは「帝国主義の手先、CIAのスパイだ」というレッテル貼りです。リンチを受けた一人である松本忠明は自殺しましてるおた。しかしその前年、東京大学では、国際派の武井昭夫らが「スパイ容疑」で不破哲三らをリンチしていました。」(荒岱介 2008, p. 187)
- ^ 「36年(1961年)に始まった極左暴力集団による内ゲバの形態は、47年(1972年)ころまでは、全学連大会や学園紛争、大衆運動の中でのトラブルや主導権争いのため発生した集団遭遇戦が大半を占めていたが、48年(1973年)からは、被害者の再起不能や殺害をねらった個人「テロ」の様相を深めた。」(警察庁 1988)
- ^ 元々「内ゲバ」は、「党派は違えど、同じ新左翼に属する」とする立場から、「左翼の仁義」と称される一定のルール(死者は出さない、警察には介入させない等)に則って行われていた。しかし、「内ゲバ」がエスカレートし死者が続出するような段階になると、「内ゲバ」を行っている党派はお互いを「敵対集団」「反革命」と規定し、対立党派は「新左翼内部」ではないと見なすようになった。この段階に至った党派は、対立党派への暴力はもはや「内ゲバ」ではないとし、「戦争」と表現する。
- ^ a b c 犯罪白書
- ^ a b c d e f g h i 昭和50年 警察白書 第7章 公安の維持 3 暴走を続ける極左暴力集団
- ^ 昭和48年 警察白書 第7章 公安の維持 表7-9 内ゲバ発生状況(昭和43~47年)
- ^ 謀略粉砕・走狗一掃 - 革マル派
- ^ カクマル批判アーカイブ - 中核派
- ^ 「業をにやしたマル学同側は、近くの材木屋から大量の角材を買ってきて、これで武装して突撃した。これが角材が登場したはじめての事件であるとともに、セクト間の武装部隊による本格的内ゲバのはじめである。(略)この角材によるゲバを指導したのが、マル学同に移行した清水丈夫全学連書記長である。(略)しばしば、今日の殺し合いにまでエスカレートした内ゲバが、どこからはじまったのかの議論になると、結局、このときの角材使用開始にまで話がさかのぼっていく。マル学同は、ほぼ全体が革マル派に移行したが、清水氏は後に中核派に移行したので、この日まで議論をさかのぼらせても、互いに相手側に責任をなすりつけあうことになる。」(立花隆 1975, 上巻)
- ^ a b 立花隆 1975, 上巻
- ^ 「10月6日に日比谷公園でおこなわれた全学連の統一行動で、やっかいな問題が起こったのだった。法大処分闘争に関する中核派のビラの中で、ブントと解放派が批判されていたのだが、これに怒った解放派の全学連書記局員が中核派の書記局員・丸山淳太郎さんを殴ってしまったのである。その場はなんとかおさまったが、明くる7日のこと。8日の行動の打ち合わせで法政大学に行った解放派の書記局員・渡木繁さんと高橋孝吉さんを中核派が拉致し、長時間のリンチをくわえる事態になってしまったのである。大闘争の前日に、三派全学連はとんでもないことになったわけだ。中央大学に集まっていた社学同や解放派は堂の長椅子を解体してゲパ棒を作ると、法大に押しかけて抗議し、解放派の書記局員を救出した。双方がゲパ棒を押し立てての対峠だったけれども、さいわい直接の衝突はなかった。」(荒岱介 2008)
- ^ 高木正幸『全学連と全共闘』
- ^ a b c d e f g h i j k 昭和50年犯罪白書,第3編第2章第3節過激派集団の犯罪,1975(昭和50),法務省
- ^ テロ・ゲリラを展開し暴力革命を目指す過激派『焦点269号、警備警察50年』警察庁平成16年
- ^ a b c 毎日新聞社 1998
- ^ 「前日に続き反帝全学連の主流社学同統一派と反主流の社青同解放、社学同ML両派が乱闘し、全学連大会流れる」
- ^ 「9/11 3日間、中核派と民育系が乱闘した法大で1000人超す一般学生が両派を学内から追い出し事態収拾」(毎日新聞社 1998)
- ^ 「11/11 大学統合移転で紛争の静岡大法経短大学部で、大学占拠をめぐり代々木系と反代々木系学生が乱闘、40人けが」(毎日新聞社 1998)
- ^ 「『大衆団交』貫徹を要求する全共闘は全学バリケード封鎖を予告し、これに反対する白共系学生と乱闘となり、約70人が負傷。」「図書館封鎖で全学封鎖めざす全共闘と代々木系が角材で乱闘」(毎日新聞社 1998)
- ^ 「教養では代々木・反代々木の衝突に教官がスクラム組み割り込んで拡大を阻止。」(毎日新聞社 1998)
- ^ 「図書館前(本郷)で学生5000人と教官800人による提案集会が3時間余開かれるが、加藤総長代行の発言はたった3回、しかも『なぜ、私のいうことを聞いてから議論しようとしないのですか』がただ1回ハッキリ聞こえただけ。大学当局の『提案集会』に対して全共闘は『粉砕』、日共系は『阻止』集会で対抗し加藤代行を奪い合ったため。流会後、両派が衝突を繰り返した」(毎日新聞社 1998)
- ^ 解放派の動員力低下を、革マル派は解放派を叩き潰すチャンスと見た。一九六八年十一月もおしつまったある日、「党派折衝」に名を借りて革マルは早稲田の解放派の主だったメンバーを呼び出してテロを加える計画をたてた。組織性に欠ける解放派は全学のキャップだった浜口竜太(りゅうた)ひとりがのこのことあらわれ、テロでやられたのは浜口一人だった。早稲田の解放派メンバーは早稲田構内に入れない状態になり、東大駒場の教職員会館を拠点にして全国動員で革マルとの武装対峙に入った。(高原駿『沈黙と軌跡』)
- ^ 『12・8緑会のビラ』「ながらく早大で第1政経自治会、文連、東大闘争等をめぐり争っていた革マルと社青同解政派」(毎日新聞社 1998)
- ^ 『12・8緑会のビラ』「革マルと社青同解政派は、一昨夜早大で乱闘を行なった。これをめぐり5 日夜 10時頃 東C社青同解放派約70名は駒場寮マル研の(革マル派の部屋)を襲い、洞田某を監禁し、立て看に油をかけて燃やした。急をきいた革マル(早大・東大etc)約50人は完全武装でかけつけ、社思研(社青同解放派の部屋)を襲った。この襲撃で白形、松本ら10人近くが負傷し、うちひとりが脳内出血の重傷を負った。」(毎日新聞社 1998)
- ^ 「12/6 東大教養学部駒場寮で社青同解放派の部屋に早大等の革マル派とみられる学生約50人が角材・白ヘルメット姿で押しかけ乱闘、止めに入った寮生8人が負傷」(毎日新聞社 1998)
- ^ 「教養学部での反代々木系革マル派と社青同解放派の学生同士の対立激化し、駒場察前で200人が衝突」(毎日新聞社 1998)
- ^ 「警視庁は田村二郎教養学部長に対し『今後、衝突があった場合、大学側の要請がなくても警官を学内に立ち入らせることもある』との警告書を渡す」(毎日新聞社 1998)
- ^ 「東大教養学部で全学集会への学生代表団を選ぶ代議員大会を開こうとした全学連行動委員会(代々木系)、一般学生有志とこの大会に反対する全共闘が構内で衝突、乱闘で教官ら23人けが。午後代々木系が他大生含む角材持った500人の行動隊で守りを固め大会を強行し代表選ぶ。法学部学生大会でスト解除案否決」「6日からの争いで重軽傷者は計128人を超えた。」(毎日新聞社 1998)
- ^ 「上智大でバリケードを撤去しようとする一般学生・代々木系学生とこれを阻止しようとする反代々木系学生が乱闘」(毎日新聞社 1998)
- ^ 「反代々木系学生同士がまた衝突、一部は井の頭線駒場東大前駅ホームでも乱闘したため、機動隊が出動し13人逮捕」(毎日新聞社 1998)
- ^ 「法政大で反代々木系と代々木系の学生それぞれ200人が投石、殴り合い。反代々木系50人が飯田橋駅に逃げ込み、国電ダイヤ乱れる」(毎日新聞社 1998)
- ^ 「反代々木系学生聞の乱闘が続く東大駒場で翌未明にかけてリンチ事件があり、2人重体、12人けが」(毎日新聞社 1998)
- ^ 「12/24 東大医学部学生大会に全共闘が殴り込み代々木系の民主化行動委の学生と乱闘」(毎日新聞社 1998)
- ^ 「日共民青はそれを阻止せんとしゲバルト部隊が派遣されていた。集会後全共闘は法および経済学部に突入し、再占拠を企てた。本郷全体でゲバルトになったのである。タ闇の中、教育学部屋上で民青との問に火炎ピンの投げ合いになったのを思い出す。火炎ビンは安田講堂内ではこのとき既に、多量に作られていたが、表だって使用されてはいなかった。(略)バリケードを築き、投石し合う中、村松はライターで布切れに火をつけたウイスキーピンを投げた。ガチャン、ボワ!と青い炎が広がり、投げつけられた民青はワァ!と後方に逃げて行った。追いかける私たち、そして再び火炎ビンが投げられたが、今度は不発だった。途中で火が消えてしまったのだ。それを拾った暗闇の中の民青は、火をつけて逆にこちらに投げ返した。放物線を描いて小さな炎が飛んで来て、それが私の足許に落ちた。次の瞬間、ボワァと青い炎が私の足許に広がった。「ワァ!」と思わず飛びのいた。「民育が火炎ピン投げんのか」と叫ぶと、「そっちが投げたんだろ」と聞の中から言い返してきた。」(荒岱介 2001)
- ^ 「民青が翌日代議員大会でスト解除を決談しようとするのを粉砕するためだ。(略)民青の代議員大会は寮食堂で開かれるということで、寮食と明、中、北寮をめぐる攻防になった。(略)。明寮への突入を試みたが、屋上からすさまじい勢いで投石され、眼の前でパタパタと人が倒れた。なんと日共民青はピッチングマシンを持込み、それで全共閥系の学生めがけて発射していたのである。ヒユン、ヒユンと瓦を砕いたとおもわれる石が、すさまじいスピードでしかもカーブしながら飛んできた。夜間なので弾は全く見えない。寮の廊下には畳が積み上げられ、中に突入することもままならぬのだ。(略)全共闘側は日大全共闘を中心に捕まえた民青を拷問した。ボコボコにぶん殴ったあげく、南京袋をかぶせ、紐で縛って引っ張り回した。夜は寒かったのであちらこちらで机や椅子がこわされ焚き火がたかれたが、その火の中にまで引っ張り回そうとするのを見たときはたまげた。(略)11日に捕虜交換をしたが、民青は戸板にのせて持っていくしかない人もいた。」(荒岱介 2001)
- ^ 「10日夜から日共民青は安田講堂に対しても攻撃をかけ、これは占拠中の東大全共闘と支援に駆けつけた中大会中闘でしのいだが、リヤカーにピッチングマシンを積んで撃ちながら攻めてきたという。法文一、二号館のバリケードがその結果解除された。この攻撃は11日午前中まで続き、全共闘側は火炎ピンを投げて抵抗した。本郷にやってきたのは地区民(地域の日共党員) で、1000名はゆうにこえる大部隊だったという。」(荒岱介 2001)
- ^ 「事件の経緯は、前夜の9月17日から始まる。中核派の全学連書記局と中心メンバーたちが、バリケード封鎖中の埼玉大学に襲撃をかけた。理工学部の親反戦連合系のボックスにあるヘルメットをかぶり、武器を調達したという。目標はただ1人、反戦連合のリーダーで元中核派、天才的なアジテーションで人気の高いNだ。(略)内部を知り尽くしている滝沢さんの手引きによる襲撃の前に、彼らは一気に蹴散らされた。そこここで逃げ遅れた学生が叩きのめされる。中核派は標的のNを確保して、車に押し込む。埼玉の山中に連行する途中、人違いに気付いたようだ。拉致されたのは理工学部のTだった。ひと気の無い山道に放り棄てたらしい。その頃、北浦和キャンパスには、急を聞いて駆け付けた学生たちが三々五々集っていた。当初、襲撃したのは革マルだと思われた。バリケードの破壊は凄まじかった。埼大中核派も、滝沢さんを除いて駆け付けて来た。彼らは何も知らされていない。襲撃を許さない、Tを何としても取り戻す。意志一致が進む。しかし後から戻って来た学生によって、「滝沢がいた、中核だ」という事が明らかになった。埼大中核派は、非難を一身に浴びて弁明する。「聞いていない、事実だとすれば自己批判する」。Tが拉致された先は、芝工大・大宮キャンパスだろうと目星がついた。今もこの瞬間、Tはリンチに遭っている。救出に行こう。志願者たちで行動隊を組織する。(略)熟睡中に、不意を衝かれた書記局や、芝工大中核派は追い詰められ、2階から4人が転落した。その1人、滝沢さんが死んだ。「内ゲバによる最初の死者」だった。」『狂おしく 悩ましく』元中核派・編集局員
- ^ 高橋和己『内ゲバの論理』「九月一八日、『大学立法反対などでバリケード封鎖中の芝浦工大で、同校二号館にたてこもっていた反日共系全学闘の学生が、十人前後の学生に寝込みを襲われ、二階の窓から落とされ、うち一人がコンクリートの地面にたたきつけられて死亡、三人が重傷を負った』事件である。事後にあきらかになった事実は、芝浦工大の二号館校舎にたてこもっていたのは、革マル、中核、四トロなど反代々木系学生。そして殺された滝沢紀昭はじめ負傷者はすべて中核系学生。襲撃したのは、埼玉大学において中核派と対立していた反戦連合の学生二十余名。襲った理由は埼玉大学で中核と反戦連合が対立していて、前日に内ゲパがあり、反戦連合系学生一人が人質として芝浦工大へ連行されていて、その人質の奪還ないしは仕返しのために襲撃したものという。」
- ^ 「双方竹ザオをふりまわし、投石しあって大乱戦。負傷者十数人がでた。」(立花隆 1975, 上巻)
- ^ 「双方合わせて1500人が日曜日の日比谷公園を舞台に、大乱闘をくり広げ、50人が負傷」(立花隆 1975, 上巻)
- ^ a b c 昭和52年犯罪白書,第一編第1章第4節過激派集団の犯罪,1977(昭和52),法務省
- ^ 名大では学生同士乱闘『朝日新聞』1970年(昭和45年)5月31日朝刊 12版 3面
- ^ 警視庁「内ゲバ警戒報」出す 都内では昨年の倍『朝日新聞』1970年(昭和45年)5月31日朝刊 12版 3面
- ^ 早大でまた内ゲバ『朝日新聞』1970年(昭和45年)6月17日朝刊 12版 22面
- ^ 「豊島公会堂で開かれたブント政治集会では、叛旗・情況派ブロックとのゲバルト闘争になった。三上治が演説をしているさなか、会場脇の扉から青竹が次々に運び込まれた。こちらも用意していたので会場の中央でぶつかり合った。パチンパチンと竹竿で競り合うなかで、三上が声を張り上げて演説していたのが印象的だ。」(荒岱介 2001)
- ^ 笠井潔、絓秀実、外山恒一『対論 1968』 集英社新書、2022年、p.160-161.
- ^ a b c d e f g h i 昭和53年犯罪白書,第二節過激派集団の犯罪,2内ゲバ事犯,1978(昭和53),法務省
- ^ 「七一年の四・二八闘争で、ブント内分派闘争の決着をつける展開になっていった。当日は250人ぐらいの竹竿部隊が日比谷公園前で相互対峠し、集会参加者が見守るなか一斉にゲバルトになった。最初は(戦旗派と)赤軍派残党や関西派を中心にした二一・一八ブントとの対決だった。ゲバルトそのものは牛乳ピンを投げ、鉄パイプを持った迎撃隊を作った私たち(戦旗派)の勝ちだった。竹竿でのゲバルト戦は、投石や欽パイプには勝てない。戦術をエスカレートしたほうがいつも戦術的には有利なのだ。つぎは息をつく暇もなく、叛旗派の竹竿部隊が私たちの前に立ちはだかった。これも数秒で私たちの完勝だった。」(荒岱介 2001)
- ^ 「反帝学評約50人が「9.15ミッドウェー母港化反対闘争」に向けて前日から拠点校の神奈川大学に泊まり込んでいたところ、9月15日午前1時45分ごろ、革マル派約150人がヘルメット、覆面、鉄パイプの武闘スタイルでこれを襲撃し、相互に多くの負傷者が出た。この間にあって、反帝学評約20人、レンタカーを使って反帝学評の動向を視察していた革マル派2人を襲い、鉄パイプで殴る、突く、ける等の暴行を加えて両名を殺害し、現場から5キロメートル離れた浄水場裏に死体を遺棄した。」(警察庁 1974)
- ^ 「9月17日午前7時30分ごろ、都下国電鶯谷駅構内に中核派約150人が集合していたところ、突然鉄パイプで武装した革マル派約80人がこれに襲いかかった。このため、駅構内及び線路上で乱闘となり、山手線、京浜東北線の一部が数分間電車の運行を中止した。この間、双方合わせて7人が負傷し、救急車で付近の病院へ収容されたほか、ホームにいた乗客が巻き添えになった。」(警察庁 1974)
- ^ 「10月20日午前4時ごろ、東京、横浜、京都、大阪の各地で革マル派約200人がいっせいに中核派のアジト12箇所を鉄パイプ、竹ざお、木槌、ガスバーナー等で襲撃し、双方合わせて13人が負傷した。」(警察庁 1974)
- ^ 「世田谷区のアパート「ふく荘」前で引っ越し作業中、中核派と思われる数人に鉄パイプ等で殴打され同日死亡した。」(警察庁 1975)
- ^ 難を逃れたうちの1人は後の仏文学者石田英敬だった。「革マル派活動家石田君が、最近中核派に狙われているらしいと気づき、住所を変えようとしていた。この日、三人の友人に手伝ってもらって朝から引越し作業をしていた。(略)石田君は二階から飛び降りて夢中で逃げ、引っ越しの手伝いにきていたもう一人の友人も逃げたが、富山隆君は逃げる途中でころんでしまった。そこを囲まれてバール、鉄パイプでメッタ打ちにされた。また、二階にいた四宮俊治君も逃げられないでいる所を踏みこまれ、これまたメッタ打ち。」立花隆 1975
- ^ 「わたしは引っ越しの当日に運良く逃げおおせた石田英敬のことを考えてみた。二十歳の時点で親友の同級生二人を目の前で殺害され、かろうじて生き延びた石田の心の傷と恐怖を想像すると、眩暈のような感覚に襲われる気がした。」(四方田犬彦 2009)
- ^ 『革共同通信』「一・二四の偉大なる戦果を実現したわが同盟と、そのもとに結集するたたかう全人民の志気はいよいよ高まり、その精神はいよいよ純潔である。(略)わがたたかう人民は、暴力革命と革命的暴力の鉄火のなかで自己を実現し、自己を清めていくのである。」(立花隆 1975, 下巻)
- ^ 「(神奈川)横浜国大経済学部食堂内で、中核派と思われる数人に鉄パイプ等で殴打され同日死亡した。」(警察庁 1975)
- ^ 「横浜国大でも革マル派活動家の矢崎知二君が六人の中核派に襲撃された。矢崎君は、おりからの昼食時で満員の学生食堂に逃げ込んだ。しかし、そこで追いつかれて引き倒された。そして、約三百人の学生が遠巻きに見守るなかで、一人が矢崎君の上に馬のりになって押さえつけ、他の二人が一メートルものバールをクワのようにふるって後頭部を打ちくだいたほか、全身をメッタ打ちにした。」(立花隆 1975, 下巻)
- ^ 「(沖縄)教室受講中乱入してきた中核派と思われる数人に人違いされ、鉄パイプ等で殴打され同日死亡した。」(警察庁 1975)
- ^ 「中核派の殺し屋八人は(略)七十余名の学生が講義(物理学概説)を受けていた教養Aの教室に後方から突如として乱入した。そして、『自治委員長の安室はいるか!安室はどこだ!』とヒステリックに叫び、(略)その時、一人黒板の方向に走って退避せんとした比嘉君を、殺し屋どもはその顔を何ら確かめることもなく『あれが、安室だ!殺れ!』と口ぐちにわめきながら、バール、鉄パイプなどの殺人用武器をふりかざして、背後から襲いかかり、彼、比嘉君の後頭部に狙いを定めてメッタ打ちにしたのである。 (『解放』)」「二・八は琉大カクマル幹部安室某に対する断固たる制裁として、またその革命的制裁活動に反動的敵対をなしたカクマル分子比嘉某の徹底的せん滅として圧倒的にうちぬかれたのである。(中核派)」(立花隆 1975, 下巻)
- ^ 「中核派数十人と法大から出たところを待ち伏せ中の革マル派に襲撃され、鉄パイプ等で殴打され翌日死亡した。」(警察庁 1975)
- ^ 立花隆「中核vs革マル」下巻(講談社文庫)94ページ
- ^ a b 「アパート自室で就寝中、乱入してきた数人に鉄パイプ等で殴打され翌日死亡した。」(警察庁 1975)
- ^ 立花隆「中核vs革マル」下巻(講談社文庫)101ページ。同書などを見たところ、この時期、法政大学構内で行われた内ゲバで死者は出ていない。5月13日の死者は、法政大学外の路上。大学側の記録にもない。
- ^ 「守口市中央観光バス前で、革マル派数人に鉄パイプで殴打され、入院中2週間後に死亡した。」(警察庁 1975)
- ^ 「品川公会堂付近を歩行中、後方から追いかけてきた中核派数人に鉄パイプで殴打、同日死亡した。」(警察庁 1975)
- ^ 「代々木駅付近を歩行中、後方から革マル派数人に鉄パイプで殴打され、同日死亡した。」(警察庁 1975)
- ^ 「西区のアパート自室で就寝中、乱入してきた中核派数人に鉄パイプ、ハンマー等で殴打され、同日死亡した。」(警察庁 1975)
- ^ 「被害者ほか2人が荷物発送作業中、車2台で追尾してきた中核派数人に鉄パイプで殴打され、同日1人が死亡した。」(警察庁 1976)
- ^ 「アパート自宅で就寝中、鉄パイプ、まさかり等を持って室内に乱入してきた革マル派十数人に頭部等を殴打され、即死した。」(警察庁 1976)
- ^ 「マンション2階の自室で就寝中、鉄のはしごを利用して室内に侵入してきた中核派数人に鉄パイプ、バール、スコップ等で殴打され、1人が即死、1人は翌々日死亡した。」(警察庁 1976)
- ^ 「被害者が川崎市役所裏出入口から外に出てきたところ、鉄パイプを所持して待ち構えていた中核派3人に頭部等を殴打され、同日死亡した。」(警察庁 1976)
- ^ 「被害者が喫茶店内で電話中、店内に乱入してきた中核派3人に鉄パイプで頭部等を殴打され、同日死亡した。」(警察視庁 1976)
- ^ 「被害者が喫茶店内で飲食中、店内に乱入してきた中核派7,8人に鉄パイプで頭部等を殴打され、1人が同日、1人が翌日死亡した。」(警察庁 1976)
- ^ 「被害者を含む4人がアパートで就寝中、室内に乱入してきた中核派数人に頭部等を殴打され、1人が同日死亡した。」(警察庁 1976)
- ^ 「被害者を含む岡山大ノンセクト約60人が、岡山大オルグのためマイクロバスで乗り込んできたマル青同約30人と対じ中、マル青同が、マイクロバスを突込んできたためれき死した。」(警察庁 1976)
- ^ 「革マル派30数人が大阪市立大教養部内に入り、芝生でたむろしていたところ、中核派約40人に鉄パイプ等で襲撃され、2人が同日、1人は翌日死亡した。」(警察庁 1976)
- ^ 「路上を通行中、中核派3人に襲われて、鉄パイプで頭部等を殴打され、翌日死亡した。」(警察庁 1976)
- ^ 「被害者を含む反帝学評系10数人が、歌手加藤登紀子の別荘に就寝中、室内に乱入してきた革マル派(人数不詳)に鉄パイプで頭部等を殴打され、1人が同日死亡した。」(警察庁 1976)
- ^ 『昭和51年 警察白書』「被害者が東大教養学部生協食堂前で情宣活動中、反帝学評系十数人に襲われて、鉄パイプ等で殴打され、同日死亡した。」
- ^ 殺害された学生は後の仏文学者石田英敬の駒場寮同室。石田英敬は、この2年前に目の前でやはり革マル派の友人を殺害されている。「石田は私の知らなかったいくつかの事実を教えてくれた。駒場寮では同室にもう一人、梅田順彦という学生がいたが、彼もまた1975年10月に大学の学生会館の前で社青同の手で頭蓋骨を割られ、惨殺されたこと。」(四方田犬彦 2009)
- ^ 後に劇作家となる野田秀樹はこの事件を至近距離で目撃しており、後の NODA・MAP 『贋作・罪と罰』などに大きな影響を与えている
- ^ “『贋作・罪と罰』 - 賄いエッセイ - 野田地図”. www.nodamap.com. 2022年2月23日閲覧。
- ^ 女性活動家に逮捕状 所沢の内ゲバ殺人事件『朝日新聞』1976年(昭和51年)4月2日夕刊、3版、11面
- ^ [「浦和市内ゲバ殺人事件」(4月)は、革労協が革マル派の自動車を前後からはさみ打ちにして停車させた上、金網付の窓ガラスをつるはし、鉄パイプ等で破壊して車内にガソリンをまき、発煙筒を投げ込んで炎上させ、乗車していた4人全員を焼殺するという極めて凶悪、残忍な事件であった。」(『昭和53年 警察白書』)
- ^ a b c d 昭和54年犯罪白書,第一編第二章第一節3,過激派集団の犯罪,2内ゲバ事犯,1979(昭和54),法務省
- ^ 警察庁 1988 図1-3 内ゲバ事件の発生状況(昭和53~62年)
- ^ a b 「54年の内ゲバ事件も、中核派による「津市内内ゲバ殺人事件」(5月、三重)や革マル派による東京、神奈川の革労協アジト3箇所に対する同時内ゲバ事件(11月)にみられるように、多くは事前の綿密な調査活動を踏まえて、巧妙な攻撃を加えるという極めて計画的な犯行であった。」(『昭和55年 警察白書』)
- ^ a b 昭和55年犯罪白書,第一編第二章第一節3/2内ゲバ事犯,1980(昭和55)
- ^ 「革労協による「東成区路上内ゲバ事件」(9月、大阪)では、盗難車両を使って相手車両を前後からはさみ撃ちにして停車させた上、鉄パイプの先端に出刃包丁を取り付けた凶器で攻撃したことなどにみられるように、計画的で極めて凶悪、残忍なものであった。」(『昭和56年 警察白書』)
- ^ a b 昭和56年犯罪白書,第一編第二章第2節/2内ゲバ事犯,1981(昭和56年)
- ^ 「55年10月30日白昼、南千束の路上において、東京工業大生ら5人が、待ち伏せしていたスキー帽やヘルメット着用の集団にハンマーや鉄パイプ等で乱打され、頭蓋骨骨折等により5人全員即死した。この事件では、あらかじめ現場付近の電話線が切断され、逃走用等に盗難車2台が使われた。事件について、中核派は、「我が革命軍は…カクマルジャックの集団を捕捉し…壊滅的打撃を与えた」などと犯行を自認した(東京)。」(警察庁 1988)
- ^ 「革労協による「7.11渋谷区本町内ゲバ殺人事件」にみられるように、綿密、周到な事前調査の後、被害者が居住するアパート付近の電話線を切断の上、被害者の居室のドアや窓を破壊して侵入し、就寝中の被害者の頭部、顔面等を鉄パイプで乱打して殺害するといった凶悪、残忍なものであった。」『昭和57年 警察白書』
- ^ a b 昭和57年犯罪白書,第一編第二章第4節2,1982(昭和57年)
- ^ 「革労協による「2.24荒川区南千住内ゲバ殺人事件」は、事前に調査した上、付近の電話線を切断した後、ドアを破壊して侵入し、就寝中の被害者の頭部を鉄パイプ様の物で乱打して殺害するといった凶悪、残忍なものであった。」『昭和58年 警察白書』
- ^ a b 昭和58年犯罪白書,第一編第二章第3節,1983(昭和58年)
- ^ a b 昭和60年犯罪白書,第一編第二章第6節2,1985(昭和60年)
- ^ 「昭和59年の内ゲバの特徴は、中核派が成田闘争での主導権掌握をねらい第4インター日本支部活動家に対して行ったものが多かったこと、大学構内で3件の内ゲバ事件が発生するなど大学自治会の主導権をめぐっての対立動向が目立ったことである。」(『昭和60年 警察白書』)
- ^ 「60年の内ゲバ事件は、中核派が「新たな対カクマル10年戦争」を標ぼうしていることや、革マル派が中核派に対し7年ぶりに攻撃姿勢に転じたことから、すべて両派の間で引き起こされ、そのうち4件は、革マル派が攻撃したものであった。また、12件の内ゲバ事件のうち6件は、学園での主導権争いがその原因とみられる。」(『昭和61年 警察白書』)
- ^ 昭和61年犯罪白書,第一編第二章第5節3,1986(昭和61年)
- ^ a b c 昭和62年犯罪白書,第一編第二章第7節3,1987(昭和62年)
- ^ 「61年1月20日白昼、京都大学教養部構内において、中核派の全学連副委員長代行が、待ち伏せしていた集団に鉄パイプ様のもので頭部を乱打され、脳ざ傷等により死亡した。革マル派は、「中核派『軍団』の敵対を完全に粉砕した」などと犯行を自認した(京都)。」(警察庁 1988)
- ^ 「1月20日午前10時30分頃、教養部A1号館廊下で教育学部3回生で、中核派の活動家、 福嶋慎一郎さん(25)が、革マル派に襲われ殺害された。福嶋さんはC代大の情宣でクラス入りに向かう途中であった。これに対し、学生からの糾弾の声が上がっている。中核派は、声明を出し「反革命カクマル、この憎しみで余りある日帝・中曽根の手先ファシストどもは、わが中核派のほこる京大生、全学連副委員長代行の福嶋慎一郎同志を虐殺するという、絶対に許すことのできない凶行をおかした。わが、革共同中核派は、満身に燃えたぎる憤怒と憎悪を持って、この白色テロルを徹底弾劾し、血の復讐を徹底的に全面的に貫徹することを宣言する」また、同学会、文学部学友会、経済学部同好会など11団体連名で、「革マル派による1.20福嶋君殺害を糾弾する」という声明を出している。民学同もビラで「殺人行為を満身の怒りを持って糾弾する。殺人グループは、自治会運動内部の自治破壊者として追放されねばならない」と述べた。一方、民青系学生諸君は、「内ゲバ殺人」キャンペーンを展開。「大学の内ゲバの戦場化を許すな」「暴力学生は大学から出てゆけ」「大学当局は責任ある態度をとれ」と主張して、弾圧を要請している。警察は、事件を口実に、1月20日に尚賢館、21日に熊野寮を不当捜査した。 」(『京都大学新聞 1986年2月1日号』)
- ^ 「9月1日未明、埼玉、大阪、兵庫の3府県6箇所において、真国労幹部等がヘルメット、鉄パイプ等で武装した数人の男に襲撃され、真国労大阪地本書記長が死亡したほか、8人が重軽傷を負った。事件は、あらかじめ電話線を切断して窓等から被害者宅に侵入し、被害者に手錠をかけた上で、凶器で乱打するなどの残忍なものであったが、「国鉄分割・民営化絶対阻止」を叫ぶ中核派は、機関紙で「9月1日、…反革命カクマル分子を…徹底せん滅した」などと犯行を自認している。」(『昭和62年 警察白書』)
- ^ 「62年10月30日朝、JR東日本赤羽駅構内において、出勤途上のJR東日本の職員が、マスク、帽子等を着用した集団にハンマーや鉄パイプ等で乱打され、頭蓋骨や両足を骨折するなどの重傷を負った。この事件は、人通りの多い出勤時間帯の駅通路で待ち伏せた上での大胆な犯行で、最初から頭部を重点に攻撃し、背広姿等の目立たない服装で人込みに紛れて逃走するという極めて計画的なものであった。革労協狭間派は、「反革命革マル…を徹底せん滅し、再起不可能状態を強制した…」などと犯行を自認した(東京)。(警察庁 1988)
- ^ a b 昭和63年犯罪白書,第一編第二章第7節3,1988(昭和63年)
- ^ 平成元年犯罪白書,第一編第二章第7節3,1989(平成元年)
- ^ a b 「中核派は、平成元年2月8日に「東鉄労水戸地本組織部長殺害事件」を、革労協狭間派は、6月25日に「革労協狭間派元最高幹部殺害事件」、12月2日に「JR総連総務部長殺害事件」をそれぞれ引き起こした。これらの事件は、被害者を路上で待ち伏せしたり、就寝中を襲撃したもので、いずれもハンマー、バール等の武器を用いて多数で全身を殴打するという残忍な殺人事件であった。」『平成2年 警察白書』
- ^ 「革労協狭間派は、闘争方針や戦術をめぐり、ここ数年来内部抗争を続けていたが、6月25日未明、埼玉県川口市内において、主流派の路線に反対する元最高幹部(43)の居宅を多数で襲撃し、ら致した上、撲殺し、茨城県下の路上に放置するという極めて悪質な内ゲバ事件を引き起こした(埼玉、茨城)。」『平成2年 警察白書』
- ^ 平成2年犯罪白書,第一編第二章第7節3,1990(平成2年)
- ^ a b c d 平成6年犯罪白書,第3編第6章第3節2,1994(平成6年)
- ^ a b c 平成11年犯罪白書,第4編第7章第5節2,1999(平成11年)
- ^ 「革労協狭間派は、8年(略)5月14日、神奈川県内の私立大学キャンパス周辺において、革マル派系全学連学生等に対する内ゲバ事件を引き起こし、1人を死亡させた。」(『平成9年 警察白書』)
- ^ a b 「革労協狭間派は、5月に狭間嘉明を中心とするグループ(以下「主流派」という。)と山田茂樹を中心とするグループ(以下「反主流派」という。)に分裂した。両派は,その後,双方が切り崩しや引き戻しをねらった主導権争いを展開する中で、11年中、5件の内ゲバ事件を引き起こし,活動家3人が死亡,1人が重傷を負った。12年に入っても,両派は機関紙等で攻撃主張を強め,12年2月には3件の内ゲバ事件を相次いで引き起こし、活動家2人が死亡、2人が負傷した。」(『平成12年 警察白書』)
- ^ a b 平成13年犯罪白書,第1編第2章第4節2,2001(平成13年)
- ^ 「5月、千葉県内において,主流派幹部活動家が反主流派非公然活動家とみられる数人の者に襲撃され死亡する事件が発生した。」(『平成14年 警察白書』)
- ^ 「16年6月2日早朝、東京都内の路上で革労協反主流派活動家3人が4、5人の男に鉄棒等で襲撃され2人が死亡、1人が軽傷を負うという内ゲバ容疑事件が発生した。」(『平成16年 警察白書』)
- ^ a b 警察白書
- ^ 『連合赤軍あさま山荘人質事件』58頁 警察文化協会 1973年
- ^ 日本革命的共産主義者同盟政治組織局 編『革マル派の二〇年』解放社 1983年
- ^ 『埼玉年鑑 昭和52年版 本編』36頁 埼玉新聞社 1976年
- ^ 「所沢の内ゲバ殺人 革マル派の犯行と断定 女性活動家を手配」『埼玉新聞』昭和51年(1976年)4月3日、9頁
- ^ 岩手県警察史編さん委員会 編『岩手県警察史 第3巻』1257頁 岩手県警察本部 1996年
- ^ a b c d 国民政治年鑑編集委員会 編『国民政治年鑑 1980年版』561-567頁 日本社会党中央本部機関紙局 1980年
- ^ 国民政治年鑑編集委員会 編『国民政治年鑑 1981年版』601頁 日本社会党中央本部機関紙局 1981年
- ^ 国民政治年鑑編集委員会 編『国民政治年鑑 1982年版』606頁 日本社会党中央本部機関紙局 1982年
- ^ 国民政治年鑑編集委員会 編『国民政治年鑑 1983年版』638-639頁 日本社会党中央本部機関紙局 1983年
参考
編集- 立花隆『中核vs革マル』講談社、1975年。
- 鈴木邦男『公安化するニッポン』 WAVE出版
- 小西誠ほか共著『検証 内ゲバ PART1、PART2』 社会批評社
- 毎日新聞社『1968年 (毎日ムック―シリーズ20世紀の記憶)』1998年。ISBN 978-4620791111。
- 荒岱介『破天荒伝―ある叛乱世代の遍歴』太田出版、2001年。ISBN 978-4872335620。
- 荒岱介『新左翼とは何だったのか』幻冬舎、2008年。ISBN 978-4344980679。
- 四方田犬彦『歳月の鉛』工作舎、2009年。ISBN 978-4875024194。
- 警察庁『警察白書』
- 警察庁『昭和49年 警察白書』(レポート)、1974年。
- 警察庁『昭和50年 警察白書』(レポート)、1975年。
- 警察庁『昭和51年 警察白書』(レポート)、1976年。 表7-2 昭和50年の内ゲバによる死亡事案
- 警察庁『昭和63年 警察白書』(レポート)、1988年。