ロジャー・ビゴッド (第5代ノーフォーク伯)
第5代ノーフォーク伯ロジャー・ビゴッド(Roger Bigod, 5th Earl of Norfolk, 1245年ごろ - 1306年12月6日)は、司法長官ヒュー・ビゴッドの息子。父の兄である第4代ノーフォーク伯ロジャー・ビゴッドの跡を継いでノーフォーク伯となった。
ロジャー・ビゴッド Roger Bigod | |
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第5代ノーフォーク伯 | |
![]() ロジャー・ビゴッドに命令に従うよう脅迫するエドワード1世。「お前は去るか、絞首刑に処せられるかだ!」 | |
在位 | 1270年 - 1306年 |
出生 |
1245年ごろ |
死去 |
1306年12月6日 |
配偶者 | アリーン・バセット |
アリックス・ド・エノー | |
家名 | ビゴッド家 |
父親 | ヒュー・ビゴッド |
母親 | ジョーン・ド・スチュートヴィル |

生涯
編集ロジャーは、1297年にイングランド王エドワード1世と口論を起こした。この口論は、エドワード1世がフランドルに向かう間、ロジャーがガスコーニュでフランス王に対抗するよう王が命じたことから生じた。ロジャーは、自身の領土の封建的所有権により、国王とともに海を渡るときのみ海外で戦う義務があると主張した。するとエドワード1世は「神に誓って、伯爵よ、お前は行くか、絞首刑に処せられるかだ」と言ったが、ロジャーは「同じ誓いにより、王よ、私は行くことも絞首刑に処されることもない」と答えた[1]。
ロジャーは主張を通し、エドワード1世がフランスへ出発した後、第3代ヘレフォード伯ハンフリー・ド・ブーンと共に戦争のための援助金の徴収を阻止し、1297年と1301年にエドワード1世に勅許状を承認させた。歴史家ウィリアム・スタッブスはロジャーとブーンを「偉大な父の堕落した息子で、愛国心よりも機会に恵まれた」と評した[2]。
ロジャーは以前は国王によく仕えていた。例えば、1282年8月のことであるが、当時の記録にはロジャーが「国王の奉仕でウェールズへ行った」とある。ロジャーはアイルランドにいない間、レジナルド・リヴェットとウィリアム・カデルをその年のイングランドの代理人に指名する手紙を送っていた[3]。レジナルド・リヴェットはおそらく、13世紀初頭に数期にわたりダブリン市長を務め、初代ペンブルック伯ウィリアム・マーシャルの支持者でもあったギルバート・ド・リヴェットの息子であった。一部の学者は、イングランドのアイルランド支配が弱まり始めた時代に、ビゴッド家やクレア家のようなイングランド貴族がアイルランドの領土をいかにして厳重に保持していたのか疑問を持っている。その秘密の一部は、この場合のようにロジャーが副官のリヴェットとカデルに権限を委譲したことにあったようである[4]。
結婚
編集ロジャーは、最初に初代ル・ディスペンサー男爵ヒュー・ル・ディスペンサー(1265年没)の未亡人で、ケンブリッジシャーのソーハムのサー・フィリップ・バセットと最初の妻はマシュー・ド・ロヴェイン卿の娘ハウィズ・ド・ロヴェインの間の娘で相続人でもあるアリーン・バセットと結婚した。2人の間には子供はいなかった[5]。
次に、エノー伯ジャン2世・ダヴェーヌと、その妻でルクセンブルク伯ハインリヒ5世の娘フィリッパとの間の娘アリックス・ド・エノーと結婚した。2人の間には子供はいなかった[5]。
死と継承
編集ロジャーは1306年12月6日に死去した[5]。1302年、高齢で子供のいなかったロジャーは伯位を国王に返上し、それを「自身の直系子孫」に相続する条件で再び受け取った。これにより、弟ジョンは相続権を失った。そのため、1306年12月にロジャーが子を残さずに亡くなったとき、ロジャーの保持していた爵位は消滅し、その財産は王室に帰属し、最終的にノーフォーク伯トマス・オブ・ブラザートンに与えられた[6][7]。
紋章
編集-
「ビゴッド・エンシェント」の紋章。1269年以降、第5代ノーフォーク伯ロジャー ビゴッドがイングランド軍務伯の職を継承した後に廃止。:金地に赤い十字。次の紋章帳に彼が付けていたと記録されている:Glover's Roll (B3); St George's Roll (E23)[8]。
脚注
編集- ^ Stubbs 1906, p. 138.
- ^ Stubbs 1906, p. 312.
- ^ Calendar of Patent Rolls, August 1282, sdrc.lib.uiow.edu/patentrolls
- ^ “English Lords in Late Thirteenth and Early Fourteenth Century Ireland: Roger Bigod and the de Clare lords of Thomond”, Beth Hartland, King's College, London, The English Historical Review, 2007, oxfordjournals.org
- ^ a b c Richardson I 2011, p. 204.
- ^ Tout 1894, p. 139.
- ^ McFarlane 1973, p. 262.
- ^ “Norfolk”. 2025年3月8日閲覧。
参考文献
編集- Richardson, Douglas (2011). Everingham, Kimball G.. ed. Magna Carta Ancestry: A Study in Colonial and Medieval Families. I (2nd ed.). Salt Lake City. ISBN 978-1449966379
- McFarlane, K. B. (1973). “Had Edward I a 'Policy' towards the Earls?”. The Nobility of Later Medieval England. pp. 248–267, reprinted from History, 50 (1965), 145–59
- Stubbs, William (1906). The Constitutional History of England in Its Origin and Development, vol. 2
- Thompson, Edward Maunde (1886). Stephen, Leslie (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 5. London: Smith, Elder & Co. pp. 26–27. . In
- Tout, T. F. (1894). “The Earldoms under Edward I”. Transactions of the Royal Historical Society. New Series (Transactions of the Royal Historical Society, Vol. 8) 8: 129–155. doi:10.2307/3678037. JSTOR 3678037 .
- この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Bigod, Hugh". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 3 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 923.
公職 | ||
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先代 ロジャー・ビゴッド |
軍務伯 1269年 - 1306年 |
次代 ロバート・ド・クリフォード |
イングランドの爵位 | ||
先代 ロジャー・ビゴッド |
ノーフォーク伯 1270年 - 1306年 |
消滅 |