内藤忠重
江戸時代初期の大名。常陸国内、志摩鳥羽藩初代藩主。内藤忠政の長男。従五位下、伊賀守、志摩守。子に内藤忠吉、忠清、内藤忠広(四男)
内藤 忠重(ないとう ただしげ)は、江戸時代初期の大名。志摩鳥羽藩初代藩主。
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正14年(1586年) |
死没 | 承応2年4月23日(1653年5月20日) |
墓所 | 鳥羽市の西念寺 |
官位 | 従五位下、伊賀守、志摩守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 常陸国内→志摩鳥羽藩主 |
氏族 | 内藤氏 |
父母 | 父:内藤忠政 |
妻 | 正室:内藤正長の長女 |
子 |
忠政、忠吉、忠清、忠広(四男)、 娘(池田長賢正室)、娘(相馬義胤正室) |
生涯
編集天正14年(1586年)、内藤忠政の長男として生まれる。徳川家康に仕えて慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い、慶長19年(1614年)からの大坂の陣で戦功を挙げ、徳川家光の教育係にもなった。所領は常陸国内に1万5000石を与えられていたが、これらの功績を評価されて寛永10年(1633年)に志摩鳥羽2万石に加増移封された。
藩政においては鳥羽城の大改築や舟の整備などを行なったが、これが原因で深刻な財政難が起こった。承応2年(1653年)4月23日に死去、享年68。跡を長男の忠政(忠種)が継いだ。