ヴィルヘルム・フォン・ヘッセン=フィリップスタール=バルヒフェルト (1831-1890)
ヴィルヘルム・フリードリヒ・エルンスト・フォン・ヘッセン=フィリップスタール=バルヒフェルト(Wilhelm Friedrich Ernst von Hessen-Philippsthal-Barchfeld, 1831年10月3日 - 1890年1月17日)は、ドイツの諸侯家門ヘッセン家の公子。ヘッセン=フィリップスタール=バルヒフェルト方伯カールとその2番目の妻でベントハイム=シュタインフルト侯ルートヴィヒ・ヴィルヘルムの娘であるゾフィーの間の第4子、四男[1]。
ヴィルヘルム・フォン・ヘッセン=フィリップスタール=バルヒフェルト Wilhelm von Hessen-Philippsthal-Barchfeld | |
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出生 |
1831年10月3日 シュタインフルト |
死去 |
1890年1月17日(58歳没) ローテンブルク・アン・デア・フルダ |
配偶者 | マリア・フォン・ハーナウ=ホロヴィッツ |
ユリアーネ・フォン・ベントハイム=シュタインフルト | |
アーデルハイト・フォン・ベントハイム=シュタインフルト | |
アウグステ・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク | |
子女 | 一覧参照 |
家名 | ヘッセン=フィリップスタール=バルヒフェルト家 |
父親 | ヘッセン=フィリップスタール=バルヒフェルト方伯カール |
母親 | ゾフィー・ツー・ベントハイム=シュタインフルト |
子女
編集1857年12月27日にカッセルにおいて、ヘッセン選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が貴賤結婚でもうけた娘であるハーナウ=ホロヴィッツ侯女マリアと最初の結婚をした。この結婚はやはりマリアの母の出自の低さから貴賤結婚とされ、夫妻の間に生まれた2男3女の5人の子女は家督相続権を認められず、アルデック侯子(Prinz[essin] von Ardeck)の家名を名乗ることになった。ヴィルヘルムは1872年にマリアと離婚した。
- フリードリヒ・ヴィルヘルム(1858年 - 1902年)
- カール・ヴィルヘルム(1861年 - 1938年)
- ゾフィー・アウグステ・エリーザベト(1864年 - 1919年) - 1886年、イーゼンブルク・ウント・ビューディンゲン・イン・フィリップザイヒ伯フェルディナントと結婚
- アリーツェ(1867年 - 1868年)
- カロリーネ・ルイーゼ(1868年 - 1959年) - 1889年、リッペ侯子ルドルフと結婚
1873年8月16日にシュタインフルトにおいて、異母姉ベルタとその夫のベントハイム=シュタインフルト侯ルートヴィヒの間の娘ユリアーネ(1842年 - 1878年)と再婚し、間に3男1女の4人の子女をもうけたが、1878年に死別した。
- ベルタ・ルイーゼ(1874年 - 1919年) - 1901年、リッペ侯レオポルト4世と結婚
- クロートヴィヒ・アレクシス・エルンスト(1876年 - 1957年) - ヘッセン=フィリップスタール=バルヒフェルト方伯家家長
- エドゥアルト・エルンスト・アレクシス・ヘルマン・フィリップ(1878年 - 1879年)
- ユリアン・カール・ゲオルク・ヴィルヘルム(1878年、エドゥアルトの双子の弟)
1879年8月23日にシュタインフルトにおいて、先妻ユリアーネの実姉アーデルハイト(1840年 - 1880年)と3度目の結婚をしたが、間に子供をもうけないまま1880年に死別した。
1884年12月6日にルイーゼンルント城(Schloss Luisenlund)において、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク公フリードリヒの娘アウグステ(1844年 - 1932年)と4度目の結婚をし、間に息子を1人もうけた。
- クリスティアン・ルートヴィヒ・フリードリヒ・アドルフ・アレクシス・ヴィルヘルム・フェルディナント(1887年 - 1971年)
脚注
編集- ^ Lundy, Darryl. “The Peerage: Wilhelm Prinz von Hessen-Philippsthal-Barchfeld”. 2 March 2012閲覧。