フィリップ1世 (ブルゴーニュ公)
フィリップ1世(Philippe Ier de Bourgogne, 1346年 - 1361年11月21日)は、フランスのブルゴーニュ公(在位:1349年 - 1361年)。ルーヴル城(現フランス東部)で生まれ、同地で没したことからフィリップ・ド・ルーヴル(Philippe de Rouvre)の通称で知られる[1]。
フィリップ1世 Philippe Ier | |
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ブルゴーニュ公 | |
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在位 | 1349年 - 1361年 |
出生 |
1346年 ブルゴーニュ公国、ルーヴル=アン=プレンヌ |
死去 |
1361年11月21日 ブルゴーニュ公国、ルーヴル=アン=プレンヌ |
配偶者 | マルグリット・ド・ダンピエール |
家名 | カペー=ブルゴーニュ家 |
父親 | オーヴェルニュ伯フィリップ |
母親 | オーヴェルニュ女伯ジャンヌ |
生涯
編集若きブルゴーニュ公
編集オーヴェルニュ伯フィリップとオーヴェルニュ女伯ジャンヌの間の、唯一の男子。ブルゴーニュ公ウード4世の一人息子であった父が誕生と前後して早世したため、祖父の死後に4歳で公位を継承した。母ジャンヌは1349年にフランス王ジャン2世と再婚し、1360年9月に死去するまでブルゴーニュを統治し、フィリップの後見人をつとめた[2]。
1349年に祖母ジャンヌ3世からブルゴーニュ伯領とアルトワを、1350年に祖父ウード4世からブルゴーニュ公領を、1360年に母ジャンヌからオーヴェルニュとブローニュを相続した。
加えて1357年5月14日にサン=ヴァーストにおいて又従妹に当たるフランドル女伯マルグリット・ド・ダンピエールと結婚したため[3]、さらにフランドル、ヌヴェール、ルテル、アントウェルペン、ブラバント公国、リンブルク公国を獲得するはずだった。
しかし1361年11月21日、腺ペスト[4][1]もしくは乗馬の事故[5]のために15歳で早世した。逝去10日前の11月11日にフィリップは遺言を認めていたが、遺言書からは病状の深刻さはうかがえないという[1]。
早世と相続
編集フィリップの死により、それぞれの遺領の継承の経緯(血縁)により、それぞれの縁者が継承した。
- ブルゴーニュ公国
- フィリップの継父でブルゴーニュ公ロベール2世(フィリップの曾祖父)の孫であるジャン2世が(実質的には息子シャルル5世が)獲得した[5]。
- ブルゴーニュ伯領とアルトワ
- ジャンヌ3世の妹マルグリット[注釈 1]が獲得した。
- オーヴェルニュ伯領とブローニュ伯領
- 母ジャンヌ1世の血筋に由来[6]。母方の大叔父であり、母の再婚相手フランス王ジャン2世の近親でもあるブローニュ伯ジャンが獲得した[6]。
遺領の相続問題は、母の再婚相手でもあるフランス王ジャン2世と懇意[注釈 2]で、フィリップの大叔父のひとりであるブローニュ伯ジャンが担うこととなった[8]。ジャン1世は12月28日に、ブルゴーニュ公国の廷臣を集めた会議を招集した[9]。ここで「公領は公領として存続」する旨が了解された[10]。翌1962年1月16日、フランス王ジャン2世、ブルゴーニュ女伯マルグリット、そしてブローニュ伯ジャン1世の三者によりシトーで合意が成立した[11]。この取り決めは公的文書によるものではなかったが、事後になって同日付の証書が交わされている[11]。
相続権を主張する者は他にもいて、ロベール2世の長女マルグリットの孫であったエヴルー伯シャルル(ナバラ王カルロス2世)は、長系相続者としてブルゴーニュ公位を要求した。しかし、ナバラ王は周囲の支持を全く得ることができず[12]、1363年に至りシャルル5世が差し向けた傭兵隊長ベルトラン・デュ・ゲクランの軍勢に敗れて要求を放棄した。
そして1363年1月15日、神聖ローマ皇帝カール4世との間にフランシュ・コンテをシャルル5世の弟フィリップ(豪胆公/ル・アルディ)に授封する密約が成立する[13]と、同年9月6日、ブルゴーニュ公位は新たにフィリップ豪胆公に与えられた(ヴァロワ=ブルゴーニュ家の成立)[14]。
系譜
編集フィリップ1世 | 父: フィリップ |
祖父: ウード4世 (ブルゴーニュ公) |
曽祖父: ロベール2世 (ブルゴーニュ公) |
曽祖母: フランス王女アニェス[1] | |||
祖母: ジャンヌ3世 (ブルゴーニュ女伯) |
曽祖父: フィリップ5世 (フランス王) | ||
曽祖母: ジャンヌ2世 (ブルゴーニュ女伯) | |||
母: ジャンヌ1世 (オーヴェルニュ女伯) |
祖父: ギヨーム12世 (オーヴェルニュ伯) |
曽祖父: ロベール7世 (オーヴェルニュ伯) | |
曽祖母: ブランシュ・ド・ブルボン[2] | |||
祖母: マルグリット・デヴルー |
曽祖父: エヴルー伯ルイ[3] | ||
曽祖母: マルグリット・ダルトワ |
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c カルメット 2023, p. 51.
- ^ Sumption 1999, p. 382.
- ^ Petit 1905, p. 249.
- ^ De Winter 1983, p. 95.
- ^ a b Ormrod 2011, p. 417.
- ^ a b カルメット 2023, p. 55.
- ^ カルメット 2023, p. 60.
- ^ カルメット 2023, p. 59.
- ^ カルメット 2023, p. 63.
- ^ カルメット 2023, p. 64.
- ^ a b カルメット 2023, p. 58.
- ^ カルメット 2023, pp. 56–57.
- ^ カルメット 2023, pp. 66–67.
- ^ カルメット 2023, pp. 70.
参考文献
編集- カルメット, ジョゼフ 著、田辺保 訳国書刊行会、2000年5月1日。ISBN 978-4-3360-4239-2。
- Sumption, Jonathan (1999). The Hundred Years War:Trial by Fire. Vol. II. University of Pennsylvania Press
- Petit, E. (1905). Histoire des ducs de Bourgogne de la race capétienne. t. IX. Dijon: Imprimerie Darantiere
- De Winter, Patrick M. (1983). “Castles and Town Residences of Philip the Bold, Duke of Burgundy (1364-1404)”. Artibus et Historiae 4 (8): 95.
- Ormrod, W. Mark (2011). Edward III. Yale University Press
関連項目
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