ヤチスギラン(谷地杉蘭[1]Lycopodiella inundata)は、ヒカゲノカズラ科小葉植物の一種。ミズゴケの生える湿地を好み、北半球の温帯から北側では北アメリカユーラシア北極圏まで分布している。高さ 10 cmセンチメートル以下でブラシ状の胞子嚢穂をつける。

ヤチスギラン
ヤチスギラン
ヤチスギラン
分類
: 植物界 Plantae
: 維管束植物門 Tracheophyta
亜門 : 小葉植物亜門 Lycophytina
: ヒカゲノカズラ綱 Lycopodiopsida
: ヒカゲノカズラ目 Lycopodiales
: ヒカゲノカズラ科 Lycopodiaceae
亜科 : Lycopodielloideae
: ヤチスギラン属 Lycopodiella
: ヤチスギラン L. inundata
学名
Lycopodiella inundata (L.) Holub. (1964)
シノニム
  • Lycopodium inundatum L.
和名
ヤチスギラン
英名
bog clubmoss, marsh clubmoss

和名の由来は谷地(湿地)に生えスギランに似ていることによる[1]。学名の種形容語 inundata は「水浸しの (flooded)」を意味するラテン語 inundatus に由来する[2]

特徴

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胞子体

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ヤチスギランの胞子嚢穂

鮮緑色で、やや軟質の草本[3]。湿原に生え、小型[4]。茎は匍匐茎(栄養茎)と直立茎(胞子茎)の2種類を持つ[5]。地表を伸びる匍匐茎から高さ10 cm 以下の直立茎を立ち上げる[4]

茎は湿原の上を短く匍匐する[3][6][7]。通常、疎らに分枝し[3][7][5]、長さ 10–20 cm に成長する[3][7]。葉を含む茎の直径は 5–10 mmミリメートル[3](または4–6 mm[7])。

匍匐茎の葉は線形から線状披針形で、先端は鋭尖頭[3][7]。葉は普通、全縁か、微鋸歯縁を持つ[3][4][7]。中肋ははっきり見える[3][7]。葉の長さは5–6.5 mm、幅0.5–0.7 mm で[7]、開出し、下側の葉は多少上向きに曲がる[3]

胞子嚢穂をつける生殖シュートは通常1本の茎に単生し、直立する[3][8]。小梗には斜上または開出する葉を密生し、長さは3–10 cm[3]。胞子嚢穂は梗頂に1個(または2個[9])形成され、長さは2–4 cm[3][4]。葉と合わせた直径は7–15 mm[3][7]。胞子囊穂を構成する胞子葉は狭線形で、基部は広がり、開出またはやや反曲する[3][4][7]。直立茎は分枝しない[5]。直立茎の葉は開出から斜上し、辺縁は全縁から僅かに鋸歯縁[7]

夏緑生で[5]、冬には匍匐茎の殆どが枯れ、先端部のみが緑色を保って越冬する[4][6][7]

 
シュートの腹側から頻繁に発根している様子。

疎らにを付け、葉を密に付ける[7]。活発に成長しているシュートでは、シュート頂付近から新しい根原基が形成され、内生発生する[10]。根端の構造は層状で、ヒカゲノカズラの根のようなQC様領域は持たない[11]

配偶体

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配偶体は独立栄養性で葉緑体を持つ[1]。ヤチスギランの配偶体は地面の表面から見つかり、卵形から背腹性を持つ軸状で、緑色の短い地上枝を持つ[12]。大きさは配偶体全体でも3 mm 程度である[12]。無色の基部には仮根を生じる[12]。ヒカゲノカズラ科のうち、大部分の種には内生菌根が存在し、発生初期に配偶体に侵入して配偶体の特定部分を占めている[12]

このような緑色の配偶体は、ヒカゲノカズラの配偶体が持つ菌従属栄養性で白色の地中生配偶体と対局的である[13]

倍数性

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日本産のものは未知[1]。外国産で4倍体有性生殖の報告がある[1]。知られている染色体数は外国産の n = 78[7]

分布

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湿地に生育する様子。

北半球の温帯の湿原に広く生育する[3][7]。寒地[6][7]や高地の湿原に分布する[7]。生育環境は多くなく、分布が湿原という特殊環境に限定されているため徐々に減少しつつある[7]

日本では北海道から近畿地方の中部・北部にまで分布し、湿原に生じる[3][4]。国外ではロシア中国福建省北米ヨーロッパに産する[1]。模式産地はスウェーデン[1]

冬には匍匐茎の先が越冬し、残りの部分は枯れる[3][7]

栽培

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栽培の際は、シュート 20–40 cm を切り取って用いる[10]。濡らした紙タオルの中に密閉して静置することで発根させ、用土に植え付ける[14]。用土には3:1:1で混合した軽石とピート、埴壌土を用いる[15]。発根させるためには、湿度はほぼ飽和状態である必要がある[15]

分類

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かつてヒカゲノカズラ科にはヒカゲノカズラ属 Lycopodiumフィログロッスム属 Phylloglossum の2属のみが認識されており[16][17]、ヤチスギランはヒカゲノカズラ属の一種 Lycpodium inundatum とされていた[7][1]。しかし、かつてのヒカゲノカズラ属はあまりにも広義であり、ボディプランが多様な種を多く含んでいたため[18]、細分化されることとなった[19]PPG I (2016) 分類体系では、ヒカゲノカズラ科は3亜科に分けられ、ヤチスギランはそのうち亜科 Lycopodielloideaeヤチスギラン属[17][1] Lycopodiella に属する[19][注釈 1]

Chen et al. (2021) による分子系統解析に基づくヒカゲノカズラ科現生種の内部系統関係を示す[20]Lycopodielloideae は世界に30種以上、日本には3種のみが分布する[1]。ヤチスギラン属は形態が類似するイヌヤチスギラン属と姉妹群をなす[20]

ヒカゲノカズラ科
コスギラン亜科

フィログロッスム属 Phylloglossum

ヨウラクヒバ属 Phlegmariurus

コスギラン属 Huperzia

Huperzioideae

イヌヤチスギラン属 Pseudolycopodiella

ヤチスギラン属 Lycopodiella

ミズスギ属 Palhinhaea

Brownseya

Lateristachys

Lycopodielloideae
ヒカゲノカズラ亜科

ヒモヅル属 Lycopodiastrum

Pseudolycopodium

Pseudodiphasium

Austrolycopodium

マンネンスギ属 Dendrolycopodium

Diphasium

アスヒカズラ属 Diphasiastrum

ヒカゲノカズラ属 Lycopodium

スギカズラ属 Spinulum

Lycopodioideae
Lycopodiaceae

日本に生息する Lycopodielloideae の残りの2種は下記の通りである[1]

  • イヌヤチスギラン Pseudolycopodiella caroliniana - 南半球を含む世界全体に分布する植物だが、日本では滋賀県高島市の1地点にしか残存しない[1]。この一箇所の産地は乾燥が進み、絶滅の危機に瀕している[7]。イヌヤチスギランの匍匐茎の葉は二形を持ち、背側と腹側のもので葉の形態が異なることで区別される[7][21]。また、胞子嚢穂の柄にはヤチスギランでは葉が密生するのに対し、イヌヤチスギランでは疎らに葉が付く[22]
  • ミズスギ Palhinhaea cernua - 日本では小笠原諸島・琉球列島・本州・四国・北海道(釧路・胆振)に分布する、南方系の種である[1]。火山の硫気地帯の環境に耐性を持ち、北日本では温泉や噴気孔周辺に特異的に分布する[1]。ヤチスギランやイヌヤチスギランとは異なり、胞子嚢穂は長さ1 cm 以下で、側枝の先端から下垂する[22][21]

狭義のヤチスギラン属には以下の種が属する[23]

保護の状況

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環境省のレッドデータブックには指定されていないが、開発に伴う湿地環境の減少から複数の都道府県のレッドデータブックで絶滅危惧種に指定されている。

  • 独自カテゴリ(分布上重要種) - 滋賀県

注釈

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脚注

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  1. ^ 分類体系により、様々な取り扱いがなされてきた。例えば、秦仁昌の分類体系では、ヒカゲノカズラ目に2科7属を認め、PPG I におけるコスギラン亜科をコスギラン科として、コスギラン属とヨウラクヒバ属を認め、PPG I における残りの2亜科をヒカゲノカズラ科として、ヒカゲノカズラ属、アスヒカズラ属 Diphasiastrum、ヤチスギラン属 Lycopodiellaヒモヅル属 Lycopodiastrumミズスギ属 Palhinhaea の5属を認めた[17]。この場合、イヌヤチスギランはヤチスギラン属に含められた[17]海老原 (2016) ではヒカゲノカズラ科のみを認め、コスギラン亜科は3属であり PPG I と同様であるが、ヒカゲノカズラ亜科 Lycopodioideae をヒカゲノカズラ属1属、Lycopodielloideae をヤチスギラン属1属にまとめ、1科5属とした[16]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 海老原 2016, p. 263.
  2. ^ Stearn 2004, p. 435.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 田川 1959, p. 14.
  4. ^ a b c d e f g 梅沢 2015, p. 12.
  5. ^ a b c d 海老原 2016, p. 267.
  6. ^ a b c 高宮 1997, p. 91.
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 岩槻 1992, p. 48.
  8. ^ ギフォード & フォスター 2002, p. 117.
  9. ^ 海老原 2016, p. 269.
  10. ^ a b Benca 2014, p. 29.
  11. ^ Fujinami et al. 2019, p. 1214.
  12. ^ a b c d ギフォード & フォスター 2002, p. 125.
  13. ^ ギフォード & フォスター 2002, p. 127.
  14. ^ Benca 2014, p. 32.
  15. ^ a b Benca 2014, p. 37.
  16. ^ a b 海老原 2016, p. 260.
  17. ^ a b c d 岩槻 1992, p. 42.
  18. ^ Benca 2014, p. 30.
  19. ^ a b PPG I 2016, p. 569.
  20. ^ a b Chen et al. 2021, pp. 25–51.
  21. ^ a b 田川 1959, p. 15.
  22. ^ a b 岩槻 1992, p. 43.
  23. ^ Hassler 2024.

参考文献

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  • Benca, J.P. (2014). “Cultivation Techniques for Terrestrial Clubmosses (Lycopodiaceae): Conservation, Research, and Horticultural Opportunities for an Early-Diverging Plant Lineage”. American Fern Journal 104 (2): 25–48. 
  • Chen, De-Kui; Zhou, Xin-Mao; Rothfels, Carl J.; Shepherd, Lara D.; Knapp, Ralf; Zhang, Liang; Lu, Ngan Thi; Fan, Xue-Ping et al. (2021). “A global phylogeny of Lycopodiaceae (Lycopodiales; lycophytes) with the description of a new genus, Brownseya, from Oceania”. TAXON 71 (1): 25–51. doi:10.1002/tax.12597. 
  • Fujinami, Rieko; Yamada, Toshihiro; Nakajima, Atsuko; Takagi, Shoko; Idogawa, Ai; Kawakami, Eri; Tsutsumi, Maiko; Imaichi, Ryoko (2019). “Root apical meristem diversity in extant lycophytes and implications for root origins”. New Phytologist 215: 1210-1220. doi:10.1111/nph.14630. 
  • Hassler, Michael. “Lycopodiella inundata”. World Ferns. Synonymic Checklist and Distribution of Ferns and Lycophytes of the World. Version 24.12; last update December 15th, 2024. 2024年12月27日閲覧。
  • PPG I (The Pteridophyte Phylogeny Group) (2016). “A community-derived classification for extant lycophytes and ferns”. Journal of Systematics and Evolution (Institute of Botany, Chinese Academy of Sciences) 56 (6): 563–603. doi:10.1111/jse.12229. 
  • Stearn, W.T. (2004). BOTANICAL LATIN (4th ed.). Portland, OR: Timber Press 
  • 岩槻邦男『日本の野生植物 シダ』平凡社、1992年2月4日。ISBN 4-582-53506-2 
  • 梅沢俊『北海道のシダ入門図鑑』2015年7月10日。ISBN 978-4-8329-1399-8 
  • 海老原淳、日本シダの会 企画・協力『日本産シダ植物標準図鑑1』学研プラス、2016年7月13日、16-17頁。ISBN 978-4054053564 
  • アーネスト M. ギフォードエイドリアンス S. フォスター『維管束植物の形態と進化 原著第3版』長谷部光泰鈴木武植田邦彦監訳、文一総合出版、2002年4月10日。ISBN 4-8299-2160-9 
  • 高宮正之「ヒカゲノカズラ科」『朝日百科 植物の世界[12] シダ植物・コケ植物・地衣類・藻類・植物の形態』岩槻邦男、大場秀章、清水建美、堀田満、ギリアン・プランス、ピーター・レーヴン 監修、朝日新聞社、1997年10月1日、89–92頁。 
  • 田川基二『原色日本羊歯植物図鑑』保育社〈保育社の原色図鑑〉、1959年10月1日、1-21頁。ISBN 4586300248