佐藤運宜
佐藤 運宜(さとう うんぎ、1855年2月17日(安政2年1月1日[1])- 1904年(明治37年)10月25日[2])は、明治時代の政治家、弁護士。衆議院議員(1期)。幼名は大吉[1]。
経歴
編集佐藤勇助の長男として陸奥仙台藩領桃生郡深谷前谷地村(宮城県桃生郡前谷地村、河南町を経て現石巻市)に生まれる[1]。1863年(文久3年)8歳にして内馬場友之進の門に入り漢籍を修めたのち、1866年(慶応2年)内海真澄に学ぶ[1]。ついで1869年(明治2年)前谷地村の真言宗龍石寺の住職早坂運穎の従弟となり、さらに1873年(明治6年)中教院に入り仏教を学んだ[1]。その後、法律を志し、代言人遠藤温の門に入りこれを修め、1879年(明治12年)代言人となった[3]。
遠藤の事務所での勤務を経て、1886年(明治19年)宮城県会議員に選出される[3]。ついで1888年(明治21年)常置委員に挙げられた[3]。ほか、仙台市会議員、仙台市弁護士組合副会長などを歴任した[2]。
1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙で宮城県第5区から選出された遠藤温が1891年(明治24年)11月11日に辞任し[4]、それに伴う補欠選挙で当選[2]。衆議院議員を1期務めた[2]。
脚注
編集参考文献
編集- 日野欽二郎『宮城県国会議員候補者列伝 : 一名・撰挙便覧』知足堂、1890年 。
- 衆議院、参議院 編『議会制度七十年史 第11』大蔵省印刷局、1962年 。