ジョン・シン (第4代バース侯爵)

第4代バース侯爵ジョン・アレクサンダー・シン英語: John Alexander Thynne, 4th Marquess of Bath1831年3月1日1896年4月20日)は、イギリスの貴族、外交官。1876年にブルガリアで勃発した4月蜂起英語版に対し、オスマン帝国が鎮圧にあたって行った残虐行為に関心を寄せ、首相ベンジャミン・ディズレーリの外交政策に反対したことで知られる[1]

第4代バース侯爵のカリカチュア、『バニティ・フェア』1874年6月13日号より。カルロ・ペリグリーニ画。

生涯

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第3代バース侯爵ヘンリー・フレデリック・シン英語版と妻ハリエット(Harriet、旧姓ベアリング(Baring)、1804年5月3日 – 1892年1月2日、初代アシュバートン男爵アレクサンダー・ベアリングの娘)の息子として、1831年3月1日に生まれ、ピカデリーセント・ジェームズ教会英語版で洗礼を受けた[2]。1837年6月24日に父が死去すると、わずか6歳でバース侯爵位を継承した[2]イートン・カレッジで教育を受けた後[2]、1849年5月31日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学した[3]

1853年にサマセット副統監に、1860年にウィルトシャーの副統監に任命された[4]。副統監以外ではサマセット、ウィルトシャー、モナハン県治安判事を務めた[5]。1866年4月にウィルトシャー志願兵第1大隊の隊長に就任、1876年4月にウィルトシャー・ヨーマンリー連隊英語版の副隊長に、1881年7月にその隊長に就任した[4]

1858年5月27日、ポルトガル王ペドロ5世ガーター勲章を授与するためのイギリス代表としてリスボンベレン英語版に派遣された[2][6]。この任務により、ペドロ5世から塔と剣勲章英語版大十字を授与された[4]。1867年7月25日、オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世にガーター勲章を授与するためのイギリス代表としてウィーンに派遣された[2][7]。この任務により、フランツ・ヨーゼフ1世からレオポルト勲章英語版大十字を授与された[4]

1874年から1893年までナショナル・ポートレート・ギャラリー理事を務めたほか、1883年に大英博物館理事に就任した[2]。1889年4月1日から1896年に死去するまでウィルトシャー統監英語版を務めた[8]

政治では保守党に属したが[2]カトリック教徒だったため、1874年教会礼拝式規制法英語版に反対した[1]。また、ブルガリアにおける4月蜂起英語版(1876年)に対し、オスマン帝国が鎮圧で残虐行為を行ったとき、バース侯爵は反オスマン運動を支援して、保守党の首相ベンジャミン・ディズレーリが採用した外交政策に反対した[1][4]。野党自由党ウィリアム・グラッドストンがバース侯爵の邸宅ロングリートで会合を開くほどだった[1]。1879年5月から6月にかけてブルガリア公国東ルメリ自治州を旅し、1880年にその時の見聞を記したObservations on Bulgarian Affairsを出版した[4][9]

1883年時点でモナハン県に22,672エーカーウィルトシャーに19,984エーカー、サマセットに8,212エーカー、シュロップシャーに3,508エーカー、ヘレフォードシャーに699エーカー、サセックスに409エーカーの領地を所有しており(合計55,574エーカー)、これらの領地は年収68,015ポンドに相当した[2]

1896年4月20日にヴェネツィアで死去、ウィルトシャーロングブリッジ・デヴェリル英語版で埋葬された[2]。息子トマス・ヘンリー英語版が爵位を継承した[2]

家族

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1861年8月20日、フランシス・イザベラ・キャサリン・ヴィジー(Frances Isabella Catherine Vesey、1840年5月26日 – 1915年10月31日、第3代ド・ヴェシー子爵トマス・ヴィジー英語版の娘)と結婚[1][2]、3男3女をもうけた[10][11]

出典

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  1. ^ a b c d e Norgate, Gerald le Grys; Matthew, H. C. G. (23 September 2004). "Thynne, John Alexander, fourth marquess of Bath". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/27422 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  2. ^ a b c d e f g h i j k Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary, eds. (1912). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Bass to Canning) (英語). Vol. 2 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. p. 26.
  3. ^ Foster, Joseph, ed. (1891). Alumni Oxonienses 1715-1886 (S to Z) (英語). Vol. 4. Oxford: University of Oxford. p. 1419.
  4. ^ a b c d e f Norgate, Gerald le Grys (1898). "Thynne, John Alexander" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 56. London: Smith, Elder & Co. pp. 366–367.
  5. ^ De Burgh, U. H. Hussey (1878). The Landowners of Ireland (英語). Dublin: Hodges, Foster, and Figgis. p. 25.
  6. ^ "No. 22148". The London Gazette (英語). 3 June 1858. pp. 2749–2751.
  7. ^ "No. 23287". The London Gazette (英語). 3 August 1867. pp. 4339–4341.
  8. ^ Sainty, John Christopher (1979). List of Lieutenants of Counties of England and Wales 1660–1974 (英語). London: Swift Printers (Sales).
  9. ^ The Marquis of Bath (1880). Observations on Bulgarian Affairs (英語). London: Macmillan and Co. pp. 1–2.
  10. ^ a b Burke, Sir Bernard; Burke, Ashworth P., eds. (1915). A Genealogical and Heraldic History of the Peerage and Baronetage, the Privy Council, Knightage and Companionage (英語) (77th ed.). London: Harrison & Sons. pp. 204–205.
  11. ^ a b c d e Pine, Leslie G., ed. (1956). Burke's Genealogical and Heraldic History of the Peerage, Baronetage and Knightage (英語) (101st ed.). London: Burke's Peerage Limited. p. 163.

外部リンク

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名誉職
先代
ラドナー伯爵英語版
ウィルトシャー統監英語版
1889年 – 1896年
次代
ランズダウン侯爵
グレートブリテンの爵位
先代
ヘンリー・フレデリック・シン英語版
バース侯爵
1837年 – 1896年
次代
トマス・ヘンリー・シン英語版