松平忠敬
松平 忠敬(まつだいら ただのり)は、武蔵国忍藩第5代(最後)の藩主。従三位。のち子爵。奥平松平家13代。
松平忠敬夫妻 | |
時代 | 明治時代 |
生誕 | 安政2年7月14日(1855年8月26日) |
死没 | 大正8年(1919年)11月15日 |
改名 | 篤之助(幼名)、忠敬 |
戒名 | 忠恭院殿敬巌柏堂大居士 |
墓所 | 東京都台東区谷中の天眼寺 |
官位 | 従三位、子爵 |
主君 | 明治天皇 |
藩 | 武蔵忍藩主→忍藩知事 |
氏族 | 上杉氏→奥平松平家 |
父母 |
父:上杉斉憲、母:郁姫(松平頼恕の娘) 養父:松平忠誠 |
兄弟 |
上杉茂憲、上杉勝賢、吉井信謹、忠敬、 丹羽長裕、丹羽長保、上杉亀雄、 相良頼基正室、池田政礼正室、 小笠原忠忱正室、細川立興室ら |
妻 | 正室:貴子女王(伏見宮邦家親王の十二王女) |
子 | 忠寿、久松定省 |
略歴
編集安政2年(1855年)7月14日、出羽国米沢藩主・上杉斉憲の六男として誕生した。幼名は篤之助。母は松平頼恕の娘。妻は伏見宮邦家親王の十二女・貴子(節宮)。子は松平忠寿(長男)。官位は従三位。
明治2年(1869年)4月、先代藩主・忠誠の養嗣子となる。同年8月19日、忠誠の死去により家督を継ぎ知藩事に就任した。同年8月24日、従五位に叙任する。その後、藩政改革を行なう。明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官されて東京へ移る。
明治5年(1872年)1月、明治政府からイギリス渡航の許可を得る。当初は2年間の自費留学の予定であった。明治7年(1874年)2月、イギリスへの滞在延長を願い出ている。第三十二国立銀行設立初期の1879年には頭取の平瀬亀之助に次ぐ大口株主であったが、1882年には同行より貸付金未返済の訴えを起こされ、裁判沙汰となる[1]。
明治17年(1884年)1月、滋賀県御用掛に就任する。同年7月、子爵となる。しかし、旧藩士の不正事件などがあってその地位を追われ、故郷の米沢に戻って中学校教師を務めた。明治28年(1895年)に東京へ戻り、大正8年(1919年)11月15日に死去。享年65。墓所は東京都台東区谷中の天眼寺。
家族
編集脚注
編集- ^ 日本金融史再考 : 両替商から銀行へ石井寛治 東京経大学会誌(経営学) 2005年3月7日 東京経済大学経営学会 巻242
- ^ 人事興信所 編『人事興信録』第8版(昭和3年),人事興信所,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション 識別子2127124
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (忍)松平家初代 1884年 - 1919年 |
次代 松平忠寿 |