三浦為章
江戸時代後期の紀州藩家老
三浦 為章(みうら ためあき)は、江戸時代後期の紀州藩家老。三浦長門守家第7代当主。官位は従五位下長門守。
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 享和3年4月6日(1803年5月26日) |
死没 | 天保12年3月2日(1841年4月22日) |
改名 | 祥太郎(幼名)→為章 |
別名 | 将監(通称) |
戒名 | 紫金光院性覚円常大居士 |
墓所 | 了法寺(和歌山県和歌山市) |
官位 | 従五位下長門守 |
主君 | 徳川治宝→斉順 |
藩 | 紀州藩家老 |
氏族 | 三浦氏 |
父母 | 父:三浦為積、母:真珠院(安藤道紀の娘) |
兄弟 | 為章、陽之助、欽之丞、鈴木皐吉、中之助 |
妻 |
正室:梅小路定肖の娘 継室:渡辺主水の妹・貞 |
子 | 辰之助、興之丞、嘉之丞、為質(権五郎)、水野正義、延(村上彦右衛門室)、楠代(角倉玄祐室)、万千(高木鉄三郎室)、他 |
生涯
編集享和3年(1803年)4月6日、紀州藩家老・三浦為積の長男として紀伊国で生まれる。幼名は祥太郎。文化12年(1815年)に名を為章と改め、翌文化13年(1816年)に通称を将監と称する。文化14年(1817年)3月には紀州藩主・徳川治宝に初めて拝謁し、翌文化15年(1818年)2月15日に治宝を烏帽子親として和歌山城で元服。文政4年(1821年)7月、梅小路定肖の娘と婚姻。
文政6年(1823年)5月28日、父の隠居により家督と知行1万5,000石を相続し、文政13年(1830年)5月17日に加判に列する。天保6年(1835年)に藩主・徳川斉順の参勤交代に従って江戸に出府し、同年5月1日には江戸城で第11代将軍・徳川家斉に拝謁。同年12月16日、長門守に任官。翌天保7年(1836年)1月に紀州帰国の命を受け、帰国途中の3月には遠祖・三浦義明の菩提寺である満昌寺に、3月5日には伊勢神宮に参拝し、3月15日に和歌山に帰国。天保9年(1838年)2月5日に正室が死去したため、同年5月5日に渡辺主水の妹を継室として迎える。
天保12年(1841年)3月2日、病のため死去。享年39(満37歳没)。墓所は和歌山県和歌山市の了法寺。家督は嫡男・為質が相続した。
なお、『南総里見八犬伝』の作者・曲亭馬琴の筆記助手を務めた土岐村路(馬琴の嫡子・宗伯の妻)の父は、為章に仕えた医師・土岐村元立である。
系譜
編集脚注
編集参考文献
編集- 『三浦系図伝 完』(和歌山県立図書館所蔵)