ツタンカーメン

古代エジプト第18王朝のファラオ
ツタンカーメンの墓から転送)

ツタンカーメン(翻字: twt-ꜥnḫ-ı͗mn, エジプト語英語化: Tutankhamun[5][12], Tutankhamen, King Tut, ? - 紀元前1327年頃[13])は、古代エジプト第18王朝ファラオ(在位: 紀元前1336年頃 - 紀元前1327年頃[14])。より厳密な表記では、トゥトアンクアメン[2][5][6]エジプト新王国時代、第18王朝末期の最後の直系王族である[15]。若くして亡くなった悲劇の少年王として、また副葬品などがほとんど完全な形で発見された王として、エジプトのファラオの中で最も人々に親しまれている[3]

ツタンカーメン
Tut ankh Amun[注釈 1],
Tut ankh Aten(生名)[注釈 2]
ツタンカーメンの黄金のマスク
ツタンカーメンの黄金のマスク
古代エジプト ファラオ
統治期間 紀元前1335年–1327年[注釈 3],第18王朝
共同統治者 ネフェルティティ(ネフェルネフェルウアトン)?[8]
前王 スメンクカーラー
次王 アイ
配偶者 アンケセナーメン
子女 2人(胎児),317aと317b
アクエンアテン
第35号墓(KV35)の若い方の淑女(アメンホテプ4世の同父同母の姉妹)
出生 1341 B.C.
死去 1323 B.C.(享年18 / 19歳ほど)[注釈 7]
埋葬地 KV62英語版
記念物 ツタンカーメン王の喇叭,ツタンカーメンのマスク
その他 生前の身長は、解剖学者のダグラス・デリーによると、168cmと見積もられる[11]
テンプレートを表示

ツタンカーメンは8歳か9歳の時に即位した[6]。このため実権は、内政は親戚関係にある大臣であり、最終的に後継者となる宰相(摂政アイ、外政においては将軍ホルエムヘブに握られていた[6][16]。王妃は異母姉のアンケセナーメンであった。彼は9年 (10年)[13]の治世、16 - 19歳 (18歳)[13]の若さで亡くなった[6][17]

ツタンカーメンは在位期間の短さ、および後世の王名表などから名前が削除されていたことにより人々にほとんど知られていなかった[16]。しかし、1922年ハワード・カーターが、彼のパトロンであるカーナヴォン伯ジョージ・ハーバートによる資金援助で行われた発掘調査にて、ほぼ無傷なツタンカーメンの墓を発見し、世界中の注目を浴びたことでツタンカーメンは非常に有名になった[3][18]。5,000点以上の遺物[19][注釈 8]が出土したことで古代エジプトへの関心が再び高まり、現在カイロ博物館に所蔵されているツタンカーメンのマスクは、今でも同館のシンボルの一つとなっている。また、ツタンカーメンのミイラの発見に関わった数人の人物の突然の死は、ファラオの呪いのせいだとする噂がまことしやかにささやかれた[21]。ツタンカーメンの副葬品は、1961年以降、ヨーロッパや北米オーストラリアなどの美術館に貸し出し展示されている[22]日本では1965年に東京国立博物館など、2012年には上野の森美術館などで展示された[23][24][25]

人物

編集

家族

編集

ツタンカーメンの家族については、彼の生きたアマルナ時代の記録が異端として、ほとんど後世に抹消されてしまった[16]ため、正確な事実は不明であり、諸説ある。ここでは、最も有力である説を主体に、他の説もできる限り記す。

両親

編集

ツタンカーメンの父はアクエンアテン[26]、母は父親の実妹である若い方の淑女[27]乳母サッカラに墓があるマイアと呼ばれる女性であった[28][29]

2008年から10年にかけて、ザヒ・ハワスを含めたカイロ大学の研究チームにより、ツタンカーメンをはじめとする、新王国時代の王族と考えられる人々のミイラの遺伝子解析が行われた[27]。なお、ハワスなど多くのエジプト学者は、様々な証拠から、DNA鑑定の以前より、ツタンカーメンの父はアクエンアテンである可能性が非常に高いと見ていた[19]

鑑定の結果、KV55英語版に埋葬されている人物は35歳から45歳ほどで死亡したことがわかり、碑文の内容とも合わせて、確かにアクエンアテンであり、ツタンカーメンの父親であることがほぼ確定した[30][19]。アクエンアテンがツタンカーメンの父親である可能性は、99.99999981%であったという[30]。今まではKV55のミイラは死亡年齢が25歳だと思われていたため、即位前に2人の娘がおり、さらに即位17年を数えたアクエンアテンではなく、謎の人物であるスメンクカーラーではないかとされていた[19]。しかし、改めてCTスキャンを実行したところ、膝と腰に関節炎を患っていたことが判明したので、40歳前後に死去しただろうと分かり、年齢の面での問題が解決したという[19][注釈 9]。また、KV35から発見された名前不明[注釈 10]の女性のミイラKV35YL(若い方の淑女)は、ツタンカーメンの母親であるだけでなく、KV55のミイラの妹であることも判明した[30][19]

しかし異説もあり、マーク・ガボルデ(en)やエイダン・ドドソン(en)などの一部の研究者は、ツタンカーメンの母親は若い方の淑女ではなく、ネフェルティティであると主張している。彼らはサンプルの古さや汚染の可能性を考えてDNA鑑定の正確性を疑問視し、鑑定結果に不確実性が含まれているのではないかと別の解釈を行った。彼らの解釈では、遺伝子に関係があるのは、彼らが兄妹であることが理由なのではなく、3世代以上にわたる近親交配の結果であり、ネフェルティティはアクエンアテンの従兄妹であるというようにも取れるとしている。また、ツタンカーメンの父はアメンホテプ3世やスメンクカーラーである[31]という異説も過去にあった[7]

さらに他の異説として、ツタンカーメンの母はアクエンアテン妃ネフェルティティや、その次女メリトアテン、あるいはアクエンアテンの第2の王妃であったキヤなどではないかともされているが[注釈 11]、メリトアテンは死亡時10歳ほどであったことが判明しているため可能性は低いと考えられている。ハワスは2010年に、この説を明確に否定している[19]

ハワスは、ツタンカーメンの両親を特定するために、DNA鑑定以前にもヘルモポリスから出土した石碑の断片を探すなどの調査を行っていた。この石碑は、ドイツの調査団のギュンター・ローダー(de)らによる発掘(1929年 - 1939年)の際に既に発見され、1969年に内容が発表されていた。この碑文では、ツタンカーメン(ここではまだトゥトアンクアテン)は名称不明の王の息子であるとされており、「王の体から来たりし王子、彼に愛された、トゥトアンクアテン[i]」との記述が読み取れた[38]。この碑文からは、ひどく破損していたものの「王の体より来たりし王女,二つの土地の支配者たる王の願望[訳語疑問点]、アンクエスエンパーアテン[注釈 12][ii]」との記述も読み取れた[36]。 この碑文は、ツタンカーメンがアクエンアテンの娘であるアンケセナーメンとともに、息子として言及されているので、アクエンアテンがツタンカーメンの父親であることも示しているとされる[36][19]。また、ツタンカーメンがアケトアテン(テル・エル・アマルナ)出身であることを示す数少ない証拠の一つでもある[36]

兄弟姉妹

編集

彼には少なくとも6人の姉妹がいたとされる。メリトアテン、メケトアテン英語版ネフェルネフェルウアテン・タシェリトネフェルネフェルウラー英語版セテプエンラー英語版、そしてアンケセンパーテン(アンケセナーメン)である[39][40]

なお、アクエンアテンの共同統治者であり、アクエンアテンの長女であるメリトアテンと結婚したスメンクカーラーが、ツタンカーメンとどのような血縁関係を持つかどうかは不明であり、アクエンアテンの息子か、ネフェルティティの別名かといった説がある[41]。松本(1994)は、ツタンカーメンはアクエンアテンの弟であり、スメンクカーラーの弟でもある説を紹介する[42]

妻・子女

編集
 
ツタンカーメンとアンケセナーメン(カイロ博物館蔵)
 
ツタンカーメンの子供である胎児317aと317bのミイラ

ツタンカーメンは王になると、異母姉[注釈 13]のアンケセナーメンと結婚した[注釈 14]。吉村(1984)などが提唱する一説によると、彼女との夫婦仲は良かったとされる[16][17][43]。ツタンカーメンとアンケセナーメンに子供がいたことを示す直接的な資料はないが、ツタンカーメンの墓から発見された2体のミイラ化した胎児317aと317bは、2010年2月に行われたDNA鑑定の結果、ほぼ間違いなくツタンカーメンの娘であることが判明した。2011年に発表されたコンピューター断層撮影による研究では、一人は妊娠5か月で、もう一人は妊娠7月であった[44]。なお、彼の妻であるアンケセナーメンはKV21の女性ミイラKV21Aであると考えられている[45]

その他

編集
 
狩猟をするツタンカーメンの像

ツタンカーメン王墓の副葬品に描かれている絵画などの諸資料から、ツタンカーメンとアンケセナーメン夫妻は比較的自由な生活をしていたとされる。ツタンカーメンは優しい性格で、さらに知的で活発であり、特に狩りを好み、しばしばアンケセナーメンを伴って鳥狩りなどをしたとされる[46]

治世

編集

業績

編集

ツタンカーメンは8歳から9歳の時に、「神の父(it netjer)」の称号を持つ宰相アイと将軍ホルエムヘブの下で王位に就いてファラオとなった[16][注釈 15]。幼い王はその幼さゆえに、両者の圧力に強く影響されたと考えられており、治世3年か4年の時、両者の助言によってアメン信仰の再興に踏み切った[17]

古き信仰への回帰

編集

ツタンカーメンは、アクエンアテンの時代には、唯一神アテン信仰が説かれていたため「トゥトアンク」と名乗っていたが、テーベの守護神であるアメン の伝統的な信仰を復活させ、「トゥトアンク」(「アメン神の生ける似姿」の意)と改名した[5][17][47][48][6][注釈 16]。王妃アンクエスエンパーアテンもまた同様に「アンクエスエンアメン(アンケセナーメン)」へと改名した[17][6][注釈 17]。さらに、首都をアケトアテン(テル・エル・アマルナ)からメンフィスに移した[6][16][42]。彼は主神をアテンからアメンに変え、これまでの一神教から多神教に戻した。この信仰復興により、混乱していた世の中は静まりを見せた[16]

彼のファラオとしての最初の行動は、アクエンアテンをアマルナから王家の谷に再埋葬することだった。エジプトでは葬儀を主催する者が次の統治者であるという慣習があるため、この行動によりツタンカーメンの王権は強化された。また、最高の金属や石を使って神々の新しい像を作り、最高級のレバノンスギを使って新しい行列用の車を作り、金や銀で装飾した。神官とそれに付き添う踊り子、歌い手、侍者たちはその地位を回復し、将来を保証するために王室による保護令が出されたとされる[49]

ツタンカーメンの下で行われた政策を示している最も大きな実証は、後にホルエムヘブに奪われ、カルナックで発見された「復古の碑(Stele of restoration)」である。

(ツタンカーメン)王が即位したとき、(中略)神々の神殿は荒廃し、草の生い茂る丘となっていた。神々はこの国を見捨て、祈りも聞き届けられなかった。王位に即いたツタンカーメンは、純金のアメン神像を作り、他の神々の像も純金で作り、その聖所を新築し、供物を絶やさないようにした。町ごとに役人の子どもたちを神官に任命し、神殿の施設と職員両方の充実をはかった。その結果、神々は喜び、王に生命と支配権が与えられた。 — カルナックのアメン神殿で発見された信仰復興碑、吉成(2012)による[16]

そこには、アテンの下でのエジプトの衰退が記されており、ツタンカーメンはアメンをはじめとした古い神々への回帰を宣言している。若きファラオは、カルナックのステラや祠堂、建物をはじめとした前のアマルナ時代に破損した古いモニュメントの修復を行った。ルクソール神殿では列柱の装飾が完成し、カルナックにはツタンカーメンの姿をかたどったアメン神像および、2つの新しい礼拝堂が設けられた[42]。おそらくスメンクカーラーのものであったであろう死者の神殿の建設をも引き継いでいる。ツタンカーメンの建築活動の証拠は、ギザからヌビアにかけて確認することができる。しかし、これらの建造物のいくつかは、後にホルエムヘブによって、ツタンカーメンの名前を自分の名前に書き換えることによって簒奪されている[50]

アマルナ時代の影響

編集

多信教信仰の復活に伴い、アテンは神の一柱に戻った。ツタンカーメンの棺厨子と黄金の玉座にはアテンが描写されているが、これは彼が多神教信仰に戻す宣言以前の制作だと推定される[51][52]。他に、多神教復活後も、ツタンカーメンはアテン信仰を捨てられなかったとの説もある[53]

 
ツタンカーメンの厨子。頭上に日輪としてのアテンが描かれている。なお、「妻・子女」節での画像の椅子にもアテンが描かれている。

マネトの王名記載

編集

プトレマイオス朝の神官マネトは、彼が書いた『エジプト史』[注釈 18]の中で、Orus, Amenophis, Rathotis, Harmaisという王について言及している。マネトの記述と考古学的推定との対応は以下の表のとおりである。

マネトの記述と推定される統治期間との対照表[54]
名前(マネト) 名前(推定) 治世(マネト) 治世(考古学的推定)
Orus アメンホテプ3世 36年5か月 37年
Amenophis アクエンアテン+スメンクカーラー 19年 17年+3年
Rathotis ツタンカーメン 9年 9年
Harmais アイ 4年1か月 4年

以上の通りの対応があることが確認できるが、アマルナ時代のファラオはマネトの記述の中心的存在であるにもかかわらず、マネトが指しているどの名前がどのファラオと一致するかは研究者の間でも意見が分かれている。なお、アクエンアテン治世末期からツタンカーメンまでの間に、スメンクカーラー及び、アクエンアテンの王妃ネフェルティティであると推測されているネフェルネフェルウアテンという王位名を持つ支配者がいたとされる[55]

遺伝分析

編集

疾患群

編集

ツタンカーメンは多くの疾患に苦しんでいた可能性が示唆されている[56]。彼の大きな前歯は、彼が属していた第18王朝の特徴である被蓋咬合英語版を起こしていた[57]。彼の墓から発見された衣服、特に下着とベルトの寸法から考えると、彼はウエストが狭く、腰が丸かったことがわかる。美術品に描かれた彼の姿と早逝の両方を説明しようと、様々な説が唱えられている[注釈 19]

また、曾祖父のトトメス4世と父のアクエンアテンが宗教にのめり込み、そして早逝した[注釈 20]ことを説明するために、彼が遺伝性の側頭葉てんかんを患っていた可能性も指摘されている[58]。さらに、2005年1月のミイラのCTスキャンによると、ツタンカーメンには軽度の脊柱管狭窄症および脊柱側弯症を持っていたことがわかった[59][60]。さらに、2010年の調査では、ツタンカーメンと父アクエンアテンや、曾祖母ムテムウィヤなどの近親者にさらなる骨疾患が発見された[要出典]。また、スキャンの結果、彼の右足は第2ケーラー病英語版を起こしていたことがわかった[61]。このために、ツタンカーメンはを使って歩くことを余儀なくされたと考えられており、実際に、副葬品の130本もの杖は全て実際に使用されていたと思われる磨り減った跡が確認される[62][19]

 
通称「庭園での散策(:Spaziergang im Garten)」という名のレリーフ。杖をついたツタンカーメンとアンケセナーメンが描かれているとされる。石灰岩製、ベルリン新博物館蔵。

その他

編集

2005年にエジプト考古最高評議会と『ナショナル・ジオグラフィック』によって、ツタンカーメンの顔の復元が試みられた。エジプトとフランスのチームは復元対象がツタンカーメンであることを知っていたが、アメリカ合衆国のチームは知らされなかった。しかし驚くべきことに、どちらも非常に似通った結果を出したという[63]

 
破られていない状態の墓の封印(1922年撮影)

現在のルクソール近郊に位置する、王家の谷にあるツタンカーメンの墓(エジプト学では「KV62」)は、ラムセス6世の墓建設のための作業小屋跡の下という、非常に見つけにくいような場所にあったため、盗掘や墓の整理を受けずに済んだ。盗掘を受けなかった他の理由として、ツタンカーメンの前の王であるアクエンアテンからアイまでの王が「異端」として歴史から抹消されたので、人々の記憶から消えていたことも影響している[16][19]

1922年11月4日に墓へつながる階段が発見された[64]。発掘作業員の取りまとめ役だった祖父とともに現場へ通っていたエジプト人少年フセイン・アブドルラスール(当時12歳)が、水甕を載せていたロバがつまづいてしまって甕が壊れて水がこぼれ、地下墓地への階段が露わになった[65]

11月26日にカーターはカーナヴォン伯ジョージ・ハーバートとその子女イヴリン、および多くの人々の前で墓を開封した[66]

はじめ、わたしには何も見えなかった。室の中から逃げてくる熱い空気が蝋燭の火をゆらゆらさせた。しかし、いま、目が光になれてゆくにつれて、室の中の細部が、ゆっくりと、霧の中から浮かび上がってきた。かずかずの奇妙な動物、彫像、黄金。いたるところに黄金のきらめきがあった。しばらくの間、わたしは驚きに打たれて沈黙していた。そのしばらくのあいだは、わきに立っている他の人たちにとっては、永遠の時間のように感じられたに違いない。
カーナヴォン伯が、もうこれ以上は耐えることができなくなって、心配そうに「何か見えるかね」とたずねたとき、わたしには、「はい、すばらしいものが」という言葉を発するのが精一杯だった。 — ハワード・カーター、ツタンカーメン発掘記(上)による[66]

なお、墓はツタンカーメンが埋葬されてから数年のうちに2度の盗掘を受け、その度に封印されているが、被害は軽微であった[67][3]。カーターはアブドルラスール少年を讃えて、埋葬品のネックレスをかけた写真も記録に残されている[68]

 
王の棺を囲んでいた一番外側の厨子(カイロ博物館蔵)
 
ツタンカーメンの厨子の構造(上の写真は1に当たる)

二度の盗掘では、王の入れ子になった一番外側にある棺を囲む厨子に通じる封印は解かれていたが、内側の2つの厨子はそのまま封印されたままだった。その後は再封印され、2000年以上もの悠久の時の間、ツタンカーメンは眠っていた。墓はその小ささや完成後に2度の盗掘を受けたことに加え、大変急いで完成させたことから非常に副葬品が密集していた。そのため、出土品に一つずつ番号をつけていくようなカーターの緻密な記録方式もあり、空になるまでに10年[3]を要した。墓の副葬品は全てカイロ博物館に運ばれた[69]

王墓の本来の所有者

編集

吉成薫は、ツタンカーメン王墓が、本来は宰相アイのために用意されていたもので、副葬品の中にも、アイのために準備されたものがある示唆する[70]。河合望は、ツタンカーメン墓が第18王朝の典型形でない点から、死亡時点で王墓が完成していなかったため、貴族の墓を転用したと述べる[71]

ミイラ

編集
 
ツタンカーメンのミイラ

ツタンカーメンのミイラは防腐処理の際の樹脂が化学反応によって変質してしまったため、保存状態はかなり劣悪であった。ミイラ化の時の樹脂や軟膏の過度な使用は、ツタンカーメンの遺体に悪影響を及ぼし、結局そのミイラ化は失敗に近い形に終わってしまったのである[72]

ツタンカーメンの体は包帯が巻かれていたが、その中に大量の護符が織り込まれていた。首は、多数の真珠の首飾りと20個もの黄金の護符で守られるとともに、翼を広げたホルスを表した大きな喉当てがついていた。胸の上には5個の胸飾り、これとは別に首飾りと、調査したミイラの専門家が「ツタンカーメンの宝石類をすべて数え上げて説明するにはとても紙幅が足りない」と評しているほど、きわめて多くの装飾品がミイラの中に織り込まれていた。そのなかには、新王国以前では極めて珍しい[73]の見られない鉄剣も含まれる[74][75][注釈 21]

ミイラは現在、王家の谷のツタンカーメン王墓内でプレクシグラス(軽く透明な合成樹脂)製の展示ケースの中で展示・保存されている。以前は王墓内の石棺及び第一人型棺内にて保存されていたが、2005年1月にCTスキャン撮影などによってミイラの調査が行われた際、ミイラの保存状態は極めて劣悪になっており、棺内での保存ではミイラの状態維持が出来ないと結論付けられたため、棺からプレクシグラス製ケースの中に移された。保存状態が比較的良い顔と足先の部分を覆っていた布は取り外された状態で展示されている。

死因

編集

ツタンカーメンの死因は現存する記録がなく[16][17]、また彼の有名性もあり、死因は長らく論争の的となっている。20世紀までは、ミイラの頭部についていた傷やいくつかの骨の裂傷などを根拠に、暗殺説が有力であった。しかし、ハワスを含む多くのエジプト学者は、死因は先天的な虚弱性疾患に加え、何らかの原因で落下したことによる脚の骨折、および重度のマラリア感染症を含む、複数の病気の併発による体の弱体化が重なった結果である可能性が高いと結論付けており、2010年以降の定説となっている[19]。実際に、悪性のマラリアを引き起こす寄生虫である、熱帯熱マラリア原虫の痕跡が、ミイラより発見されている[30]。以下に歴史的な説から、2020年代に至るまで挙げられている説を可能な限り記す。

マラリア感染

編集

ミイラからは、マラリア原虫の痕跡が検出されている。マラリアは熱帯・亜熱帯気候ではよくみられる病気であり、ツタンカーメンもある程度免疫を持っていた可能性があるため、感染はしなかったのではないかという説があったが[19]、ハワスは、アクエンアテンと「若い方の淑女」の婚姻を含む第18王朝に多くみられる近親婚が、ツタンカーメンに生存の上で不利な障害を持った遺伝子が多く受け継がれ、その結果、マラリアに感染する可能性はあると述べる[19]

暗殺説

編集

ツタンカーメンの死因として、暗殺説がしばしばあげられる。

1968年のX線調査にて、頭蓋骨内部に2つの骨片が見つかり、頭蓋下部が非常に薄くなっていることから、後頭部に強い打撃を受けたのではないかとされた[76]。しかし、2005年のCT調査にて、もし死の前に骨片があったなら脳とともに処理されているはずであること、骨片が樹脂の中に埋まっていたことなどから、骨片はミイラ作りの際に脳をかきだすために開けられた穴から落ちたものと結論付けられ、頭部打撃による暗殺説は否定された[77]。同時に、左足の大腿骨や右膝頭と右下腿の骨折も見つかったが、後に骨が癒合した様子が見られ、生命に及ぼす程の怪我ではないと判明した[78]

心理学者でエジプト学者のボブ・ブライアーは、どうしても王になりたかったアイが、将軍ホルエムヘブの力を借りてツタンカーメンを殺害したという説を唱えた。同じく頭蓋のX線写真に着目し、上記の説とは別に、頭蓋骨内部の脳出血の痕跡があると考えた。X線に写った影は出血による影響で硬化した筋組織で、その出血原因が頭部に受けた打撃によるものだと考えるならば、王は襲撃の後数週間は生きていただろうと推測した[79]


事故説

編集

若い王は、胸壁の前部と肋骨が欠損していることなどから、圧迫された傷のパターンから、事故が主な原因として死亡したのではないかとも言われている[80][81]

慈善家でアマチュアエジプト学者のベンソン・ハラーは、科学的なアプローチではなく、王族の中ではツタンカーメンのミイラにのみみられる、胸の上ではなく下腹部で腕を組んでいる特徴的な納棺の仕方に注目し、死因を類推した。彼によると、ツタンカーメンのミイラには不自然な点が多いという[82]

  1. 心臓がない。心臓はその持ち主の治世と人格の要であると考えられており、また、楽園(アアル)に行くための死後の審判を受けるために重要な臓器であるため、普通はミイラの中に必ず残されるものである。それがないということは生前に事故などによって失ったのであると主張する。
  2. 臓器を取りだすために下腹部に開けた傷跡が不自然。普通は、体の左側に腰から下腹部まで伸びるかなり長い傷をつけるが、ツタンカーメンの場合、他の例より傷が短く、へそから尻までである。
  3. 横隔膜には傷がついていないように見える。肺を除去する際、横隔膜を切開するので傷がついているはずである。
  4. 胸部の欠損の程度が異常である。折れた骨はカーターらによるものだとしても、きれいに切断されたものは古代につけられたものだろうとする。

以上により、胸部の傷が命取りであったと結論づけている[82]

傷を負った原因として、戦車事故と、カバに襲われたという二つの説が存在する。

戦車事故説

編集

解剖学者ロバート・コノリーは、独自に1968年に行われたX線写真を調べなおし、事故死だと結論づけた。彼もまた、心臓が欠けているのは事故による損傷と、死後に納棺師が、ツタンカーメンの心臓を取り出しやすいようにつけたものとみた。心臓がなくなっている原因として、ツタンカーメンは故郷から遠く離れたところで何らかの事故によって死亡したため、炎天下に置かれた遺体は数日ですぐに腐り始めたことより、悪臭を放つ心臓を取り除きたいと考えたからではないかと推測している[82]

しかし、もし落下したツタンカーメンが戦車から落下、あるいは衝突したとすれば、胸や骨盤だけでなく腕、足、首、背中なども折れた可能性があるが、そのようなものは見つかっていないという反論がある。たとえ馬に胸を蹴られたとしても、もっと傷は局所的になる可能性があるとする[83]

カバによる襲撃説

編集

アフリカではワニに次ぐ危険な動物であるカバに襲撃されたとする説もある[82]。新王国時代には、ファラオがカバ狩りをした事実が確認されている。マネトによると、メネス王はカバによって殺されたと伝わっているほど、これは古くから知られている事実であった。カバ狩りでなくても、普通に沼地で狩りをしている時に、舟上から襲われた可能性もある。しかし、他のエジプト学者や、他分野の専門家はこの説に対し慎重な立場を取っている。ケニアの野生動物の専門家、エルスタス・カンガは、カバ説はありえないことではないとした上で、「もしカバに踏まれたとしたら人間の胸は確実につぶれる上に、かみつかれたら被害者のはらわたは抉り出されるであろう」と述べている[82]

事故説に対する反論

編集

しかし、肋骨の欠損は、死亡時の傷によるものとは考えにくいとする説もある。1926年のカーターの発掘終了時に撮影された写真を見ると、王の胸壁は無傷で、鷹の頭の端子が付いたビーズの首輪をつけていた。しかし、1968年のX線写真では首輪と胸壁の両方がないことが確認できた。フォーベスらの研究によると、ミイラの胸骨や鎖骨の欠損や目の傷は、1926年から1968年の間に非公式かつ秘密裡にミイラの"解体"が行われたことを強く示しているという。この出来事はさらに、1939年から1945年にかけての第二次世界大戦中で、王家の谷の警備が厳しくない時に行われたとされる。このようなミイラの"解体"は、ハワード・カーターが意図的にミイラに残したいくらかの宝石目当てであった可能性がある。そのような宝石はミイラの体からは容易には切り離せないので、犯人はのこぎりを持参した可能性があり、その時にミイラに傷を負わせた可能性があるとする。フォーベスらは、もしこのシナリオが正しければ、ミイラに肋骨がないことはツタンカーメンの死因とは全く関係がないと結論付けている[77]

鎌状赤血球症説

編集

ドイツ・ハンブルグのベルンハルト・ノヒト熱帯医学研究所の科学者であるティムマンとマイヤーはマラリア説に対し疑問を持ち、ツタンカーメンは鎌状赤血球症による貧血で死亡したのではないかと考えている[84]。しかしながら、鎌状赤血球症の人物はマラリアにはかかりにくいので、もしツタンカーメンが鎌状赤血球症であった場合マラリアとの同時併発は起きにくいため、死因の決定要因にはならない[85]

後継者

編集

ツタンカーメンとアンケセナーメンとの間に産まれた女子2人(317aと317b)は、共に死産だった[86]ため、アイがツタンカーメンの後を継ぎ、ファラオとして即位する[42]。しかしアイも高齢であったため、在位わずか4年で没してしまう[42]。ホルエムヘブが即位するが、彼もまた子がいなかったため王位はホルエムヘブの将軍であり、宰相でもあったパラムセスに移る[42]。パラムセスは即位し名前をラメセス1世と改め、エジプト第19王朝となる[42]。 そのためツタンカーメン死後、王妃アンケセナーメンが、長年戦闘を交えてきたヒッタイトより、王を迎えようとした書簡が存在する[19][17][87]

異国よりの王

編集

ヒッタイトの史料によると、とある時、エジプトで王が死に、未亡人となった王妃ダハムンズ英語版はヒッタイト王シュッピルリウマ1世に書簡を送り、王子の一人をエジプト王として迎え入れたいと申し出たとのことである。この書簡を送った人物がアンケセナーメンであると考える説があるが、ネフェルティティではないかと、ダハムンズは主張している。以下に、王妃ダハムンズをアンケセナーメンとする説に従って記述する[17][19]

私の夫は死に、私には息子がありません。噂では、あなたは多くの子息をもっているといいます。もしあなたが子息の一人を送って下さるなら、私は彼を夫にします。私は臣下の一人を夫に選びたくはないのです。 — アンケセナーメン?の書簡、吉村(1984)[17]

これに対して、シュッピルリウマ1世の息子ムルシリ2世が以下のような記録を残している。

私の父は手紙を読んですぐに、高官会議を召集した。父は未だかつてこのようなことは起こったことがないと言い、侍従のハットゥ・ジッティシュに《エジプトへ行って信ずるに足る報告をもたらせ。 彼らは私を騙そうとしているのかも知れない。そして、もし彼らが王子を待っているようなら、それを信じられるだけの報告をするように》と命じた。ハットゥ・ジッティシュが派遣された後、エジプトの使者ハニス卿がエジプト王妃の手紙を持ってやってきた。王妃は父の疑惑に対して次のように答えていた。《なぜあなたは、私があなたを騙そうとしているなどと言うのですか。もし私に息子があるなら、私と私の国の恥をさらしてまで外国に手紙を送るでしょうか。あなたは私を信用していない。 私の夫だった人は死んだのです。私には息子がありません。私は召使いの一人を選んで夫にしなければならないのです。私は他のどんな国にも手紙を書かず、あなただけに書いたのです。あなたは多くの子息をもっていると聞きました。子息の一人を私に与えて下さい。彼は私の夫となり、エジプト国の王となるでしょう》私の父は寛大だったので、貴婦人の言葉に同意して息子を送ることを決意した — ムルシリ2世の記録、吉村(1984)[17]

シュッピルリウマ1世は、息子である王子ザンナンザをエジプトに送ったが、王子はツタンカーメンの死後70日を過ぎてもエジプトに到着せず、このとき王子は、既に何者かによって暗殺されていた[17][19]。暗殺を命じた人物は諸説あるが、王子には護衛が付いているため、盗賊に殺されるとは考えにくく、軍隊を動かすことのできる人物だろう点から、アイかホルエムヘブ説が出て来るが、吉村やハワスは、ホルエムヘブだとする[17][19]

アイは長期にわたり王家に使え続けた忠臣であるだけでなく、王家の遠縁[注釈 22]にあたる人物である。吉村(1984)によると、彼は性格が穏やかであったと言われており、ツタンカーメン死後も葬儀を司るなどの権力と影響力を持っていた。王妃にすぎないアンケセナーメンがアイに知られずに密かに書簡を送るなどのことはできなかったはずであり、彼女は高い確率でアイにこのことを相談した可能性がある。さらにこの時、ホルエムヘブは王位を狙っていたともいわれ、そこに賢明だったアイが気付かないはずはなく、彼はエジプトの血筋を守りたかったと考えられるため、アンケセナーメンを助ける方向に動いた可能性が高い。よって、アイが暗殺するとはきわめて薄いと考えられる[17]。ホルエムヘブは非常に厳格であり、野心家で目的のためなら手段を選ばず、その過激な行動のためにアクエンアテンの怒りを買ったという記録も残っている。ここから、アイとホルエムヘブの性格を考察すると、王子ザンナンザを暗殺したのはホルエムヘブであろうと、吉村は推論する[17]

系譜

編集

脚注

編集

注釈

編集

注釈

編集
  1. ^ Tutankhamen, Tutankhamonとも呼ばれる。なお、英語圏ではTutankhamunが一般的である。
  2. ^ Tutankhatonとも。
  3. ^ ピーター・クレイトンはB.C.1334-B.C.1325[1], B.C.1361頃-B.C.1352[2], 酒井傳六はB.C.1363-B.C.1354[3], ユルゲン・フォン・ベッケラート英語版はB.C.1335-B.C.1325[4], 屋形禎亮はB.C.1347-B.C.1338[5][6], マーチャントはB.C.1321-B.C.1312[7]など諸説あり。
  4. ^ ツタンカーメンの名前は、音節の句切れはTut ankh amenであるが、これをtu tan kha menと最初期の訳者が誤って区切り音写してしまったものが定着した可能性がある[要出典]
  5. ^ 現状、英語版ウィクショナリーは"i"の音を"j"と翻字する方式を採用しているため、jが用いられている。
  6. ^ "twt-anx-itn"の訳については異説があり、例えばBattiscombe Gunn(en)はよりアクエンアテンの神学に沿った訳を考案した。彼は"twt"を名詞ではなく動詞だとみなし、"The life of Aten is pleasing"と訳した。また、Gerhard Fecht教授も同じく"twt"を動詞と考えており、"One perfect of life is Aten"と訳した。教授はアクエンアテンは別の単語である"tit(wik[注釈 5])"を"image"の意味として用いたと考え、"twt(wik)"は"To be perfect/complete"という意味なのではないかと解釈した[9]
  7. ^ 生没年に関しては不詳であるとしたり[10]、B.C.1345-B.C.1327とも、B.C.1370頃-B.C.1352[2]ともされる
  8. ^ カーターによる発掘番号の最後は620番[20]であるが、遺物の正確な数については不明である。ザヒ・ハワス博士は5000点と言及している[19]
  9. ^ このDNA検証の流れは複雑である。流れとして、まずKV55のミイラがツタンカーメンの父で、かつアメンホテプ3世の息子であることが判明した。そこで、KV55のミイラが、候補であるアクエンアテンとスメンクカーラーのどちらであるかが分かればツタンカーメンの父が特定できる、という方法を用いた。KV55のミイラにはアクエンアテンだけに関係のある言葉が刻まれていた考古学的証拠に加え、通称「年配の淑女」と呼ばれているKV35ELのミイラである、アメンホテプ3世の妃ティイとKV55のミイラに血縁関係が見つかったのである。よって、アメンホテプ3世とティイの息子で、ツタンカーメンの父親であるKV55号墓のミイラは、ほぼ確実にアクエンアテンだと結論づけられるとされている[19]
  10. ^ アクエンアテンの両親であるアメンホテプ3世とティイの娘の名前はほとんど判明しているが、この若い方の淑女の名前だけは現在不明である[19]
  11. ^ キヤがツタンカーメン(およびスメンクカーラー)の母であったという説の強力な状況証拠は王家の墓の壁面に描かれた出産の場面である。これは恐らく彼女が難産のため出産時に死亡したことを示す[32][33]。またウィルキンソンは2007年の著作で、ヘルモポリスで発見された石材の銘文が、キヤがツタンカーメンの母であるということを強く示唆するとしている[34]。ただしこれはハワスらによるDNA鑑定前の見解である[35]
  12. ^ のち改名してアンケセナーメン(正確にはアンクエスエンアメン)となった。
  13. ^ アクエンアテンとネフェルティティの三女[36]
  14. ^ 王即位以前、アケトアテン(テル・エル・アマルナ)にて結婚したと、ハワスはみなす[36]
  15. ^ この即位時推定年齢はザヒ・ハワスらによるミイラのCTスキャン結果からも支持される。この検査ではツタンカーメンの死亡年齢が18歳前後と分析された。確認されているツタンカーメンの最後の治世年は治世第10年のため、逆算によって即位時年齢が導き出せる[13]
  16. ^ ただし、トゥトアンクアテンとトゥトアンクアメンの両方の名前が記された玉座や戦車が発見されており、両方の名前を併用していた時期が存在した可能性がある[13]
  17. ^ ツタンカーメンの王妃の元の名は Ankhesenpaaten(anx-s-n-pA-itn)で、アンクエスエンパーアテン・アンケセンパーテン・アンケスエンパーテンなどと様々に呼ばれる。なお変更後はAnkhesenamen(anx-s-n-imn)
  18. ^ マネトの著作(題:Aegyptiaca)は散逸しており、完全には現存していない。しかし、ヨセフスアフリカヌスヒエロニムスエウセビオスなどの歴史家たちが引用した部分から彼の記述をある程度推定できている。
  19. ^ 具体的には、女性化乳房マルファン症候群ウィルソン・ターナーX鎖知的障害症候群脂肪性器性異栄養症クラインフェルター症候群アンドロゲン不応症アロマターゼ過剰症候群頭蓋骨縫合早期癒合症アントレー・ビクスラー症候群、またはその亜種のいずれかに苦しんでいた可能性があるとされる[要出典]
  20. ^ ともに生没年未詳だが、トトメス4世は在位10年、アクエンアテンは在位17年とアメンホテプ3世の38年よりかは短い。
  21. ^ 千葉工業大学の研究グループは、鉄隕石を1000℃以下で加熱して製作したと推測する世界初 ツタンカーメンの鉄剣の元素分布分析を実施”. 2022年1月31日閲覧。
  22. ^ ツタンカーメンの(父がアクエンアテンであるとすれば、)祖父であるアメンホテプ3世の妃、ティイの兄弟がアイである。これは、ツタンカーメンから見て大おじにあたる(#系譜)。

訳注

編集
  1. ^ 翻訳元原文(ドイツ語)は"Sohn des Königs von seinem Leibe, von ihm geliebt, Tut-anchu-Aton."別の出典では"the king's son of his body Tutankhaton"[36]となっている。なお、"The king's son of his body"の原文は、"zA-nswt.n Xt.f"[37]
  2. ^ 原文は"the daughter of the king, of his body, his great desire of the king of Two Lands, Ankhesenpaaton"[36]

出典

編集
  1. ^ Clayton 2006, p. 128.
  2. ^ a b c ブリタニカ 2016.
  3. ^ a b c d e ニッポニカ 2014.
  4. ^ a b c d e f g Lundström (2011).
  5. ^ a b c d 屋形 1969, p. 222.
  6. ^ a b c d e f g h 屋形 1998, pp. 497–501.
  7. ^ a b マーチャント (2014), p. 9.
  8. ^ Ridley(2019) p.276
  9. ^ Eaton-Krauss 2015, pp. 28–29.
  10. ^ ニッポニカ(2014)
  11. ^ マーチャント (2014), p. 114.
  12. ^ ショー,ニコルソン(1997) p.355
  13. ^ a b c d e 河合 2021, p. 190.
  14. ^ 河合 2021, p. 279.
  15. ^ Reeves(1990) p.24
  16. ^ a b c d e f g h i j 吉成 (2012), pp. 112–115.
  17. ^ a b c d e f g h i j k l m n 吉村 (1983), pp. 99–118.
  18. ^ ハワス(2004) p.73
  19. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t ハワス (2010).
  20. ^ Anatomy of an Excavation”. The Griffith Institute. 2021年12月20日閲覧。
  21. ^ 河合 2012, pp. 83–87.
  22. ^ ハワス 2012, p. 18.
  23. ^ 衣奈ほか 1965.
  24. ^ 東京文化財研究所 美術界年史(彙報)ツタンカーメン展”. 2022年1月18日閲覧。
  25. ^ ハワス 2012, p. 5.
  26. ^ Dodson&Hilton(2010) p.149
  27. ^ a b Hawass, et al.(2010) pp.642-645
  28. ^ Zivie(1998) pp.33–54.
  29. ^ Gundlach&Taylor(2009) p.160
  30. ^ a b c d マーチャント (2014), pp. 282–294.
  31. ^ Tawfik,Thomas&Hegenbarth-Reichardt(2018) p.180
  32. ^ クレイトン(1999) p.168
  33. ^ ティルディスレイ(2008) p.176
  34. ^ ウィルキンソン(2015) p. 271
  35. ^ ウィルキンソン(2015) p.271、訳注
  36. ^ a b c d e f g Zahi Hawass. “King Tut is the Son of Akhenaton”. 2022年1月4日閲覧。
  37. ^ McAvoy, Shawn (2007). Mummy 61074: a strange case of mistaken identity. Pontificia Universidad Católica Argentina. Facultad de Ciencias Sociales. Departamento de Historia. Centro de Estudios de Historia del Antiguo Oriente. https://repositorio.uca.edu.ar/handle/123456789/11907 2024年4月18日閲覧。. 
  38. ^ Günther Roeder: Königssohn Tut-anchu-Aton. In: Rainer Hanke: Amarna-Reliefs aus Hermopolis (Ausgrabungen der Deutschen Hermopolis-Expedition in Hermopolis 1929–1939). Band 2, Gerstenberg, Hildesheim 1969, S. 40.(翻訳元参考文献表示なし)
  39. ^ Akhenaten and Nefertiti's Children”. Worldhistory.us (2019年9月20日). 2022年1月19日閲覧。
  40. ^ 河合 2021, pp. 186–187.
  41. ^ ハワス 2012, p. 76.
  42. ^ a b c d e f g 松本 (1994), pp. 172–173.
  43. ^ ハワス 2012, p. 123.
  44. ^ ハワス 2012, p. 150.
  45. ^ ハワス 2012, pp. 186–187.
  46. ^ 吉村 1983, p. 106.
  47. ^ ショー,ニコルソン(1997) p.42
  48. ^ ショー,ニコルソン(1997) p.356
  49. ^ John Coleman Darnell; Colleen Manassa (3 August 2007). Tutankhamun's Armies: Battle and Conquest During Ancient Egypt's Late Eighteenth Dynasty. John Wiley & Sons. p. 49. ISBN 978-0-471-74358-3. https://books.google.com/books?id=7MvtJ2LbKgwC&pg=PA49 
  50. ^ Dodson 2009, pp. 66–68.
  51. ^ 近藤 1994, p. 394.
  52. ^ ティアドリッティ 2000b, p. 218.
  53. ^ 吉村 1983, p. 109.
  54. ^ Gary Greenberg (1999年4月23日). “[https://ggreenberg.tripod.com/articles/manetho18d/arce99-dyn18.pdf Manetho's Eighteenth Dynasty: Putting the Pieces Back Together]”. ARCE(American Research Center in Egypt). 2022年1月19日閲覧。
  55. ^ ハワス 2012, pp. 75–76.
  56. ^ Cavka, Mislav; Kelava, Tomislav (April 2013). “Comment on: Familial epilepsy in the pharaohs of ancient Egypt's eighteenth dynasty”. Epilepsy & Behavior 27 (1): 278. doi:10.1016/j.yebeh.2012.11.044. PMID 23291226. 
  57. ^ Pausch, Niels Christian; Naether, Franziska; Krey, Karl Friedrich (December 2015). “Tutankhamun's Dentition: The Pharaoh and his Teeth”. Brazilian Dental Journal 26 (6): 701–704. doi:10.1590/0103-6440201300431. PMID 26963220. https://www.researchgate.net/publication/289585304 8 January 2020閲覧。. 
  58. ^ Ashrafian, Hutan (September 2012). “Familial epilepsy in the pharaohs of ancient Egypt's eighteenth dynasty”. Epilepsy & Behavior 25 (1): 23–31. doi:10.1016/j.yebeh.2012.06.014. PMID 22980077. 
  59. ^ Hawass et al. 2010, p. 642.
  60. ^ Hawass & Saleem 2016, p. 95.
  61. ^ Hussein, Kais; Matin, Ekatrina; Nerlich, Andreas G. (2013). “Paleopathology of the juvenile Pharaoh Tutankhamun—90th anniversary of discovery”. Virchows Archiv 463 (3): 475–479. doi:10.1007/s00428-013-1441-1. PMID 23812343. 
  62. ^ Hawass et al. 2010, pp. 642–645.
  63. ^ Hawass&Saleem 2016, p. 252.
  64. ^ Tutankhamun: Anatomy of an Excavation | The Griffith Institute”. www.griffith.ox.ac.uk. 2022年9月4日閲覧。
  65. ^ ツタンカーメン墓発見100年 手柄の少年 子孫「誇り」地元住民らと祝宴読売新聞』朝刊2022年11月4日(国際面)同日閲覧
  66. ^ a b カーター(1923) pp.170-171
  67. ^ カーター(1923) p.166
  68. ^ 蜘手美鶴 (2022年8月24日). “ツタンカーメン王の墓、発見から100年…きっかけは12歳少年とロバ”. 東京新聞. 2023年11月17日閲覧。
  69. ^ ティアドリッティ 2000a, p. 23.
  70. ^ 吉成 2012, p. 114.
  71. ^ 吉成 2012, pp. 214–215.
  72. ^ Gilbert, Holt & Hudson 1976, p. 18.
  73. ^ スペンサー 2009, p. 235.
  74. ^ カーター 1971, pp. 252–253.
  75. ^ ルカ (1978), pp. 132–133.
  76. ^ Harrison, R. G.; Abdalla, A. B. (March 1972). “The remains of Tutankhamun”. Antiquity 46 (181): 11. doi:10.1017/S0003598X00053072. 
  77. ^ a b Dennis Forbes Salima Ikram & Janice Kamrin. “Tutankhamun's Missing Ribs”. 2022年1月19日閲覧。
  78. ^ 河合 2012, pp. 222.
  79. ^ マーチャント (2014), pp. 219–227.
  80. ^ Forensic Experts Claim That King Tut Died In A Chariot Accident”. Forbes. 2 September 2019閲覧。
  81. ^ Harer, W. Benson (2011). “New evidence for King Tutankhamen's death: his bizarre embalming”. The Journal of Egyptian Archaeology 97 (1): 228–233. doi:10.1177/030751331109700120. JSTOR 23269903. 
  82. ^ a b c d e マーチャント (2014), pp. 317–330.
  83. ^ Harrison, R. G.; Abdalla, A. B. (March 1972). “The remains of Tutankhamun”. Antiquity 46 (181): 9. doi:10.1017/S0003598X00053072. 
  84. ^ Timmann & Meyer 2010, p. 1279.
  85. ^ 河合 2012, pp. 223–224.
  86. ^ ハワス 2012, pp. 223–224.
  87. ^ 河合 2012, pp. 232–234.

参考文献

編集

日本語文献

編集

外国語文献

編集

外部リンク

編集
先代
ネフェルネフェルウアトン
古代エジプト王
エジプト第18王朝 第13代
前1332年頃 - 前1323年頃
次代
アイ