三宮義胤
三宮 義胤(さんのみや よしたね、1844年2月12日(天保14年12月24日) - 1905年(明治38年)8月14日)は、幕末の尊王攘夷派活動家で、明治期の外務官僚・宮内官僚。華族(男爵)に列した。幕末期には「三上兵部」と名乗った[1]。
生涯
編集近江国志賀郡真野浜村(現:滋賀県大津市)に、真宗正源寺住職・三上円海の長男として生まれる[2]。
幕末の動乱期には尊王攘夷派活動家(志士)として国事に奔走[1][2]。岩倉具視らと交流を持ち王政復古運動に参加した[2][1]。慶応3年(1867年)には高野山で挙兵[2]。戊辰戦争では各地に転戦し[2]、功績があった[3]。明治2年(1869年)には賞典禄として50石が与えられた[2]。
兵部省に勤務したのち、明治3年(1870年)には東伏見宮彰仁親王(のちの小松宮)の英国留学に随行する[2]。明治10年(1877年)、外務省に移って駐ドイツ日本公使館に勤務し、明治13年(1880年)に帰国した[2]。
明治16年(1883年)宮内省に転じ、要職を歴任。明治17年(1884年)小松宮彰仁親王の随行として渡欧した際に妻と知り合い結婚(後述)[4]。明治28年(1889年)に式部長に昇る[2]。日清戦争で大本営附となったことが功とされ、1896年(明治29年)6月に男爵を授けられた[3]。
官歴等
編集栄典
編集- 位階
- 1884年(明治17年)6月30日 - 正六位[19]
- 1885年(明治18年)9月16日 - 従五位[20]
- 1886年(明治19年)7月8日 - 正五位[21]
- 1886年(明治19年)10月28日 - 従四位[22]
- 1891年(明治24年)12月16日 - 正四位[23]
- 1896年(明治29年)12月21日 - 従三位[24]
- 1904年(明治37年)7月30日 - 正三位[25]
- 1905年(明治38年)8月12日 - 従二位[26]
- 勲章等
- 1882年(明治15年)12月29日 - 勲五等双光旭日章
- 1888年(明治21年)5月29日 - 勲三等旭日中綬章[27]
- 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[28]
- 1895年(明治28年)
- 1896年(明治29年)6月5日 - 男爵[31]
- 1903年(明治36年)12月26日 - 旭日大綬章[32]
- 外国勲章佩用允許
- 1885年(明治18年)
- 2月17日 - メクレンブルク=シュヴェリーン大公国:クライフェン勲章コントエアクロイツ
- 5月25日 – スウェーデン=ノルウェー連合王国:ワァーサ第二等乙級勲章[33]
- 1887年(明治20年)12月9日
- 1892年(明治25年)7月26日 - ハワイ王国:王冠第一等勲章[36]
- 1893年(明治26年)
- 1894年(明治27年)8月8日 - タイ王国:第一等タイ王冠勲章[39]
- 1895年(明治28年)
- 2月12日 - バイエルン王国:ハイリケミツパエル第一等勲章[40]
- 8月17日 - メクレンブルク=シュヴェリーン大公国:グライフェン第一等勲章[41]
- 1902年(明治35年)
- 1905年(明治38年)3月22日 - 大韓帝国:勲一等大極大綬章[44]
家族・親族
編集妻は、英国キングストン・アポン・ハルの生地商ウィリアム・レイノア(William Raynor)の娘、アレシーア(Alethea Raynor, 1846 - 1919)で[45][46]、日本名を八重野と称した[3]。アーネスト・サトウは、アレシアを下宿屋の娘としている[45]。1874年にロンドンのハムステッドの教会で蜂須賀茂韶や岩倉具経を立会人に結婚し、1880年に夫に伴い来日[47]。日本では、皇族の妃や華族の女性たちに、西洋の服装や社交上の慣習を助言する役割を果たした[48]。
養子として桂秀馬の二男・錫馬を迎え、義胤の死後は錫馬が家督を継いだ[3]。1919年(大正8年)に錫馬が没すると、錫馬の妹の絲(いと)が戸主となったが、女戸主のために1920年(大正9年)に爵位を返上した[3]。なお、絲はそののち古市公威の六男・周六を婿に迎えている[3]。
脚注
編集- ^ a b c “三宮義胤”. 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収). 2014年3月19日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i “三宮義胤”. 朝日日本歴史人物事典(コトバンク所収). 2014年3月19日閲覧。
- ^ a b c d e f 『平成新修旧華族家系大成』上、p.702
- ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、295頁。ISBN 978-4-06-288001-5。
- ^ 男爵三宮義胤公 真野の正源寺(公式ホームページ)
- ^ 『官報』第263号「賞勲叙任」1884年5月17日。
- ^ 『官報』第576号「賞勲叙任」1885年6月4日。
- ^ 『官報』第777号「叙任」1886年2月6日。
- ^ 『官報』第797号「叙任」1886年3月3日。
- ^ 『官報』第1340号「叙任及辞令」1887年12月15日。
- ^ 『官報』第1462号「叙任及辞令」1888年5月17日。
- ^ 『官報』第1486号「叙任及辞令」1888年6月14日。
- ^ 『官報』第1652号「叙任及辞令」1888年12月29日。
- ^ 『官報』第1687号「叙任及辞令」1889年2月16日。
- ^ 『官報』第1821号「叙任及辞令」1889年7月25日。
- ^ 『官報』第3620号「叙任及辞令」1895年7月24日。
- ^ 『官報』第3708号「叙任及辞令」1895年11月6日。
- ^ 『官報』第5886号「叙任及辞令」1903年2月19日。
- ^ 『官報』第301号「叙任」1884年7月1日。
- ^ 『官報』第666号「賞勲叙任」1885年9月17日。
- ^ 『官報』第907号「叙任及辞令」1886年7月10日。
- ^ 『官報』第1003号「叙任及辞令」1886年11月1日。
- ^ 『官報』第2541号「授爵叙任及辞令」1891年12月17日。
- ^ 『官報』第4046号「叙任及辞令」1896年12月22日。
- ^ 『官報』第6326号「叙任及辞令」1904年8月1日。
- ^ 『官報』第6638号「叙任及辞令」1905年8月15日。
- ^ 『官報』第1473号「叙任及辞令」1888年5月30日。
- ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
- ^ 『官報』第5393号「叙任及辞令」1895年6月22日。
- ^ 『官報』第3732号「叙任及辞令」1895年12月5日。
- ^ 『官報』第3880号「授爵叙任及辞令」1896年6月6日。
- ^ 『官報』第6148号「叙任及辞令」1903年12月28日。
- ^ 『官報』第570号「賞勲叙任」1885年5月28日。
- ^ a b c d 『官報』第1338号「辞令」1887年12月13日。
- ^ a b c d 『官報』第1339号「叙任及辞令」1887年12月14日。
- ^ 『官報』第2726号「叙任及辞令」1892年7月29日。
- ^ a b 『官報』第3016号「叙任及辞令」1893年7月19日。
- ^ 『官報』第3072号「叙任及辞令」1893年9月22日。
- ^ 『官報』第3338号「叙任及辞令」1894年8月14日。
- ^ 『官報』第3486号「叙任及辞令」1895年2月15日。
- ^ 『官報』第3651号「叙任及辞令」1895年8月29日。
- ^ a b c d e 『官報』第5811号「叙任及辞令」1902年11月15日。
- ^ 『官報』第5888号「叙任及辞令」1903年2月21日。
- ^ 『官報』第6515号「叙任及辞令」1905年3月23日。
- ^ a b Britain and Japan: Biographical PortraitsHugh Cortazzi 編, Routledge, 2013/05/13
- ^ Women Writing JapanThe History of British Women's Writing, 1880-1920: Volume Seven, Holly A. Laird, Springer, 2016/10, p177
- ^ 『国際結婚第一号』小山騰、講談社 (1995/12), p149
- ^ 長岡祥三「日本協会の創立者アーサー・ディオシー」『英学史研究』第1997巻第29号、日本英学史学会、1996年、11頁、2019年7月11日閲覧。
参考文献
編集- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』霞会館、1996年
外部リンク
編集公職 | ||
---|---|---|
先代 鍋島直大 |
式部長 1895年 - 1905年 |
次代 (欠員→)戸田氏共 |
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式部次長 1889年 - 1895年 |
次代 徳川篤敬 |
先代 堤正誼 |
閑院宮別当 1893年 - 1895年 |
次代 花房義質 |
先代 香川敬三 |
主殿頭 1888年 - 1889年 |
次代 山口正定 |
先代 堤正誼 |
調度局長 1887年 - 1888年 |
次代 麻見義修 |
先代 (新設) |
小松宮別当 1886年 - 1888年 |
次代 桜井能監 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
男爵 三宮(義胤)家初代 1896年 - 1905年 |
次代 三宮錫馬 |