オーヴァーサイト (競走馬)
オーヴァーサイト(Oversight、1906年生)は、フランスで生産および調教されたサラブレッドの競走馬、のち種牡馬。1908年から1910年にかけてフランス国内で走り、1908年のサラマンドル賞・1909年のリュパン賞・1910年のフランス共和国大統領賞などに優勝した。
オーヴァーサイト | |
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欧字表記 | Oversight |
品種 | サラブレッド |
性別 | 牡馬 |
毛色 | 鹿毛 |
生誕 | 1906年 |
父 | ハルマ |
母 | ファーストサイト |
母の父 | アイシングラス |
生国 | フランス |
生産者 | ケスネー牧場 |
馬主 | W・K・ヴァンダービルト |
調教師 | ウィリアム・B・デューク |
競走成績 | |
生涯成績 | 26戦16勝 |
獲得賞金 | 632,160 フランス・フラン[1] |
勝ち鞍 |
サラマンドル賞(1908年) リュパン賞(1909年) 共和国大統領賞(1910年) |
生涯
編集デビュー前
編集アメリカ合衆国の実業家ウィリアム・キッサム・ヴァンダービルトが、フランス・カルヴァドス県ヴォーヴィルのケスネー牧場で生産した。イギリス三冠馬アイシングラスの産駒ファーストサイト (First Sight) を母とする。父は1895年のケンタッキーダービー優勝馬ハルマ[2]。
そのままヴァンダービルトの所有馬となり、彼の専属調教師だったウィリアム・B・デュークのもとへ入厩した。
2歳(1908年)
編集デビュー戦は1908年7月12日にメゾンラフィット競馬場で行われた Prix Le-Sagittaire(芝800メートル)で、ジョージ・ベルハウスを背に発馬からハナをきるとそのまま2着馬に2馬身差をつけて勝利した[3][注 1]。続く2勝目を10月5日の Prix des Brisées(サントゥアン競馬場[注 2]・芝1500メートル)で挙げた[4]。10月15日のサラマンドル賞(ロンシャン競馬場・芝1400メートル)では 7/10(1.7倍)の支持に応え、ヴェルダン (Verdun)[注 3]の猛追を1馬身凌いで優勝した[5]。2歳時の獲得賞金は34,285フランス・フランだった[6]。
3歳(1909年)
編集1909年のオーヴァーサイトは、初戦 Prix Delâtre(3月19日、メゾンラフィット競馬場・芝2000メートル)[7]と次戦の Prix Lagrange(4月2日、メゾンラフィット競馬場・芝2000メートル)に快勝[8]。前年から4連勝でクラシック競走第一戦、5月16日のプール・デッセ・デ・プーラン(フランス2000ギニー、ロンシャン競馬場・芝1600メートル)に出走した。レースは先手を取ったオーヴァーサイトとヴェルダンに対してコーナーで一時メアリ (Méhari)[注 4]が先頭を奪うも直線で3頭が横並びになり、そこから抜け出したヴェルダンが優勝、追い込んできたイタルス (Italus)[注 5]がクビ差の2着に入り、オーヴァーサイトはさらに2馬身半差の3着に敗れた[9]。
続いて5月20日のダリュー賞(ロンシャン競馬場・芝2100メートル)[10]、5月23日の第27回ラロシェト賞3歳牡馬の部(ロンシャン競馬場・芝2200メートル)[11]、5月30日のリュパン賞(ロンシャン競馬場・芝2100メートル)[12]と3連勝して6月13日のクラシック競走第二戦・ジョッケクルブ賞(フランスダービー、シャンティイ競馬場・芝2400メートル)へ向かった。
ジョッケクルブ賞でのオーヴァーサイトは大本命と考えられており[注 6]、オッズは同馬主・同厩のネゴフォル (Negofol)[注 7]とのカップリング馬券[注 8]で 13/4(4.25倍)の一番人気となった[14]。スタートするとオーヴァーサイトは逃げるフィスデュヴァン (Fils du Vent)[注 9]を番手で追走、直線で交わして先頭を奪うもネゴフォルとウニオン (Union)[注 10]に差されて3着に敗れた[14]。
その後は中1週でロンシャン競馬場の芝3000メートルで行われる国際競走・パリ大賞(6月27日)に出走した。逃げるウィリアムザフォース (William the Fourth)[注 11]を先団で伺う形でレースを進めたが、直線で脚が伸びずヴェルダンの8着に惨敗した[15]。
秋はロワイヤルオーク賞やコンセイユミュニシパル賞に登録していたが出走することはなくこの年を終えた。3歳時の獲得賞金は304,725フランで、プール・デッセ・デ・プーランとパリ大賞の二冠を達成して667,825フランを稼いだヴェルダンにこそ大差をつけられたものの、この年の獲得賞金ランキングで2位となった[16]。
4歳(1910年)
編集1910年は3月18日の Prix de Saint-Pair-du-Mont(アンギャン競馬場・芝2100メートル)から始動。騎手はフランク・オニールに乗り替わりとなったが、2着馬ロンドドニュイ (Ronde de Nuit)[注 12]に短首差をつけて勝利した[17]。
続く Prix Perplexe(3月30日、メゾンラフィット競馬場・芝1400メートル)とサブロン賞(4月3日、ロンシャン競馬場・芝2000メートル)で2戦続けて2着した後、ジョンシェール賞(4月17日、ロンシャン競馬場・芝1400メートル)[18]、第52回ビアンナル賞4歳馬の部(5月1日、ロンシャン競馬場・芝3000メートル)[19]、Prix de Martinvast(5月5日、ロンシャン競馬場・芝2000メートル)[20]、ラフォルス賞(5月12日、ロンシャン競馬場・芝2200メートル)[21]と4連勝を飾った。
その後は5月22日の Prix du Prince de Galles(ロンシャン競馬場・芝2400メートル)で5頭立ての4着に沈み[22]、6月5日のエドヴィル賞(シャンティイ競馬場・芝2000メートル)では2頭立ての2着に敗れた[23]。しかし6月9日の第27回ラロシェト賞4歳馬の部(シャンティイ競馬場・芝4400メートル)[24]と6月25日の Prix de Seine-et-Marne(ロンシャン競馬場・芝2400メートル)[25]に連勝し、7月3日にメゾンラフィット競馬場で行われるフランス共和国大統領賞(芝2500メートル)に出走した。
フランス共和国大統領賞でのオーヴァーサイトは、同馬主・同厩のシーシック (Sea Sick)[注 13]とのカップリング馬券[注 8]で 105/100(2.05倍)の一番人気に推された[26]。レースでは先行したシーシックやオシアン (Ossian)[注 14]らを先団で追走し、直線でこれらを交わすと追い込んできたマルサ (Marsa)[注 15]をクビ差凌いで優勝した[26]。これを最後に引退、種牡馬入りした。
4歳時の獲得賞金は250,400フランで、この年の獲得賞金ランキングでもパリ大賞優勝馬ヌアージュ (Nuage)[注 16]に次ぐ2位だった[27]。
引退後
編集引退後は種牡馬として供用されたが、失敗に終わった。
競走成績
編集- 当時はグループ制導入前のため格付け無し。
- 走路はすべて芝馬場。
競走日 | 競馬場 | 競走名 | 距離・馬場状態 | 頭数 | 着順 | 勝ち時計 | 騎手 | 斤量 (kg) | 1着馬(2着馬) | 出典 |
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1908年7月12日 | メゾンラフィット | Prix Le-Sagittaire | 800m (bon) | 13 | 1着 | 48″+3⁄5 | G. Bellhouse | 56 | (Taupin) | [3] |
7月26日 | メゾンラフィット | オムニウム・ド・ドゥゾン | 1100m (bon) | 10 | 3着 | J. Childs | 56 | Fils du Vent | [28] | |
8月11日 | ドーヴィル | Prix de Deux Ans | 1200m (bon) | 6 | 着外 | C.-E. Hobbs | 54 | Mèhari | [29] | |
8月18日 | ドーヴィル | Prix de la Touques | 1000m (bon) | 10 | 2着 | J. Childs | 53 | Sea Queen | [30] | |
10月5日 | サントゥアン | Prix des Brisées | 1500m (bon) | 6 | 1着 | 1′36″+3⁄5 | J. Jennings | 47 | (Clichy II) | [4] |
10月15日 | ロンシャン | サラマンドル賞 | 1400m (bon) | 7 | 1着 | 1′28″+4⁄5 | G. Bellhouse | 54 | (Verdun) | [5] |
1909年3月19日 | メゾンラフィット | Prix Delâtre | 2000m (lourd) | 8 | 1着 | 2′11″+2⁄5 | G. Bellhouse | 56 | (King's Love) | [7] |
4月2日 | メゾンラフィット | Prix Lagrange | 2000m (lourd) | 6 | 1着 | 2′19″+2⁄3 | G. Bellhouse | 56 | (Verdun) | [8] |
5月16日 | ロンシャン | プール・デッセ・デ・プーラン | 1600m (bon) | 7 | 3着 | G. Bellhouse | 58 | Verdun | [9] | |
5月20日 | ロンシャン | ダリュー賞 | 2100m (bon) | 10 | 1着 | 2′20″ | G. Bellhouse | 58 | (Vieux Rouen) | [10] |
5月23日 | ロンシャン | 第27回ラロシェト賞3歳牡馬 | 2200m (bon) | 6 | 1着 | 2′19″+4⁄5 | G. Bellhouse | 58 | (Frère Luce) | [11] |
5月30日 | ロンシャン | リュパン賞 | 2100m (bon) | 7 | 1着 | 2′16″ | G. Bellhouse | 58 | (Rebelle) | [12] |
6月13日 | シャンティイ | ジョッケクルブ賞 | 2400m (bon) | 19 | 3着 | G. Bellhouse | 58 | Negofol | [14] | |
6月27日 | ロンシャン | パリ大賞 | 3000m (lourd) | 11 | 8着 | G. Bellhouse | 58 | Verdun | [15] | |
1910年3月18日 | アンギャン | Prix de Saint-Pair-du-Mont | 2100m (lourd) | 6 | 1着 | F. O'Neil | 60 | (Ronde de Nuit) | [17] | |
3月30日 | メゾンラフィット | Prix Perplexe | 1400m (bon) | 6 | 2着 | F. O'Neil | 58+1⁄2 | Fils du Vent | [31] | |
4月3日 | ロンシャン | サブロン賞 | 2000m (bon) | 7 | 2着 | F. O'Neil | 58 | Chulo | [32] | |
4月17日 | ロンシャン | ジョンシェール賞 | 1400m (bon) | 5 | 1着 | 1′32″+2⁄5 | F. O'Neil | 60 | (Sifflet) | [18] |
5月1日 | ロンシャン | 第52回ビアンナル賞4歳馬 | 3000m (bon) | 8 | 1着 | 3′15″+1⁄5 | F. O'Neil | 60 | (Aveu) | [19] |
5月5日 | ロンシャン | Prix de Martinvast | 2000m (peu lourd) | 2 | 1着 | 2′15″+3⁄5 | F. O'Neil | 65 | (Phocide) | [20] |
5月12日 | ロンシャン | ラフォルス賞 | 2200m (lourd) | 3 | 1着 | 2′30″ | F. O'Neil | 63 | (Chulo) | [21] |
5月22日 | ロンシャン | Prix du Prince de Galles | 2400m (bon) | 5 | 4着 | F. O'Neil | 64+1⁄2 | Moulins la Marche | [22] | |
6月5日 | シャンティイ | エドヴィル賞 | 2000m (bon) | 2 | 2着 | F. O'Neil | 63 | Radis Rose | [23] | |
6月9日 | シャンティイ | 第27回ラロシェト賞4歳馬 | 4400m (bon) | 4 | 1着 | 5′01″+2⁄5 | F. O'Neil | 58 | (Ronde de Nuit) | [24] |
6月25日 | ロンシャン | Prix de Seine-et-Marne | 2400m (lourd) | 5 | 1着 | 2′47″ | F. O'Neil | 61+1⁄2 | (Secours) | [25] |
7月3日 | メゾンラフィット | フランス共和国大統領賞 | 2500m (lourd) | 10 | 1着 | 2′45″+3⁄5 | F. O'Neil | 59 | (Marsa) | [26] |
脚注
編集注釈
編集- ^ なおこの日のメインレースであるフランス共和国大統領賞でも、ヴァンダービルト所有でデューク調教・ベルハウス騎乗のシーシック (Sea Sick) が優勝している。
- ^ パリの北に接するサン=トゥアンに所在した競馬場。1917年に閉鎖。
- ^ 翌年、プール・デッセ・デ・プーランとパリ大賞の二冠に加えフランス共和国大統領賞などに優勝。引退後は輸出先のアルゼンチンで種牡馬として成功したほか、フランスリーディングサイアーアステリューの母父となった。
- ^ 前年のドゥーアン賞および当年のオカール賞優勝馬。プール・デッセ・デ・プーランでは 21/10(3.1倍)の一番人気であった。
- ^ 1911年のドラール賞およびエドヴィル賞 の勝ち馬。
- ^ Le Jockey 紙が集計した30メディアの推奨馬のまとめによれば、15紙で本命・9紙で対抗に挙げられ、加えてヴァンダービルト所有馬のカップリング馬券を本命としたのが3紙あった[13]。
- ^ 同年のフォンテーヌブロー賞とギシュ賞の勝ち馬。引退後はアメリカ合衆国へ輸出され、プリークネスステークス馬コヴェントリーやベルモントステークス馬ヴィトーなどの父となったほか、1925年の映画『香も高きケンタッキー』にも出演した。
- ^ a b 同一馬主が多頭出ししたときにそのすべての馬を同一とする扱い。いずれかの馬が1着となれば的中となる。フランスでは2019年に廃止された。
- ^ 前年のオムニウム・ド・ドゥゾン勝ち馬。エドモン・ブランの所有で、同馬主のディアヌ賞馬ウニオンのラビットだった。
- ^ 当年のグレフュール賞やディアヌ賞(フランスオークス)優勝馬。
- ^ 初代マイケルハム男爵が所有するイギリス産馬で、当年のアスコットダービー勝ち馬。
- ^ 前年のプール・デッセ・デ・プーリッシュとヴェルメイユ賞の二冠牝馬。1910年はフォレ賞に優勝した。
- ^ 1908年のジョッケクルブ賞とフランス共和国大統領賞の優勝馬。古馬になってからもグラディアトゥール賞やドラール賞などに勝利していた。
- ^ 1908年のエクリプス賞勝ち馬。この年の秋にコンセイユミュニシパル賞、翌1911年にガネー賞・イスパーン賞・フランス共和国大統領賞に優勝した。
- ^ 1909年のオムニウム・ド・ドゥゾン、当年のディアヌ賞優勝馬。
- ^ 前年のクリテリウム・ド・メゾンラフィット勝ち馬で、この年はパリ大賞の他にギシュ賞やグレフュール賞に勝利。引退後はドイツへ輸出され、3度ドイツリーディングサイアーとなった。
出典
編集- ^ Corbière, Pierre (1920). "OVERSIGHT". Étalons de pur sang de France (フランス語). Adolphe le Goupy. pp. 212–213. Gallicaより2023年10月22日閲覧。
- ^ “First Whip's Handicap,”. New York Times. (July 11, 1901)
- ^ a b “Le Jockey, 13 juillet 1908, p. 3/4” (フランス語). retronews.fr. フランス国立図書館. 2023年9月30日閲覧。
- ^ a b “Le Jockey, 6 octobre 1908. p. 3/4” (フランス語). retronews.fr. フランス国立図書館. 2023年9月30日閲覧。
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- ^ “Le Jockey, 25 novembre 1908, p. 4/4” (フランス語). retronews.fr. フランス国立図書館. 2023年10月7日閲覧。
- ^ a b “Le Jockey, 20 mars 1909, p. 3/4” (フランス語). retronews.fr. フランス国立図書館. 2023年9月30日閲覧。
- ^ a b “Le Jockey, 3 avril 1909, p. 3/4” (フランス語). retronews.fr. フランス国立図書館. 2023年9月30日閲覧。
- ^ a b “Le Jockey, 17 mai 1909, p. 3/4” (フランス語). retronews.fr. フランス国立図書館. 2023年9月30日閲覧。
- ^ a b “Le Jockey, 21 mai 1909, p. 3/4” (フランス語). retronews.fr. フランス国立図書館. 2023年9月30日閲覧。
- ^ a b “Le Jockey, 24 mai 1909, p. 3/4” (フランス語). retronews.fr. フランス国立図書館. 2023年9月30日閲覧。
- ^ a b “Le Jockey, 31 mai 1909, p. 3/4” (フランス語). retronews.fr. フランス国立図書館. 2023年9月30日閲覧。
- ^ “Le Jockey, 13 juin 1909, p. 4/4” (フランス語). retronews.fr. フランス国立図書館. 2023年10月22日閲覧。
- ^ a b c “Le Jockey, 14 juin 1909, p. 3/4” (フランス語). retronews.fr. フランス国立図書館. 2023年9月30日閲覧。
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- ^ “Le Jockey, 17 novembre 1909, p. 3/4” (フランス語). retronews.fr. フランス国立図書館. 2023年10月14日閲覧。
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- ^ “Le Jockey, 6 août 1910, p. 4/4” (フランス語). retronews.fr. フランス国立図書館. 2023年12月3日閲覧。
- ^ “Le Jockey, 27 juillet 1908, p. 3/4” (フランス語). retronews.fr. フランス国立図書館. 2023年9月30日閲覧。
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