ジョン・マクレヴィ・ブラウン

植民地時代のイギリスの役人

サー・ジョン・マクレヴィ・ブラウン (英語: Sir John McLeavy Brown中国語: 约翰・麦克利维・布朗CMG1835年11月27日 - 1926年4月6日) は、イギリス弁護士。イギリスが清国に置いた公使館で通訳を務め[注釈 1]、中国名を柏卓安と名乗った。のちに清の貿易関税を監督するロバート・ハート長官(Inspector General of Customsのもとへ所属が変わる(海关总税务司)。さらに清国代表団がアメリカ公使アンソン・バーリンゲーム繁体字中国語: 蒲安臣)に引率されてヨーロッパとアメリカを使節した時には使節団が帰国するまで随伴する。その後も通訳職を続け、清国から李朝に移っている[2][3][4]。イギリスに帰国するまで、朝鮮の財務顧問と税関総監の地位にあった[5][6]

ジョン・マクレヴィ・ブラウン
生誕 1835年11月27日 ウィキデータを編集
死没 1926年4月6日 ウィキデータを編集 (90歳)
出身校
職業 弁護士, 法廷弁護士 ウィキデータを編集
受賞
  • ナイト・バチェラー ウィキデータを編集
図1=マクレヴィ・ブラウンは前列右端。同左からデュシャン(アメリカ側代表補佐)、清国側の使節は孫稼生(孫家穀)と志克庵(志剛)[1]。後列中央はバーリンゲーム(アメリカ側の代表)。左右に立つ人々は清側の通訳(1868年、清国アメリカ使節団の集合写真、J・ガーンジーがニューヨークで撮影)

経歴

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アイルランドリスバーン郊外(Magheragall)で生まれたブラウンは、クイーンズ大学ベルファストダブリン大学トリニティ・カレッジに通った。イギリス政府が清国領事館に駐留する通訳を募集すると学業半ばで合格し、清に渡って1861年から学生通訳として在中国イギリス領事館中国語版で働き始める[7]。中国語が上達したブラウンは領事館の中国副公使に昇進した[5]

蒲安臣使節団

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図2=ブラウンは前列右端[注釈 2]

1868年にアンソン・バーリンゲーム駐清アメリカ公使(中国名:: 蒲安臣)が一行を案内して、初代の清朝使節団がヨーロッパとアメリカを視察すると決まった。ブラウンは32歳で使節団の参事官(左協理)を拝命した[5][8][9][注釈 3]。清側の使節団副使(志剛、孫家穀)は紫禁城慈禧皇太后隆慶帝に拝謁して陛辞を受け同年1月5日に北京を出発、ブラウンは1月9日前後に河北省涿郡で同使節団に追いつくと、一行は上海でバーリンゲームの出迎えを受け、夫妻と娘(Gertrude)、またデュシャン[注釈 4]補佐夫妻を交え、同月23日に乗船するアメリカ船を待った[1]

使節団は1869年にヨーロッパに渡り、フランス、ベルギー、スウェーデンとノルウェー、デンマークとオランダを歴訪し、ドイツ帝国に入った[13]。バーリンゲームは1870年、ロシア視察中に客死、ブラウンは視察団を率いて帰国する。

イギリス政府の仕事は1872年にやめると、1873年4月に中国の税関総税務局(海关总税务司)に転職し1等公使を務め[5]、翌1874年には広州税関副長官(Deputy Commissioner)に任ぜられる[5][14]。その後、中国のさまざまな税関に転勤して昇進を重ねると、1880年から1882年まで長期休暇をとり、一時帰国する。このときダブリン大学で文学士と法学士を取得し[5]、職場に戻った。再び1888年に休暇を願い出て、同年秋にユニバーシティ・カレッジ・ダブリンから法学博士号を授かった[5]。この間、1884年に清仏戦争が勃発する。

李氏朝鮮へ

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クイーンズカレッジの同窓で上席であったロバート・ハートから朝鮮の関税局長職に推薦を受け、ブラウンは1893年、朝鮮王の高宗より(後の皇帝)、財務顧問と税関総監の地位を授けられた[5][6][15]。まもなく1894年(明治27年)7月25日に日清戦争が勃発、ブラウンは朝鮮の利益を擁護して、日本とロシアに相対(あいたい)した[5]。李王は乙未事変(1895年)に接し、マクレヴィ・ブラウンに国庫の絶対的管理権を預ける勅命に署名を済ませてから、ロシア公使館に身を寄せした。ブラウンはやがて王室の徳寿宮外国使節謁見用建物を設けるように助言し、設計家の手配なども進言するに至る[16]

1897年、駐韓ロシア公使は清の「漢之度支衙門朝鮮語版」(税関と財務の統括部門)[注釈 5]の人事にロシアから申し入れがあり、顧問をロシア人のヤーリー・シュアンフ((阿里克谢耶夫=アリシェエフ)に置き換えさせた。これを度支顾问事件 度支顧問事件と呼び、ブラウンはいったん解任される。ところが後任のロシア人が派遣されてまもなく、ブラウンは呼び戻され復職した[5][17][18]

日露戦争(1904年–1905年)に勝った日本政府は、朝鮮半島に及ぼす影響力をますます強め、ブラウンは1905年8月に財務関係の官職を辞めると韓半島を去った[19]。帰国後、ブラウンは1913年、ロンドンの駐英中国公使館の法律顧問に任用された。その後10年あまりにわたりその地位を保ち、在職のまま1926年に没する[5]

石造殿の建設計画

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大韓帝国総経理士を一時解職されて職位に戻った1897年の前後に、ブラウンは外国使節の謁見に用いる建物を徳寿宮に建てるよう働きかける[16]朝鮮の伝統における外交の考え方と外国使節を接遇するヨーロッパの王室宮殿のありかたは視点が異なり、ブラウンは室内装飾を含めた説明など、また建築計画の基盤整備を進めていく[16]

ブラウンがイギリスへ帰る前にハーディング(J. R. Harding)が設計士に決まると、新古典主義様式のデザインを施す方針に沿って建物の起工を1900年に迎えた。日本政府の出先機関とも調整しながら1909年に完工、王家への引き渡しは1910年であった。工事費はおよそ100万ウォン、また家具はロンドン(メープル社)から運ばせ、内部工事はイギリス人のローベル監督を立てた。装飾の施工はメープル社が進行し家具と生活小物を納め、電灯設備はクリタル社が担当した。メープル社もクリタル社もイギリス企業である。

栄誉栄典

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  • 聖マイケル・聖ジョージ勲章
  • 瑞宝章[20]

主な著作

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  • China, John McLeavy Brown; Alfred Edward Hippisley (1881) (英語) (digital). The working of the Shanghai Office [上海事務所の業務]. Statistical Deptartment of the Inspectorate General, Shanghai ; 上海税関 
オープンアクセス版(電子書籍)、または紙書籍あり。

参考文献

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執筆者、編者の順。

  • 김윤희,; Kim, Yun-hee (2014-04). “대한제국기 덕수궁 석조전 건립과 서양가구 유입 [大韓帝国期徳寿宮石造殿建立と西洋家具流入]” (朝鮮語). 文化財 Annual Review in Cultural Heritage Studies. Annual review in cultural heritage studies, 47, 2014년 47 (3): 4-23. 
  • {{cite thesis|和書|author=黄 逸|first2=Huang|last2= Yi |date= 2019-03-31 | publisher=関西大学|title=英字新聞に見た蒲安臣使節団と岩倉使節団 : 通商・宗教問題などをめぐる文化交渉の諸相|id=NDLJP:11428837 |ref=CITEREF黄2019|doi=10.32286/00018654|quote= 参考文献は、阪本英樹 著『月を曳く船方 : 清末中国人の米欧回覧』(成文堂、2002年)28-42頁。国立国会図書館書誌ID:000000019919-i5897169

関連資料

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  • J. Gurney & Son (写真家) (1868). "Anson Burlingame with the Chinese ambassadors to the United States" (Document) (英語). New York: s.n. 写真
    • 主題:ウィキメディア・コモンズの画像の原典。中央のアンソム・バーリンゲーム( Ansom Burlingame)を囲む駐アメリカ中国大使館の職員。背景は書き割りの幕。柱や仏塔、船が描かれている。
      • カン・チー Chih Kang 館員
      • ク・スン・チャオ Sun Chia Ku 館員
      • エドゥアール・デュシャン Edouard de Champ
      • マクレヴィ・ブラウン McLeavy Brown、イギリス
      • 中国人通訳8人
  • J. Gurney & Son (写真家) (1868) (英語) (image), Chinese Embassy 中国大使館, s.n. 
    • 主題:ウィキメディア・コモンズの画像の原典。史上初めてアメリカに派遣された使節団。引率者の一覧。
      • Anson Burlingame
      • John McLeavy Brown of Ireland,
      • Ferdinand Auguste Emile Deschamps of France
      • 中国人男性10名(画像の下に漢字で氏名を記してある)
      • Chih Kang
      • Sun Chia Ku
      • 通訳たち
  • James Hoare; Susan Pares (2008). British Association for Korean Studies. ed (英語) (digital). Korea : the past and the present (韓国の今と昔): selected papers from the British Association for Korean studies. BAKS papers series, 1991-2005. Global Oriental, Folkestone, UK, 2008 
    • 1982年設立のイギリス韓国研究協会(British Association for Korean Studies)は論文集9巻を上梓した(1991年-2005年)。内容は大会や研修日、ワークショップの成果である。韓国の今と昔という主題は専門性、課題、興味の範囲を最大限に広げて編集した。
  • Ian Nish (著者) (2013) (英語) (digital). Collected writings of Ian Nish. Routledge : Edition Synapse, Oxon [England], 2013 
    • This volume of the Collected Writings of Modern Western Scholars on Japan brings together the work of Ian Nish on international relations affecting Japan, Russia, China and Korea in the nineteenth and twentieth centuries
    • 紙書籍あり。

脚注

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注釈

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  1. ^ ジョン・マクレヴィ・ブラウンはイギリス人。当時の駐北京イギリス公使館秘書官で、清国の初代外国使節団に参事官(左協理)として随行した[1]
  2. ^ 雑誌の挿絵より。図1と見比べると、清側[1]の席順が改めてある。アメリカ使節団のジョン・マクレヴィ・ブラウン#集合写真に取材したもの。
  3. ^ 左右協理の肩書きは清の政府が公認した[10][11]
  4. ^ デュシャン(フランス語: Ferdinand August Emile Des Champs)は法務を学んだフランス人貿易商で、清政府に洋関総税務司官吏として雇われていた[12]。ブラウンと同じ参事官(右協理)として使節団に参加[1]
  5. ^ 朝鮮語: 탁지부(度支部)または「度支衙門」(탁지아문)とは、当時の財務を総括した政府の官庁。朝鮮王朝時代の6条官庁の一つで、好調(호조)の機能を継承し、会計と出納、租税と国債、貨幣発行や銀行業務ほかに関する一切の事務を管轄し、各地方の財務を監督した。

出典

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  1. ^ a b c d e 黄 2019, p. 160, 「欽差大臣」に任ぜられた志剛は満州人、孫家穀は漢人。アメリカ側の代表と格を揃えるため、本来は地方官吏であった2名に財政高級官吏の肩書きを名乗らせた。
  2. ^ “中美三人行:150年前中国外交的 "学习行走" [中国とアメリカ合衆国の三つ巴(みつどもえ):150年前の中国外交における「足で学ぶ」とは”]. 瀛寰新谭. オリジナルの2022-01-03時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220103053601/http://m.thepaper.cn/kuaibao_detail.jsp?contid=2003332&from=kuaibao 2022年1月3日閲覧。. 
  3. ^ John McLeavy Brown - Age, Birthday, Biography & Facts [ジョン・マクレヴィー・ブラウン : 年齢、生年月日、経歴、事績]”. 2022年1月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年1月3日閲覧。
  4. ^ John McLeavy Brown - hit counter script”. 2022年1月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年1月3日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k 詹庆华 [Zhan Qinghua] (2008.09). 全球化视野:中国海关洋员与中西文化传播. 北京: 中国海关出版社. pp. 518-519. ISBN 7-80165-452-8  グローバルな視点: 中国の税関外国人と中国および西洋文化の広がり
  6. ^ a b “Letter from China”. Alta Californian. (1863年4月2日). オリジナルの2022年5月11日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220511101411/https://cdnc.ucr.edu/cgi-bin/cdnc?a=d&d=DAC18680402.2.9&srpos=5&e=15-03-1868-08-04-1868--en--20--1--txt-txIN-Burlingame-------1 17 November 2017閲覧。 
  7. ^ 沈弘, ed. (2014年4月). 遗失在西方的中国史《伦敦新闻画报》记录的晚清 1842-1873. Vol. 下. zh:北京时代华文书局. p. 528. ISBN 978-7-80769-193-8西洋で失われた中国の歴史:『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に掲載された清朝末の様子。1842-1873年。
  8. ^ 阿奇博尔德·立德夫人 (Mrs. Archibald Lide) (2013.12). 李鸿章:一生与他的时代. 哈尔滨: 哈尔滨出版社. p. 49. ISBN 978-7-5484-1544-2 仮題『李鴻章:時代とその生涯』ハルビン出版社、2013年。
  9. ^ 王 大宝『蒲安臣使節団の研究 : 清朝最初の遣外使節団』。NDLJP:/11150742。「左協理ジョン・マクレヴィ・ブラウン(John Mcleavy Brown、柏卓安、イギリス出身)」 
  10. ^ 黄 2019, p. 56, 『籌辦夷務始末』同治朝【六】、2168頁
  11. ^ 中華書局編輯部; 李書源, eds (2008) (中国語). 同治朝. 籌辦夷務始末. 6. 中華書局 
  12. ^ 黄 2019, p. 106
  13. ^ 黄 2019, p. 133
  14. ^ Archived copy”. 2008年6月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年11月16日閲覧。
  15. ^ "The Irish Contribution to Joseon Korea", english.ohmynews.com, OhmyNews International, 2011年6月5日, 2011年6月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。
  16. ^ a b c Kim 2014, pp. 4–23
  17. ^ 刘彦 (1989.10). 中国近时外交史 (影印版 ed.). 上海: 上海书店出版社. ISBN 7-80569-179-7 ,原版出版于1911年
  18. ^ 清华大学历史系, ed (1998.08). 戊戌变法文献资料系日. 上海: 上海书店出版社. p. 857-858. ISBN 7-80622-547-1 
  19. ^ “J. McL. BROWN TO GO.; Supreme in Korean Customs Department Until Japanese Occupation. [J・McL・ブラウン退任。日本占領前の韓国関税局最高責任者。”]. New York Times. (August 31, 1905). オリジナルの2016年3月4日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160304135503/http://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=990CE2D9103AE733A25752C3A96E9C946497D6CF 2008年8月9日閲覧。 
  20. ^ Who's Who in the Far East/BROWN, John McLeavy - Wikisource, the free online library” (英語). en.wikisource.org. 2025年2月11日閲覧。 “Order of the Sacred Treasure (Japan)”

関連項目

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外部リンク

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