丹羽 長裕(にわ ながひろ)は、陸奥国二本松藩の第11代(最後)の藩主。官位従五位。丹羽家第12代。のち子爵

 
丹羽長裕
丹羽長裕肖像
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 安政6年3月15日1859年4月17日
死没 明治19年(1886年7月29日
改名 頼丸(幼名)、長裕
戒名 慈雲院
墓所 青山墓地
官位 従五位
主君 明治天皇
陸奥二本松藩
氏族 上杉氏丹羽氏
父母 父:上杉斉憲、母:松平頼恕の娘・郁姫
養父:丹羽長国
兄弟 上杉茂憲上杉勝賢吉井信謹松平忠敬長裕長保、亀雄、相良頼基正室、池田政礼正室、小笠原忠忱正室、千鶴子ら
丹羽長国の長女・
芳子
養子長保
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経歴

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出羽国米沢藩主・上杉斉憲の九男として誕生した。母は高松藩主・松平頼恕の娘。幼名は頼丸。正室は先代藩主・丹羽長国の長女・峯。

二本松藩は奥羽越列藩同盟に加わり、官軍とされた新政府軍(西軍)と戦ったが、各地で敗戦した。明治元年(1868年)12月7日、藩主・長国は新政府から隠居を命じられた。また、知行は半減となり、石高は5万石となった。同年12月26日、上杉斉憲の九男・長裕は、その養子として家督を相続した。

明治2年(1869年)6月19日、版籍奉還により二本松藩知事に就任する。明治3年(1870年)12月20日、藩政の一部を参事に任せ、東京に遊学することを願う。同年12月25日、明治政府から遊学を許可される。1884年7月8日に子爵を叙爵した[1]

明治19年(1886年)に死去し、跡を実弟の長保(斉憲十一男)が継いだ。

二本松藩藩主を務めた丹羽氏の墓所は、菩提寺の大隣寺(福島県二本松市)と青山墓地(東京都)の丹羽家墓所に分かれており、長裕の墓は長国とともに青山墓地にあったが、2024年(令和6年)に大隣寺に新たに整備される丹羽家墓所に移設してまとめられることになった[2][3]

家族

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父母

子女

養子

脚注

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  1. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
  2. ^ 二本松藩主の墓、東京から帰還へ 今秋には完了、竣工法要”. 福島民友新聞. 2024年4月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年4月22日閲覧。
  3. ^ 丹羽家歴代藩主の墓を一カ所に 福島県二本松市の菩提寺・大隣寺に東京の墓所を移設統合”. 福島民報 (2024年7月11日). 2024年7月12日閲覧。
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
二本松丹羽家初代
1884年 - 1886年
次代
丹羽長保