ホセ・デ・マドラーソ
ホセ・デ・マドラーソ(José de Madrazo y Agudo、1781年4月22日 - 1859年5月8日)は、スペインの画家、版画家である。肖像画、歴史画を描いた。プラド美術館の館長も務めた。
ホセ・デ・マドラーソ José de Madrazo | |
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自画像 | |
生誕 |
1781年4月22日 スペイン, サンタンデール |
死没 |
1859年5月8日 スペイン, マドリード |
略歴
編集現在のスペイン・カンタブリア州のサンタンデールに生まれた。マドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーでコスメ・デ・アクーニャやグレゴリオ・フェロに学んだ。その才能はフランス大使のFernando La Sernaが注目するところとなり、パリに伴われ、1803年からフランスの新古典派の画家、ジャック=ルイ・ダヴィッドの工房で学ぶことになった[1][2][3] 。ナポレオンの治世下で1806年にローマに移り、アカデミア・ディ・サン・ルカでも学んだ。
イタリアで活動していたシレジアの画家、タデウシュ・クンツェの娘と1809年にローマで結婚した。
ローマでは、1808年に退位し、ローマに亡命していた元のスペイン国王、カルロス4世に会い、宮廷画家に任じられたが、名目的なものであった。ナポレオンの支配が終わり、フェルナンド7世が復位した後の1818年にマドリードに戻った[4] 。1823年に王立サン・フェルナンド美術アカデミーの教授になり、その後、校長になった。スペイン王室の美術コレクションなどを収蔵するために1819年に設立されたプラド美術館の収蔵品の整理、拡充に貢献し1838年に美術館長を務めた。
息子のフェデリコ・デ・マドラーソやルイス・デ・マドラーソが画家になり、その次の世代のライムンド・デ・マドラーソらも画家となり、マドラーソ家はスペインの美術における重要な一族になった。
作品
編集-
フランスの胸甲騎兵(c.1813)
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アンナスの前のイエス
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ヴィリアトゥスの死
脚注
編集- ^ José de Madrazo y Agudo. In: Who’s Who. Abgerufen am 21. Januar 2013
- ^ Allison Lee Palmer (2011), [ホセ・デ・マドラーソ, p. 146, - Google ブックス Historical Dictionary of Neoclassical Art and Architecture: Band 48 von Historical Dictionaries of Literature and the Arts] (ドイツ語), Lanham, Maryland: Scarecrow Press, p. 146, ISBN 978-0-8108-6195-4。
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の値が不正です。 (説明) - ^ Madrazo y Agūdo. In: Meyers Konversations-Lexikon. 4. Auflage. Band 11, Verlag des Bibliographischen Instituts, Leipzig/Wien 1885–1892, S. 49.
- ^ Madrazo y Agūdo. In: Meyers Konversations-Lexikon. 4. Auflage. Band 11, Verlag des Bibliographischen Instituts, Leipzig/Wien 1885–1892, S. 49.
参考文献
編集- Francisco Javier Sánchez Cantón: Der Prado. Deutsche Buch-Gemeinschaft; Droemersche Verlagsanstalt Th. Knaur Nachf., Berlin/ Darmstadt/ Wien; München/ Zürich 1959, S. 55–58 (französisch: Trésors de la peinture au Prado. Übersetzt von Alfred P. Zeller).
- José Luis Diez (Hrsg.): José de Madrazo. Madrid 1998, ISBN 84-87678-69-6.