光源寺 (長崎市)
光源寺(こうげんじ)は、長崎市にある浄土真宗本願寺派の寺院。本尊は阿弥陀如来[1][2][3]。
所在地 | 長崎県長崎市伊良林町1-4-4 |
---|---|
山号 | 巍巍山 |
宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年 | 寛永8年(1631年) |
開基 | 松吟 |
法人番号 | 6310005000339 |
歴史
編集寛永8年(1631年)、筑後国柳川瀬高(現・福岡県柳川市)の光源寺2代目住持の松吟が開基となって創建したと伝わる[注釈 2]。しかし、同年は松吟が浄土真宗の本格的な布教を始めた年であって、この時期の寺地は不詳ともされている[注釈 3]。キリスト教の弾圧と仏寺の再興が進められる中で、長崎市銀屋町に寺地を与えられ、巍巍山光源寺を公称し、京都の西本願寺の末寺となった[1][2][3]。
開基の松吟は南蛮流の天文学に通じ、『光源寺天文書』を著した[1][2][3]。
慶安4年(1651年)、または延宝4年(1676年)に類焼し、現在地の伊良林に移転[1][2][3][注釈 4]。
元禄4年(1702年)6月、寺鐘を1口鋳造する[注釈 5]。
享保2年(1717年)に浦上村の照円寺を、同5年(1720年)に瀬高の玄成寺を末寺とする。これらの寺基は後に光源寺に移された[2][3]。
寛政6年(1794年)、9代諦順が園中納言家猶子となる[1]。
天保2年(1831年)の火災で類焼し、本堂などほとんどの什物を焼失。のち再興された[注釈 6][2]。
10世の拙嵓は平戸の松浦家に請われて光明寺(現・長崎県平戸市)に住した。平戸の木ヶ津に風香寺を開き、没後に西本願寺から勧学位を贈られる[1][2]。
歴代住持
編集以下、7代目執圭までは『長崎実録大成 正編』第六巻「寺院開創之部」下より。ただし、住持名、年数などは『長崎市史』の記述と相違する箇所が多い[注釈 7]。
文化財・その他
編集境内には、長崎奉行稲生正倫や亀山社中の二宮又兵衛、ハタ揚げ(凧揚げ)の名手枡屋嘉平次、最初の唐通事の馮六の墓などがある[1][2][3][4][5]。
延享2年(1745年)作の産女の幽霊像を所蔵。この像は、毎年旧暦の7月16日に開帳される[1][2][3][4][6]。
-
長崎奉行・稲生正倫の墓
-
赤子塚民話の碑
飴買い幽霊
編集全国にさまざまな形で伝わる子育て幽霊の一形態として、長崎市内に飴買い幽霊の話がある。毎晩飴屋に飴を買いに来る女性を怪しんで跡を付けた飴屋の主人が、女性が消えた墓地から赤子の泣き声を聞き、そこを掘ると母親の遺体の側に赤ん坊がいたという。
長崎の話では、子供を助けてもらった礼に井戸の場所を教えてもらい、それが麴屋町の幽霊井戸の由緒話となった。また、この女性は長崎の若い彫刻師が修行先の京都で言い交した娘で、長崎に帰った彫刻師の後を追って来た娘は、男が他の女性と結婚してしまったことを知り、悲しみのあまり病気となり死んでしまった。そして、すでに妊娠していた娘は、お腹の子供と一緒に埋葬されてしまったという。飴屋の親切で我が子を助けられた彫刻師は、墓のあった光源寺に、お礼として女性の幽霊の姿をつくっておさめたと伝わっている[7]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集参考史料
編集- 「光源寺」丹羽漢吉・森永種夫校訂『長崎実録大成 正編』第六巻「寺院開創之部」下(『長崎文献叢書』第一集第二巻、152頁 1973年12月)
参考文献
編集- 鈴木康子『長崎奉行 等身大の官僚群像』筑摩書房、2012年4月。ISBN 978-4-480-01541-9。
- 瀬野精一郎・新川登亀男・佐伯弘次・五野井隆史・小宮木代良『長崎県の歴史』山川出版社、1998年9月。ISBN 4-634-32420-2。
- 本田貞勝『長崎奉行物語 サムライ官僚群像を捜す旅』雄山閣、2015年1月。ISBN 978-4-639-02346-3。
- 長崎県高等学校教育研究会 地歴公民部会歴史分科会 編『長崎県の歴史散歩』山川出版社、2005年6月。ISBN 978-4-634-24642-3。
- 長崎新聞社長崎県大百科事典出版局 編『長崎県大百科事典』長崎新聞社、1984年8月。全国書誌番号:85023202。
- 平凡社 編『日本歴史地名大系』 43(長崎県の地名)、平凡社、2001年10月。ISBN 4-582-49043-3。
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典』 42(長崎県)、角川書店、1987年7月。ISBN 4-04-001420-0。