サッカー朝鮮民主主義人民共和国代表
サッカー朝鮮民主主義人民共和国代表(サッカーちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこくだいひょう)は、朝鮮民主主義人民共和国サッカー協会(DPRKFA)によって構成される、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)のサッカーのナショナルチームである。
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国または地域 | 北朝鮮 | |||
協会 | 朝鮮民主主義人民共和国サッカー協会 | |||
愛称 |
チョルリマ (千里馬) 赤い稲妻 | |||
監督 | 尹正水 | |||
最多出場選手 | 李明国(118試合) | |||
最多得点選手 | 鄭日冠(29得点) | |||
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初の国際試合 |
1956年10月7日対中華人民共和国 0-1 | |||
最大差勝利試合 |
2005年3月11日対グアム 21-0 | |||
最大差敗戦試合 |
2010年6月21日対ポルトガル 0-7 | |||
FIFAワールドカップ | ||||
出場回数 | 2回(初出場は1966) | |||
最高成績 | ベスト8 (1966) | |||
AFCアジアカップ | ||||
出場回数 | 5回 | |||
最高成績 | 4位 (1980) | |||
アジアサッカー連盟(AFC)および東アジアサッカー連盟(EAFF)所属。ホームスタジアムは、首都・平壌にある金日成競技場。
情報が少ないチームである。代表チームで国内リーグに参戦しているが成績は不明[1]。元代表の鄭大世によると「選手は良くも悪くも非常に純粋であり、アウェイでは萎縮する事が多く、ホームでは野心に溢れている。選手同士の悪口を言うことは絶対にない。団結力が高い」という[2]。
歴史
編集黎明期
編集1966年FIFAワールドカップ・イングランド大会の北朝鮮代表左SBリム・ジュンソンによれば、1959年1月19日に代表チームが結成され、同日、中央体育館で最初の練習が行われた[3]。自国に招いたソビエト連邦のクラブチームに勝利した1960年11月の試合はチームにとって最初の大きな成果だった[3]。ソ連のクラブチームとの対戦でも勝利を重ねるようになり、1961年9月にはモスクワでスパルタク・モスクワと対戦して2-1で勝利した[3]。
1963年にインドネシアで開催されたGANEFO(新興国競技大会)では決勝に進み、エジプト(アラブ連合)と対戦した。試合は延長戦を終えても1-1で決着せず、コイントスによってエジプトの優勝が決まった[4][5]。1964年のGANEFOでは決勝で北朝鮮が中国を破って優勝した[4]。
1964年東京オリンピックには予選を通過して本大会出場を決めていた[4]。しかし北朝鮮はGANEFOに参加した選手のオリンピック参加資格停止を主張する国際陸上競技連盟および国際水泳連盟への反発から、すべての競技で東京オリンピックのボイコットを決めた[3]。
1966年W杯ベスト8
編集FIFAワールドカップは1966年イングランド大会で初出場。予選のオーストラリアとの試合は中立地カンボジアで行われ、第1戦に3-1、第2戦に6-1と2勝して本大会出場を決めた[4]。
本大会のグループステージでは、初戦はソビエト連邦に0-3で敗れたが、次のチリ戦には引き分け、強豪イタリアとの最終戦では前半42分の朴斗翼の得点で1-0で破り、アジア勢初勝利とグループ突破のベスト8に入る活躍を見せた。現在でもイタリア戦でのW杯史上最大級の番狂わせ(一般的には1950年ブラジルW杯での、アマチュア選手揃いのアメリカが、プロ選手を揃えたイングランドを1-0で下したのがW杯史上最大の番狂わせとされているが、北朝鮮の勝利はこれに並ぶものと各国で大々的に報道された[6])とベスト8進出は大きな伝説として世界に語り継がれている。この時のチームは、東欧の社会主義国と親善試合を行って強化され、小柄だが力強く運動量豊富でスピードがあり、技術的にも正確なチームであった[7]。
翌日、前半25分までに3-0とリードしながらスタミナ切れを起こし[8][9]、この大会の得点王となるポルトガルの“モザンビークの黒豹”エウゼビオの4得点などで、3-5でワールドカップレコードとなる大逆転負けを喫した。朴斗翼は「あの時私たちは、攻撃しか知らなかった。私たちが3点決めると、ポルトガルのキャプテンは全員に守らせたんです。3点取られても守った。私たちはそれを分からず、ずっと攻め続けた。すると体力が落ちたところにエウゼビオのスピードにやられてPKを与えてしまった。私たちは大きい試合の経験が決定的に不足していた。だから、自分たちのやり方、攻撃サッカーしかできなかった」[3]とポルトガル戦を振り返る。この試合で、ポルトガルの長身のジョゼ・トーレスにかき回された経験から大型選手をそろえるという強化方針を協会が決めたため、かえってベスト8の成功の要因だった豊富な運動量やスピードが北朝鮮から失われた[10]。
試合後にチームは総括を行い「革命精神に背く」として1967年に朴斗翼・申英哲・李賛明が咸鏡北道の阿吾地炭鉱に強制送致となり、ゴキブリを食べていたという[8][9][11]。元北朝鮮代表選手・監督 尹明燦の証言によると、サッカー界と関係の強かった朝鮮労働党幹部 朴金喆が1968年に金日成総書記と対立して粛清されると、朴と親しかった多くの代表選手たちが粛清され、一部の選手は炭鉱送致処分を受け、その為に世代間の引き継ぎが上手くいかず、チーム力が低下したという[12][13][14]。
低迷期
編集1993年にはハンガリー出身のチェルナイ・パールを監督に迎えたが[15]、1994年アメリカ大会のアジア最終予選において、韓国代表と当時Jリーグ創設などで勢いづいていた日本代表に敗れた。それ以降に行われたAFCアジアカップ1996や、1998年フランス大会アジア予選などの公式試合を含めて1993年から1997年まで一切の国際試合には参加せず(1998年バンコクアジア大会から復帰)、2006年ドイツ大会アジア予選の参加まで国際試合の数は以前と比べて激減した。国際試合に参加しなかった理由は一般的には国内の飢饉や自然災害、金日成主席の死去などとされてきたが、中国サッカー専門誌で元北朝鮮代表チームの関係者が「日韓への敗戦に激怒した金正日総書記が対外試合の禁止を命じたからだ」と証言した[16]。
最近では経済的要因(苦難の行軍)がその理由とされてきている。脱北者のサッカー関係者と親しい韓国のサッカーライター金起徳によれば、競技力の低下から国際試合を禁じたというのは2次的な理由であり、実際には経済的要因が大きかったという[13]。また、協会副会長のリ・ガンホンはその理由について「国家財政危機で強化費が限られてしまったので、協会内での議論の結果、その強化費の多くをユースに回したから」と述べている[17]。結果的にユース育成は成功し、2004年から各年代のアジアユース大会で優勝や準優勝といった好成績を残すようになった上、選手の実力が上がったことで海外のクラブで活躍する選手も出てきた。2006年 ワールドカップドイツ大会の予選では1次予選でUAEに競り勝ち、最終予選まで進出している。
2010年W杯出場
編集鄭大世(当時川崎フロンターレ、FC町田ゼルビアにて引退)など海外組の活躍などにより2010年南アフリカ大会アジア予選を突破し、44年ぶりの本大会出場を決めた。グループリーグ初戦のブラジル戦では1-2で敗れはしたが、強豪のブラジルを相手に善戦したとして注目度が高まった。これを受けて2戦目のポルトガル戦では朝鮮中央テレビが史上初となるW杯実況中継で放送したが試合は0-7で惨敗し、この時点で北朝鮮のグループリーグ敗退が決定した(この試合の後、ポルトガルの選手達は「北朝鮮代表の選手たちが罰を受けないか心配だ」と彼らの身を案じたという[18])。この中継放送については、「ポルトガルの4点目が入った時点で打ち切られた」とする報道がある[19]。消化試合となった最後のコートジボワール戦でも0-3で敗れ、3戦全敗(勝ち点0)、得失点差-11(得点1・失点12)という惨憺たる結果に終わった。なお、この時使われた北朝鮮の代表ユニフォームはイタリアのスポーツウェアメーカー・レゲアが製作した。
帰国後、チームは戦績などについて6時間にわたる審査を受け、北朝鮮の選手達は「監督批判」も求められた。その結果、金正勲(キム・ジョンフン)監督には「思想の改造のため」として建設現場における1日14時間もの強制労働刑が科せられたという報道がなされた[要出典]。
北朝鮮サッカー協会は処罰疑惑を事実無根として否定し、国際サッカー連盟(FIFA)も調査の結果、金正勲監督の処罰は事実ではないとまとめた。またFIFAは6時間にわたる審査については北朝鮮では通常のことであり、中傷ではなかったという見解を示した[20]。なお、在日コリアンライターの安宿緑(やすやどろく)によると、「今では炭鉱も自動化され、人が来てはむしろ困る」と現地の人に聞いたという。また、同ライターによれば「金正勲監督は処罰されるどころか朝鮮体育省の副大臣に就任している」とのこと[21]。
2011年から現在
編集AFCチャレンジカップ2010の優勝チームとして、2011年1月のAFCアジアカップ2011本戦に出場するもグループリーグで敗退となった。3試合で1分け2敗(勝ち点1)、無得点(失点2)という結果であった。2014年ブラジル大会のアジア予選では1・2次予選を免除され、3次予選からの参加となった。その3次予選では日本、ウズベキスタン、タジキスタン(当初はシリア)と同組となり、日本とのホーム戦では1-0と勝利し、存在感を見せるが2勝1分3敗(勝ち点7)の3位で敗退(2位までが予選通過)。最終予選を待たずに2大会連続本大会出場が潰えた。2013年5月31日に、平壌国際サッカー学校(Pyongyang International Football School)を開校したり[22]、2014年以降スペインやイタリアのクラブのサッカーアカデミーと連携して代表チーム強化を図っている。
2018年ロシア大会のアジア予選で北朝鮮はウズベキスタン、フィリピン、バーレーン、イエメンと同組となった。北朝鮮は順調に勝ち点を重ね、グループ2位のまま最終節を迎えた。だが、勝てばグループ2位の上位4チームに入れて最終予選進出というところでフィリピンに2-3で逆転負けを屈し、グループ2位の上位4チームに入ることができず最終予選進出を逃した。
2022年カタール大会のアジア予選では、2次予選で韓国、トルクメニスタン、レバノン、スリランカと同組となった。この大会でも北朝鮮は順調に勝ち点を重ね、第6節終了時点で2勝1分1敗のグループ3位につけていた。2019年10月に開催されたホーム韓国戦は平壌にて無観客で開催された。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)流行の影響により、2020年3月、6月に予定されていた2次予選4試合は開催延期となり、2021年5月16日、北朝鮮は2022年カタール大会・アジア予選兼2023年アジアカップ中国大会予選を出場辞退することがAFCより発表された。EAFF E-1サッカー選手権2022は従来の予選方式ではなくFIFAランキング上位が出場する方式となり、北朝鮮にも出場資格があったが、こちらも辞退している[23]。
2026年北中米大会のアジア予選において、2023年11月の2次予選からA代表としては国際大会に復帰しており、当予選では日本、シリア、ミャンマーと同組となった。アウェイでシリアとの初戦では0-1で敗れたものの、続くアウェイミャンマー戦では鄭日冠のハットトリックなど6-1と大勝。翌2024年3月の日本との2連戦において、アウェイで0-1で敗れ、同月26日にホーム平壌で開催予定だった日本戦は、同月21日の日本戦を前に北朝鮮側の申し出により開催中止が決定。その後、日程調整、会場確保などが困難になったことから、FIFA規律委員会による審議の結果、試合そのものを開催しないことが決まり、同月30日に当試合を没収試合とし、0-3で北朝鮮の敗戦とすることが発表された。同年6月に開催予定のホーム平壌での2連戦は、日本戦の没収試合によるFIFAの制裁のためホームゲームを中立地で開催することとなり、試合会場がラオス・ヴィエンチャンのニュー・ラオス・ナショナル・スタジアムに変更された。引き分け以下で敗退が決まるシリア戦はATの勝ち越し弾で1-0で勝利すると、最終節において先駆けて行われた一戦でシリアが日本に大敗したため、引き分け以上であれば最終予選進出が決まるミャンマーとの最終戦は4-1で快勝し、3大会ぶりの最終予選進出を決めた。最終予選における北朝鮮のホームゲームは、「安全上の懸念」を理由に試合会場が2次予選のラスト2試合に引き続きヴィエンチャンに変更となった。
育成改革
編集北朝鮮代表チームはさらなる育成改革として2013年からサッカー選手育成プロジェクトを開始している。国際サッカー連盟(FIFA)のサッカー発展プロジェクトから170万ドル規模の資金提供を受け[24]、2013年5月31日に綾羅島にサッカーアカデミーの平壌国際サッカー学校(Pyongyang International Football School)を開校し[25][26]、2014年以降育成した選手をスペインやイタリアのクラブのサッカーアカデミーに留学させることで代表チーム強化を図っている。プロジェクト第1期生には、北朝鮮初のセリエA選手の崔成赫(チェ・ソンヒョク)、2人目のセリエA選手となる韓光成(ハン・グァンソン)らがいる[27]。
国内の選手は、平日は代表監督の下で1日2回練習を行い、週末は自分たちのクラブに戻って試合を行うというハードスケジュールである[28]。海外の選手は、日常のトレーニングは所属クラブで行い、国際Aマッチデー等の短期間に代表のトレーニングを行うのが一般的である。
サプライヤー
編集期間 | サプライヤー |
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1948-1992 | アドミラル |
1992-2002 | フィラ |
2002-2003 | ロット |
2003-2005 | アディダス |
2005-2006 | アンブロ |
2006-2008 | ヒュンメル |
2008-2010 | ERKE |
2010-2014 | レゲア |
2014- | Choeusu |
成績
編集FIFAワールドカップ
編集開催年 | 結果 | 試合 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | 得点 | 失点 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1930 | 独立前 | ||||||
1934 | |||||||
1938 | |||||||
1950 | 不参加 | ||||||
1954 | |||||||
1958 | |||||||
1962 | |||||||
1966 | ベスト8 | 4 | 1 | 1 | 2 | 5 | 9 |
1970 | 予選敗退 | ||||||
1974 | |||||||
1978 | |||||||
1982 | |||||||
1986 | |||||||
1990 | |||||||
1994 | |||||||
1998 | 不参加 | ||||||
2002 | |||||||
2006 | 予選敗退 | ||||||
2010 | グループリーグ敗退 | 3 | 0 | 0 | 3 | 1 | 12 |
2014 | 予選敗退 | ||||||
2018 | |||||||
2022 | 予選途中棄権 | ||||||
合計 | 2/22 | 7 | 1 | 1 | 5 | 6 | 21 |
AFCアジアカップ
編集開催年 | 結果 | 試合 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | 得点 | 失点 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1956 | 不参加 | |||||||
1960 | ||||||||
1964 | ||||||||
1968 | ||||||||
1972 | ||||||||
1976 | 予選終了後棄権 | |||||||
1980 | 4位 | 6 | 3 | 0 | 3 | 10 | 12 | |
1984 | 不参加 | |||||||
1988 | 予選敗退 | |||||||
1992 | グループリーグ敗退 | 3 | 0 | 1 | 2 | 2 | 5 | |
1996 | 不参加 | |||||||
2000 | 予選敗退 | |||||||
2004 | ||||||||
2007 | 不参加 | |||||||
2011 | グループリーグ敗退[29] | 3 | 0 | 1 | 2 | 0 | 2 | |
2015 | グループリーグ敗退 | 3 | 0 | 0 | 3 | 2 | 7 | |
2019 | グループリーグ敗退 | 3 | 0 | 0 | 3 | 1 | 14 | |
2023 | 予選途中棄権 | |||||||
合計 | 5/17 | 18 | 3 | 2 | 13 | 15 | 40 |
EAFF E-1サッカー選手権
編集AFCチャレンジカップ
編集開催年 | 結果 | 試合 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | 得点 | 失点 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
2006 | 不参加 | ||||||
2008 | 3位 | 3 | 1 | 1 | 1 | 6 | 2 |
2010 | 優勝 | 5 | 3 | 2 | 0 | 14 | 2 |
2012 | 優勝 | 5 | 5 | 0 | 0 | 12 | 1 |
2014 | 不参加[30] | ||||||
合計 | 3/5 | 11 | 7 | 4 | 2 | 19 | 7 |
AFCソリダリティーカップ
編集- 2016年 - 不参加
オリンピック
編集歴代監督
編集歴代選手
編集GK
編集DF
編集MF
編集- 金功榛( FCヴィル1900)
- 金成勇( DSKシバジアンズFC)
- 梁勇基( ベガルタ仙台)
- 安英学( 横浜FC)
- 李漢宰( FC町田ゼルビア)
- 洪映早( 4.25体育団)
- 文人国( 4.25体育団)
- 鄭日冠( 鯉明水体育団)
- 朴南哲( シーサケートFC)
- 李栄直( 東京ヴェルディ)
- 南成哲( 鯉明水体育団)
- 洪金成( 4.25体育団)
- 李哲敏( 平壌市体育団)
- 徐景進( 小白水体育団)
- 李相哲( 鴨緑江体育団)
- 呉赫哲( 4.25体育団)
- 朴明成( 小白水体育団)
- リ・イルジン( 小白水体育団)
- リ・ヒョンソン( 鯉明水体育団)
- 李享進( 4.25体育団)
- 朱正哲( 鴨緑江体育団)
- ユン・イルグァン( 自動車体育団)
FW
編集脚注
編集- ^ “「めちゃくちゃ純粋で、めっちゃ良い奴ら」鄭大世が北朝鮮代表の内情を明かす。44年ぶりのW杯出場、ブラジル戦で感じたのは?”. 2024年3月21日閲覧。
- ^ “「めちゃくちゃ純粋で、めっちゃ良い奴ら」鄭大世が北朝鮮代表の内情を明かす。44年ぶりのW杯出場、ブラジル戦で感じたのは?”. 2024年3月21日閲覧。
- ^ a b c d e 黄慈権「ベスト8の以前・以後 ~66年の北朝鮮代表選手を追って~」『季刊 サッカー批評』、双葉社、2005 ISSUE 28、88-93頁
- ^ a b c d “North Korea International Matches 1963-2000”. RSSSF (2010年3月25日). 2012年10月9日閲覧。
- ^ http://www.rsssf.com/tablesn/nkor-intres.html
- ^ 素朴な疑問探究会編『[サッカー]がもっとわかる本』、河出書房新社、1998年、P172〜P174、P180〜P182
- ^ 国吉好弘『サッカーマルチ大事典改訂版』2006年
- ^ a b “北朝鮮 44年前、炭鉱送りになったW杯代表選手たち(上)”. アジアプレス・ネットワーク (2022年7月30日). 2022年7月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧。
- ^ a b “北朝鮮 44年前 炭鉱送りになったW杯代表選手たち(下)”. アジアプレス・ネットワーク (2022年7月30日). 2022年7月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧。
- ^ 後藤健生「世界サッカー紀行2002」2002年
- ^ “【五輪体操】勝てば豪邸暮らし だが、負ければ強制収容所でゴキブリを食べ… 「(金正恩)指導者に勝利を届けられて…」というメダリストの発言の真意とは?(1/3ページ) - 産経ニュース”. web.archive.org (2022年2月10日). 2022年7月30日閲覧。
- ^ 吉崎英治 (2007年12月28日). “北朝鮮、本当に「謎」ですか?”. Number Web. 2012年10月9日閲覧。
- ^ a b 吉崎英治「Q&Aで知る北朝鮮サッカー基礎知識」『週刊サッカーマガジン』、No.1006、16-18頁。
- ^ 吉崎英治「北朝鮮サッカー 「イングランド遺産」の果てに 「1966」に縛られて」『週刊サッカーマガジン』、No.907、38-41頁。
- ^ http://www.rsssf.com/intldetails/1993as.html
- ^ 竹腰雅彦 (2004年12月30日). “サッカー北朝鮮代表「4・25隊」、中国関係者が報告”. YOMIURI ON-LINE. 2012年10月9日閲覧。
- ^ 北朝鮮「44年前の奇跡をもう一度」、スポーツ・グラフィック ナンバー742号本誌記事P.71。なお、web上では記事全文は閲覧不可。
- ^ コラム 北朝鮮サッカーの善戦を願うワケ(上)、朝鮮日報、2010年6月25日配信。
- ^ 北のポルトガル戦は4失点目で生中継を中断、試合途中で負け宣言 - サーチナ、2010年6月23日配信、6月27日閲覧。
- ^ FIFA、北朝鮮代表チームへの処罰疑惑を否定、ロイター、2010年8月26日配信、9月1日閲覧。
- ^ 北朝鮮ネタのフリー素材ぶりがすごいライター安宿緑の北朝鮮ブログ-2014年3月3日
- ^ 北朝鮮サッカー、その脅威の背景アジア・ウオッチ・ネットワーク-2015年12月9日
- ^ “E-1選手権の日本開催が決定! 中国政府の「ゼロコロナ政策」によって開催地変更に - サッカーマガジンWEB”. soccermagazine.jp (2022年4月19日). 2022年7月20日閲覧。
- ^ 「メッシ以上の選手育成」が目標、北朝鮮唯一のサッカーアカデミーAFPBB News-2016年11月25日
- ^ 北朝鮮サッカー、その脅威の背景、アジア・ウオッチ・ネットワーク、2015年12月9日配信
- ^ 北朝鮮サッカー代表の強さの背景・・・育成施設と国家選抜制について中国メディアが特集、searchina、2015年12月21日配信
- ^ 北朝鮮の知られざる「エリート育成法」とは? セリエAで初ゴールを奪うFWも!P3、soccerdigestweb、2017年12月11日配信
- ^ 北朝鮮サッカーの“衝撃の練習環境”!「平日は代表、週末はクラブ…」P2、soccerdigestweb、2017年12月11日配信
- ^ 予選には参加しなかった(エントリー後に辞退)が、AFCチャレンジカップ2010で優勝したため、本大会への出場権を得た。
- ^ “Northern Mariana debuts in Challenge Cup”. アジアサッカー連盟 (2012年9月14日). 2012年10月1日閲覧。