ロマン・グレボヴィチ (ノヴゴロド公)
ロマン・グレボヴィチ(ロシア語: Роман Глебович、? - 1301年以降)は、スモレンスク公グレプの末子である。ノヴゴロド公:? - 1293年、ムスチスラヴリ公:1281年 - 1301年以降。
ロマン・グレボヴィチ Роман Глебович | |
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ノヴゴロド公 ムスチスラヴリ公 | |
在位 |
ノヴゴロド公:? - 1293年 ムスチスラヴリ公:1281年 - 1301年以降 |
死去 |
1301年以降 |
子女 |
ドミトリー ヴァシリー オリガ |
家名 | リューリク家 |
父親 | スモレンスク公グレプ |
生涯
編集1293年のジョチ・ウルス軍の襲撃(ru)、同年のウラジーミル大公国のアンドレイによるウラジーミル、ノヴゴロド支配の後すぐに、ロマンはアンドレイの依頼を受けて[1]、スウェーデン王国軍の建設したカレルィ人(ru)の地の要塞への遠征軍を率いた。しかし雪解けと馬の飼料の欠乏のために、ルーシ軍は撤退を余儀なくされた。
ノヴゴロド公位に就いた年は不詳であるが、L.ヴォイトヴィチの説によれば、ロマンは1293年までノヴゴロド公だったという[2]。また年代記によれば、1284年からノヴゴロド公にはドミトリーが就いている[1]。
1300年、兄のアレクサンドルと共に、ドロゴブージの包囲戦に参加した。しかしブリャンスク公アンドレイの援軍が到来し、ロマンら兄弟の軍は敗れた。
妻子
編集妻の名前は不明である。子には以下の人物がいる。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b НОВГОРОДСКАЯ ПЕРВАЯ ЛЕТОПИСЬ МЛАДШЕГО ИЗВОДА
- ^ Л.Войтович КНЯЗІВСЬКІ ДИНАСТІЇ CXIДНОЇ ЄВРОПИ
- ^ В.М. Коган. История Дома Рюриковичей // Дом Королей Галицких. — 1993.. — Т. 1.