丸子船
解説
編集琵琶湖の環境や用途に合わせて独自の発達を遂げた帆走の木造船で、同時代の輸送船を代表する沿岸海洋用の弁才船と比べると船幅は狭く喫水は極めて浅い[2][注釈 1]。また、船体脇にオモギと呼ばれる丸太を半割りにしたような部材を用いる独特な構造や、ヘイタと呼ばれる短冊状に成形した板を桶のように曲面状に剥ぎ合わせた船首構造と、船首にダテカスガイと呼ばれる短冊状の銅板を貼り付ける装飾をもつことなどが特徴である[1][4][2][注釈 2]。
湖上水運が最盛期を迎えた江戸時代前期から中期には琵琶湖全体で1300隻以上が浮かび、大きいもので500石積みがあった記録が残されているが、150石から180石積みが標準的な大きさであった[2]。
近世の史料を確認した杉江進によると、江戸時代には丸船と呼ばれることが多く、彦根藩領の丸船のみが丸子船と称されていたが、大正時代に近世の地誌『近江輿地志略』が復刻出版されて地域資料の基礎となったことから、これに記される丸子船の呼称が定着したとしている[2][5]。そのほかに丸木船(まるきぶね/まるこぶね)・丸太船(まるたぶね)の名称もある[6][7]。また、太平洋戦争前には規模により小丸子・中丸子・大丸子と区別する呼び名もあった[4][2]。名称の由来について橋本鉄男はいわゆる丸木舟との関連性を指摘し[8]、牧野久美と杉江は丸みを帯びた船の形状に由来すると推測し[9][7]、用田政晴は船大工が「まるこう」と呼んでいた事から丸船に愛称の「公」を付けて「丸公船」と呼んでいたのが丸子船に転訛した可能性を指摘している[10]。
概要
編集古来より琵琶湖の水運は盛んで、平安京に遷都されると重要性は増し、畿内と地方を繋ぐ物流の動脈となった[11]。豊臣秀吉は湖上水運の機能を強化するため大津百艘船[注釈 3]を創設し、特権を与えて湖上水運の近世的秩序を作る[11]。以来、近世を通して琵琶湖の貨物と旅客を独占した廻船が丸子船である[6][8]。
丸子船が出現した時期について明かにできる史料はないが、琵琶湖における最古の隻数調査とされる『江州諸浦れう舟ひらた船之帳』(慶長6年・1601年)に「丸舟」と記されたのが最も古い[7]。江戸時代の琵琶湖の物流を担った主要な港は、彦根藩船奉行の保護下にあって濃尾平野を後背地とする松原・長浜・米原の彦根三湊、日本海海運を通して東北地方から北陸地方を後背地とする塩津・大浦・海津・今津の湖北4ヵ浦、京都への玄関口で廻船を取り締まる権限を持つ大津・堅田・八幡の3湊の3つに分けられる[11][13][注釈 4]。主な水運は湖北・湖東と、京都の入口である大津を繋ぐ南北航路で[8][11]、荷は上りは米を中心に昆布・干イカなどの海産物や加賀笠・美濃和紙・紅花などの特産品、下りは漆器・反物・筆などであった。
寛文年間に西廻り航路が開発され、大阪まで船のみで輸送できるようになると、陸揚げが必要だった湖上水運は幹線物流の座を明け渡して衰退していく[注釈 5]。明治時代にいたって長浜・大津間に鉄道が敷設されると、地方と畿内を繋ぐ湖上水運は終焉を迎えた[11][15]。
しかし、琵琶湖周辺の地域輸送は昭和40年ごろまでは存続していた[16]。丸子船も細々と造船もされ昭和初期まで数百隻が琵琶湖に浮び[4][17]、なかには速力を増すために焼玉エンジンを積むものもあった[18]。この頃の積荷は米・木材・柴・薪割り・炭・石・砂利・粘土・堆肥・塩などである[19]。しかし、こうした用途も徐々にFRPや鉄鋼などを素材とした船に取って代わられ、丸子船は姿を消した[20][21]。1999年に行われた調査では、水面に浮かぶもの1隻、陸揚げされているもの2隻、港で半分水に沈むもの1隻、水中で保管されているもの2隻から3隻と報告されている[22]。
1990年代に滋賀県立琵琶湖博物館の事業により、船大工松井三四郎がおそらく最後となる丸子船の復元船を約半世紀ぶりに建造した[4][23]。復元船は全長約17m・幅約2.5mの百石積に相当する丸子船である[22]。2022年現在で公開展示される丸子船は、琵琶湖博物館の復元船の他に、長浜市の丸木船の館の神與丸と道の駅塩津海道あぢかまの里の勢湖丸の2隻がある。
構造
編集構造の特徴
編集琵琶湖の伝統的木造船は船体の断面形状により、丸船と艜舟(ヒラタブネ)の2種に大別されていた。艜舟は船体断面が矩形になる船で漁船・田舟として使用された。一方で丸船は船体の断面が丸みを帯びる船で、いわゆる丸子船である[24]。丸子船は、他の弁才船などと比べると極めて喫水が浅く、琵琶湖の遠浅の湖底と真水の比重の軽さに適応して発達したと考えられる[2]。また、丸子船も北湖(長浜流)と南湖(堅田流)で形状が若干異なり、長浜流の方が船体が細長く喫水が深かった[25]。
丸子船の最大の特徴といえるオモギについて、その機能は明らかになっていない。丸子船に積荷を満載すると、オモギはほぼ全てが水面下に沈むため抵抗になるが、船頭には「オモギが大きくフリカケが小さい船が安定して良い船」と言い伝えられており、船の安定性に関係する働きがあると考えられている[26][27]。牧野は双胴船は丸木舟よりも安定性に優れるとした上で、それと同様に浅い喫水で積載量を増やしつつ安定性を向上させるアウトリガーと同様の働きがあったとし[28]、近森正は幅広な船体には過剰な復元力が働くとした上で、復元力に対する抵抗となって船体のローリングを抑えるビルジキールと同じ役割を果たしたとしている[29]。また用田は、松井の証言から安定度に加えて浮力を稼ぐ役割もあったとしている[2]。
もうひとつの特徴となっているヘイタ構造について河野通明は、織田信長による大船建造をきっかけとして幅の広い船を建造する目的で考案された構造と推測し、当初はヘイタを鎹で留めていた名残がダテカスガイであるとしている[2][30]。
発達に関する推測
編集出口晶子は、和船が丸木舟(刳舟)から準構造船を経て構造船へと発達する過程には、縦軸に発達(喫水を深く)するタナ発達型と横軸に発達(船幅を広く)するシキ発達型の方向性があり、縦横の発達が組み合わさって刳舟材が消滅する構造船へ至ったとし、丸子船を船底の部材(シキ)を増やすシキ発達型準構造船に分類した。しかし、他のシキ発達型準構造船は、刳船材を船底と舷側を繋ぐ部分(丸子船のフリカケに相当)に使用するが、丸子船は舷側部分(オモギ)に刳船材を使用する点が異なり、シキの発達も極めて大きい[31][注釈 6]。この特徴を踏まえて牧野は、筏的要素をもって浅く幅広な方向に発達し、波への対処を考慮してサシ板による縦方向への発達が付加され、それに双胴船的な要素をもつオモギにより安定性を確保したのが丸子船と推測している[34][35]。
古い絵図を調査した牧野は、舳先のヘイタ構造について当初はシンを持たずタテイタのみで丸く接ぎ上げていたが、18世紀中頃にシンを持つ丸子船が現れ、19世紀後半にはシン持ちの丸子船のみに変化していったとしている[36]。こうした舳先の変化は、安定性を犠牲にしつつ造波抵抗の低減により速力の強化を目的としたもので[18][37]、琵琶湖水運の衰退への危機感を背景として弁才船の構造を取り入れて改良されたと推測している[36][38]。
復元船の構造
編集本節は琵琶湖博物館の復元船の構造について記すが、この事業は昭和初期の堅田流の丸子船を復元することを目的としている。
用材は主に水に強いコウヤマキが用いられるほか、スギ・ヒノキ・ケヤキ・カヤなども併用される[39][40]。
船体は主に、船底のシキ・胴体側面を垂直に立ち上がるオモギ(重木)・シキとオモギを斜めに繋ぐフリカケ(振掛)・オモギの上に載るタナ(棚)の4部材と、船首部分のヘイタ(舳板)があるが、オモギ以外は厚板である[39][41]。厚板は接ぎ合わせると船体が曲線になるようあらかじめ紡錘状に木取してあり、接合には縫い釘を用いる。接ぎ合わせ面には、和船に一般的な木殺し[注釈 7]を行わないのも丸子船の特徴で、替わりに組み上げた後に接合部にマキナワ[注釈 8]を詰め込み水密を確保する[42]。
オモギはスギの赤身のみを用い、いったん角材にしたものを角を丸めて半円状に仕上げる[43]。船首に用いるヘイタはコウヤマキの厚板で、丸子船の表情を決める重要な部位である[41]。まず、船首中央にヒノキのシンを立てて[44]、ヘイタを樽状に接いでいく[41]。オモギとヘイタの上端には、タナと梁が載る。梁は船体の横方向の強度を高める部材だが、舵や帆柱を支えたり縄をくくったりする役割も担っており、その用途によって名称が異なる[45]。帆柱を支える梁はイクラと呼ばれ、イクラと平行して船底に設けたイクラ元オサエ、その2材を繋ぐツカで補強し帆柱を固定する[45]。タナは船体の上端を縁取る縦通し材で、これを取り付けることにより船体の平面形状が固定される[45]。
材の継ぎ目や木口にはアカイタ(銅板)を貼るが、その理由は緑青が木部の腐食を防ぐと言い伝えられている[46]。また、銅板自体の腐食対策として油で溶いた墨を塗った[47]。こうした実用目的とは別に、ダテカスガイ(伊達鎹)と呼ばれる銅板を意匠として貼る。ダテカスガイの付け方で船の印象が変わるため、左右対称に美しくみえるよう慎重に位置を決めて貼られる[46]。
船尾のトビノオと呼ばれる部材が後方に伸び、舵を受ける梁(カジドコ)と、舵を吊り下げるカサギ[注釈 9]が付く。カサギが大きいことも丸子船の特徴で、停泊時には倒した帆柱を置いておく場所としても使用された[48]。
帆は江戸時代末期からは木綿の平織りを用いたが、港内での取り回しのため櫓も1組付いている。また、堅田大津間などの近距離であれば帆走ではなく複数の櫓を用いて掻いて漕走することもった[49][50]。
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丸子船の断面模型
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丸子船の船首のヘイタ構造とダテカスガイ。船首の先端がシン
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丸子船の船尾。カサギが舵を吊り下げる。
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丸子船の帆
脚注
編集注釈
編集- ^ 構造については、オモギをタナの一部と捉える石井謙治は構造船、オモギを刳船材と捉える石塚尊俊・出口晶子は準構造船に分類する[3]。
- ^ ただし、ヘイタ構造やダテカスガイは、琵琶湖の伝統的木造船に共通する特徴で丸子船に限定されない[2]。
- ^ 大津・坂本・堅田・木浜(現守山市木浜町)の船主による組織[12][6]。
- ^ 八幡について、喜多村俊夫は彦根三湊と同じグループに分類するが、杉江は堅田・大津と共に「諸浦の親郷」を構成していることを根拠にこの3湊を同じグループにする。ここでは杉江説に従う[13]。
- ^ 西廻り航路に対抗するために、琵琶湖運河も計画されたが実現できなかった[14]。
- ^ 丸子船は、大型になるほど幅を広げる方向に拡大されていく[33]。
- ^ あらかじめ木を槌で叩いて繊維を凹ましておく工程。凹んだ繊維は時間と共に元に戻るので、接合面が圧着される[42]。
- ^ マキの内皮(ヒノキの代用品もある)をほぐしてひも状にした充填材[42]。
- ^ カサギは鳥居に似た形状であることから鳥居ダツの別名もある[48]。
出典
編集- ^ a b コトバンク: 丸子船.
- ^ a b c d e f g h i 用田政晴 2012, p. 47-49.
- ^ 牧野久実 2008, p. 166-169.
- ^ a b c d 牧野久実 2012, p. 225-230.
- ^ 杉江進 2011, p. 64-65.
- ^ a b c 橋本鉄男 1997, p. 25-30.
- ^ a b c 杉江進 2011, p. 54-56.
- ^ a b c 橋本鉄男 1997, p. 63-78.
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- ^ 杉江進 2011, p. 67.
- ^ a b c d e 太田浩司 2012, p. 10-20.
- ^ コトバンク: 大津百艘船.
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- ^ 牧野久実 1999, p. 15.
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- ^ 牧野久実 2008, p. 153-155.
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- ^ 松本哲 1999, p. 53.
- ^ 出口晶子 1999, p. 46-48.
参考文献
編集書籍
- 杉江進『近世琵琶湖水運の研究』思文閣出版、2011年。ISBN 978-4-7842-1551-5。
- 橋本鉄男 著、用田政晴 編『丸子船物語-橋本鉄男最終琵琶湖民俗論』サンライズ印刷株式会社出版部、1997年。ISBN 4-88325-117-9。
- 牧野久実『琵琶湖の伝統的木造船の変容-丸子船を中心に』雄山閣、2008年。ISBN 978-4-639-02021-9。
- 用田政晴「丸子船と船大工」『近江学-文化誌近江学』5号、成安造形大学附属近江学研究所、2013年。
- 安土城考古博物館、長浜城歴史博物館 編『琵琶湖の船が結ぶ絆-丸木船・丸子船から「うみのこ」まで』サンライズ出版、2012年。ISBN 978-4-88325-480-4。
- 太田浩司「琵琶湖の湖上交通-古代から近世までの舟運史」。
- 用田政晴「丸子船」。
論文など
- 牧野久実「モースが見た丸子船-丸子船のヘイタ構造」『史學』第81巻1・2、三田史学会、2012年、NAID 120005255580。
- 牧野久実「丸子船の形状の変化と時間の概念」『史學』第85巻第1-3号、三田史学会、2015年、NAID 120005818468。
- 近森正「丸子船のオモギについて-書評と技術史的仮説」『史學』第82巻第3号、三田史学会、2013年、NAID 40019825136。
- 滋賀県立琵琶湖博物館(編)『琵琶湖博物館研究調査報告』第13号、滋賀県立琵琶湖博物館、1999年。
- 用田政晴「丸子船復元製作展示への道」。
- 用田政晴「丸子船交流デスクでの活動」。
- 牧野久実「船大工松井三四郎のライフヒストリー」。
- 牧野久実「丸子船の進水・航行と公開」。
- 出口晶子「丸子船復元」。
- 松本哲「帆の復元」。
辞典など
- “コトバンク”. 朝日新聞社, VOYAGE MARKETING.