三条基定
平安時代後期から鎌倉時代前期の公卿。非参議従三位、修理大夫。三条成定の長男。出家。子に経成(民部少輔。従四位上)
三条 基定(さんじょう もとさだ)は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての公卿。非参議従三位、修理大夫。父は正四位下左中将三条成定。母は法眼行仁の母。
時代 | 平安時代後期 - 鎌倉時代前期 |
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生誕 | 承安元年(1171年) |
死没 | 嘉禎3年11月1日(1237年11月19日) |
官位 | 従三位、修理大夫 |
主君 | 白河上皇→高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇→土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇 |
氏族 | 藤原北家大炊御門家庶流堀川流三条家 |
父母 |
父:左中将三条成定 母:法眼行仁の娘 |
兄弟 | 基定、成資、能成、定兼、伊成、経昭、公命 |
子 | 能定、経成、女子(九条基家室:月輪良基の母) |
修理大夫に抜擢される
編集大炊御門家の傍流であったため、前半生は目ぼしい官職に就くことができなかったが、晩年には左大臣九条良平の推挙により修理大夫に補任された。
経歴
編集- 建仁3年(1203年)8月21日、侍従に任ぜられる[1]。
- 建仁4年(1204年)1月5日、従五位上に昇叙。
- 承元元年(1207年)2月13日、阿波権介を兼ねる。同日、右少将に任ぜられる。
- 承元4年(1210年)1月5日、正五位下に昇叙。
- 建保元年(1213年)1月6日、従四位下に昇叙。
- 建保7年(1219年)1月5日、従四位上に昇叙[2]。
- 承久3年(1221年)1月13日、正四位下に昇叙[3]。
- 嘉禄2年(1226年)8月14日、皇后宮亮を兼ねる。
- 嘉禄3年(1227年)2月22日、皇后宮亮を止める[4]。同年10月4日、修理大夫に任ぜられる[5]。
- 寛喜元年(1229年)3月20日、従三位に叙される[6]。修理大夫は元の如し。
- 寛喜3年(1231年)4月14日、修理大夫を止める[7]。
- 嘉禎2年(1236年)9月26日、出家。法名真願。
- 嘉禎3年(1237年)11月1日、逝去。享年67。
系譜
編集脚注
編集- ^ 叙爵の年月日は不詳。
- ^ 陰明門院御給
- ^ 臨時
- ^ 皇后が安喜門院の院号を宣下されたため
- ^ 遠藤珠紀、「鎌倉期朝廷社会における官司運営の変質:修理職・内蔵寮の検討を通して」p. 1722によれば、修理職を左大臣九条良平が拝領し、良平の推挙によって基定が修理大夫に補任されたようである。
- ^ 行幸時の左大臣の譲り。左大臣とは九条良平である。
- ^ 『公卿補任』には「前左大臣(九条良平)以修理職下総国等。相模伯耆日向国等故也』と注記がある。すなわち遠藤氏論文にあるように、修理職の「職務」であり実質的な支配権を持つ九条良平がその「職務」を辞して代わりに知行国を賜りたいと申し出たことを指す。挙げられた国名は知行国の候補である。