コリン・グレゴリー
ジョン・コリン・グレゴリー(John Colin Gregory, 1903年7月28日 - 1959年9月10日)は、イングランド・ヨークシャー州ベバリー出身の男子テニス選手。1929年の全豪選手権男子シングルス優勝者で、同年のウィンブルドン選手権男子ダブルス準優勝もあった。彼は医師であったことから、テニス文献でも Dr. John Colin Gregory (ドクター・ジョン・コリン・グレゴリー)と記載されることが多い。グレゴリーのテニスは、グラウンド・ストロークの強打を最大の武器にした。
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コリン・グレゴリー | ||||
基本情報 | ||||
フルネーム | John Colin Gregory | |||
国籍 | イギリス | |||
出身地 | イングランド・ヨークシャー州ベバリー | |||
生年月日 | 1903年7月28日 | |||
没年月日 | 1959年9月10日(56歳没) | |||
死没地 | イングランド・ウィンブルドン | |||
4大大会最高成績・シングルス | ||||
全豪 | 優勝(1929) | |||
全仏 | ベスト8(1930) | |||
全英 | ベスト8(1926・30) | |||
優勝回数 | 1(豪1) | |||
4大大会最高成績・ダブルス | ||||
全豪 | 準優勝(1929) | |||
全英 | 準優勝(1929) | |||
4大大会最高成績・混合ダブルス | ||||
全豪 | ベスト8(19299) | |||
全英 | ベスト4(1929) | |||
彼のフルネームが「ジョン・コリン・グレゴリー」であることから、テニス文献や優勝記録表では「コリン・グレゴリー」(Colin Gregory)と「ジョン・グレゴリー」(John Gregory)が混在していることが多いが、これは同一人物を指している。デビスカップサイトには「コリン・グレゴリー」の名前で登録されており、国際テニス連盟のプロフィールでもこの名前で掲載されている。
来歴
編集グレゴリーはヨークシャー州のテニス・チャンピオンになった後、1926年から男子テニス国別対抗戦・デビスカップのイギリス代表選手に選ばれた。この年からグランドスラム大会にも参加し始め、全仏選手権で3回戦に進み、ウィンブルドン選手権でベスト8に入る。3年後の1929年、グレゴリーはイギリス人選手としてヘンリー・オースチンとともに全豪選手権に遠征した。この年の全豪選手権はアデレードにある「メモリアル・ドライブ・テニスクラブ」で開かれ、決勝戦の相手はリチャード・シュレジンガー(ボブ・シュレジンガーとも呼ばれる)に決まった。シュレジンガーは5年前の1924年にも男子シングルス準優勝があった人である。グレゴリーはシュレジンガーを 6-2, 6-2, 5-7, 7-5 で破り、この大会で男子シングルス優勝を飾った。
全豪選手権で優勝した1929年、彼はウィンブルドン選手権で男子ダブルス準優勝も記録した。パートナーは同じ年のイアン・コリンズ(1903年 - 1975年)と組み、決勝でアメリカペアのウィルマー・アリソン&ジョン・バン・リン組に 4-6, 7-5, 3-6, 12-10, 4-6 で敗れた。ウィンブルドン選手権では1927年から「シード選手」が導入され、グレゴリーは1929年の男子シングルス「第8シード」として、この制度でシードに選ばれた最初のイギリス人選手になったが、シングルスは4回戦で止まった。
1930年、グレゴリーは全仏選手権とウィンブルドン選手権でシングルスのベスト8に入り、この年を最後に選手生活から身を引いた。1949年から、彼はデビスカップのイギリス代表監督に就任する。1952年のデビスカップ「ヨーロッパゾーン」2回戦で、イギリスがユーゴスラビアと対戦した時、チーム代表選手に故障者が出たため、シングルス第2試合で戦力を使い果たした状態になり、1勝1敗で第3試合のダブルス戦を迎えた。ここで監督のグレゴリーが、22年ぶりのダブルス戦出場に踏み切る。グレゴリーはトニー・モットラムとコンビを組み、ユーゴスラビア代表のヨシップ・パラーダ&ステファン・ラスロ組を 6-4, 1-6, 9-11, 6-2, 6-2 で破った。この勝利により、イギリス・チームも「3勝2敗」でユーゴスラビアに辛勝する。こうして、ジョン・コリン・グレゴリーは「48歳295日」のデビスカップ最年長勝利記録を残した。全豪選手権の栄冠から、すでに23年の歳月が流れていた。
グレゴリーは1952年までデビスカップ代表監督を務めた後、1955年からウィンブルドン選手権の主催者「オールイングランド・クラブ」の会長に就任したが、1959年9月10日にウィンブルドンの地で急死した。56歳1ヶ月の生涯だった。
参考文献
編集- Bud Collins, “Total Tennis: The Ultimate Tennis Encyclopedia” Sport Classic Books, Toronto (2003 Ed.) ISBN 0-9731443-4-3
- Martin Hedges, “The Concise Dictionary of Tennis”(コンサイス・テニス辞書) Mayflower Books Inc., New York (1978) ISBN 0-8317-1765-3
- Maurice Brady, “The Encyclopedia of Lawn Tennis”(ローンテニス百科事典) Robert Hale Ltd., London (1958 Ed.) 本書からは64ページ・122ページを参照した。
- Bruce Matthews, “Game, Set and Glory: A History of the Australian Tennis Championships” (ゲーム・セット・栄冠-オーストラリア・テニス選手権の歴史) The Five Mile Press, Victoria, Australia (1985) ISBN 0-86788-078-3 本書からは18ページを参照した。
- “Our Open - 100 years of Australia's Grand Slam” (我らのオープン-オーストラリア・グランドスラムの100年史) News Custom Publishing, Victoria, Australia (2004) ISBN 1-876176-60-1