大炊御門麗子
鎌倉時代の后妃、女院。大炊御門頼実の女。土御門天皇の中宮。
(陰明門院から転送)
大炊御門 麗子(おおいのみかど/おおいみかど れいし、元暦2年/文治元年(1185年)- 寛元元年9月18日(1243年11月1日))は、鎌倉時代の后妃、女院。太政大臣大炊御門頼実の女(母は左京大夫藤原定隆の女、藤原隆子)で、土御門天皇の中宮となる。院号は陰明門院(おんめいもんいん)。
大炊御門 麗子 | |
---|---|
第83代天皇后 | |
皇后 |
元久2年7月11日(1205年7月28日) (中宮) |
陰明門院 | |
院号宣下 | 承元4年3月19日(1210年4月14日) |
誕生 | 元暦2年/文治元年(1185年) |
崩御 |
寛元元年9月18日(1243年11月1日) |
諱 | 麗子(れいし) |
氏族 | 藤原氏(大炊御門家) |
父親 | 大炊御門頼実 |
母親 | 藤原隆子(藤原定隆の娘) |
配偶者 | 土御門天皇 |
入内 | 元久2年4月7日(1205年4月27日) |
女御宣下 | 元久2年4月13日(1205年5月3日) |
立后前位階 | 従三位 |
生涯
編集建久9年(1198年)、土御門天皇の大嘗祭の際に女御代を務め、元久2年(1205年)4月、21歳で10歳年下の土御門天皇のもとに入内して女御宣下を受け、同年7月に中宮に冊立される。子を産むこともないまま、承元4年(1210年)3月に院号宣下を受け、同年11月には土御門天皇が異母弟の守成親王(順徳天皇)に譲位した。
承久3年(1221年)1月に麗子は出家し、法号を清浄妙と称する。同年5月には承久の乱が勃発し、乱の終結後、土御門上皇は乱に直接関与していなかったにもかかわらず、父後鳥羽上皇の隠岐国への配流が決定すると、自ら望んで土佐国に配流されたが、麗子は同行せず京に留まった。
寛喜3年(1231年)、土御門上皇が配流先の阿波国で崩御すると、麗子は自身の封戸、年官、年爵を辞して隠遁し、寛元元年(1243年)、59歳で崩御した。
参考文献
編集- 安田元久編 『鎌倉・室町人名事典』 新人物往来社、1990年。
- 芳賀登他監修 『日本女性人名辞典』 日本図書センター、1993年。