ジョン・ハートリーJohn Hartley, 1849年1月9日 - 1935年8月21日)は、イングランド・シュロップシャー郡出身の男子テニス選手。フルネームは John Thorneycroft Hartley (ジョン・ソーニークロフト・ハートリー)という。彼は教会の聖職者であったことから、テニス文献にも Rev. John Thorneycroft Hartley (ジョン・ハートリー牧師)と記載されている。(Rev. =Reverend, 教会牧師)

ジョン・ハートリー
John Hartley
ジョン・ハートリー
基本情報
フルネーム John Thorneycroft Hartley
国籍 イギリスの旗 イギリス
出身地 イングランド・シュロップシャー郡
生年月日 (1849-01-09) 1849年1月9日
没年月日 (1935-08-21) 1935年8月21日(86歳没)
死没地 イングランド・ヨークシャー
利き手
バックハンド 片手打ち
4大大会最高成績・シングルス
全英 優勝(1879-80)
優勝回数 2(英2)

ウィンブルドン選手権第3回・第4回優勝者。グランドスラムで初の連覇・2度の優勝を果たした選手である。

経歴

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ジョン・ハートリーは若い頃、1869年に「オックスフォード大学ラケット選手権」で優勝し、翌1870年に同大学のテニス選手権で優勝したことがある。1872年から1874年までは教会牧師の補佐を務め、1874年から司教代理になった。世界最古のテニス・トーナメントであるウィンブルドン選手権は、1877年に第1回大会が行われた。第2回大会以後は、「チャレンジ・ラウンド」(挑戦者決定戦)から「オールカマーズ・ファイナル」(大会前年優勝者とチャレンジ・ラウンド勝者で優勝を争う)への流れで優勝者を決定した。司教代理だったハートリーは、1879年に第3回大会の男子シングルス優勝者になった。土曜日にC・G・ヒースコートとの準々決勝に勝った後、当時30歳の司教代理は日曜日のミサの仕事をするため、ヨークシャーの北にあった自分の教会区に戻り、月曜日の朝にウィンブルドンの会場に戻った。ぎりぎりで準決勝の試合開始時間に間に合った彼は、その試合に勝って決勝戦に進んだ。決勝戦の相手は、アイルランドビアー・セント・レジャー・グールド1853年 - 1909年)であった。ハートリーはグールドを 6-2, 6-4, 6-2 で破って「チャレンジ・ラウンド」を制したが、大会前年優勝者フランク・ハドーが出場しなかったため「オールカマーズ・ファイナル」がなくなり、ハートリーが第3回大会の優勝者になった。

1880年の第4回大会では、ハートリーは前年優勝者として「チャレンジ・ラウンド」の勝者を待ち、「オールカマーズ・ファイナル」でハーバート・ローフォードを 6-3, 6-2, 2-6, 6-3 で破って2連覇を果たした。しかし、1881年のオールカマーズ・ファイナルで、ハートリーはウィリアム・レンショーからわずか2ゲームしか奪えずに 0-6, 1-6, 1-6 で完敗した。2年後の1883年には、2回戦でハーバート・ウィルバーフォース1864年 - 1941年)に 6-4, 5-6, 2-6, 4-6 の早期敗退を喫してしまう。この試合を最後に、ハートリーはウィンブルドン選手権から退き、以後は教会牧師の仕事に専念した。

1926年にウィンブルドン選手権の創設50周年式典が催され、ハートリーは歴代優勝者の1人として記念メダルを授与された。1935年8月21日、ジョン・ハートリーはイングランドヨークシャーのネアズバラで86年の生涯を閉じた。

参考文献

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  • Lance Tingay, “100 Years of Wimbledon” (ウィンブルドンの100年史) Guinness Superlatives Ltd., London (1977) ISBN 0-900424-71-0
  • Bud Collins, “Total Tennis: The Ultimate Tennis Encyclopedia” Sport Classic Books, Toronto (2003 Ed.) ISBN 0-9731443-4-3
  • Martin Hedges, “The Concise Dictionary of Tennis” (コンサイス・テニス辞書) Mayflower Books Inc., New York (1978) ISBN 0-8317-1765-3

外部リンク

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記録
先代
  スペンサー・ゴア
  フランク・ハドー
グランドスラム最多タイトル獲得
1880年7月15日 – 1883年7月16日
次代
  ウィリアム・レンショー