嘘つき解散

1993年の衆議院解散
ウソつき解散から転送)

嘘つき解散(うそつきかいさん)は、1993年6月18日に行われた衆議院解散の通称である[1][2]。別名として自爆解散無責任解散造反解散などがある[3]

経緯

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1993年5月31日に放送された、宮澤喜一首相がジャーナリスト田原総一朗からインタビューを受けた特別番組『総理と語る』(テレビ朝日)の中で、「(今国会中に衆議院選挙制度改革を)やります。やるんです」と公約するも、自民党内の意見をまとめきれずに次の国会へ先送りしたことに野党が反発、通常国会閉幕直前に日本社会党公明党民社党が共同で内閣不信任決議案を提出した[注釈 1]衆議院の過半数を占める自民党の反対多数で否決されると思われたが、党内から造反者が続出して可決された。内閣不信任決議可決は1980年以来13年ぶり、日本国憲法施行後4回目であった。

この造反劇は、前年に党内最大派閥・経世会の会長・金丸信東京佐川急便事件で逮捕されたことに端を発している。金丸が去った後、派内人事や金丸の処遇を巡って、小渕恵三橋本龍太郎梶山静六らと、小沢一郎羽田孜奥田敬和渡部恒三らとの対立が表面化し、竹下派七奉行による激烈な主導権争いを繰り広げた。最終的には派閥オーナーである竹下登の工作もあって、小渕が経世会会長に就任した。小沢らは小渕派経世会を脱会し、羽田を先頭に改革フォーラム21(羽田派)を結成した。これによって党内最大派閥は完全分裂し、小渕派は党内第4派閥、羽田派は第5派閥に転落した。

そして、その後の党役員の人事にあたって、宮澤が小渕派を優遇し羽田派を冷遇したことで、羽田派は宮澤内閣に対して態度を硬化させる。羽田派は非主流派として、宮澤内閣に「政治改革関連法案を絶対に通すべきだ」と強く迫り続けたが、結局同法案は党内からの反対もあり廃案となり、これが羽田派の内閣不信任案へ賛成票を投じる結果に至った。羽田派に属していた船田元経済企画庁長官・中島衛科学技術庁長官の2閣僚も、それぞれ大臣の職の辞表を提出して受理された上で不信任案に賛成票を投じた。自民党内閣への内閣不信任案採決の際に自民党議員が欠席・棄権した例は他にもあるが、不信任票を投じたのはこの時のみである。

宮沢内閣はこれを受けて衆議院を解散した。解散の際、櫻内義雄衆議院議長が「憲法第7条により衆議院を解散する」と解散詔書を朗読した時、野党から「第69条ではないのか」と野次が飛んだ[注釈 2]。朗読のあと、真っ先に「7条じゃないぞ!」と叫んだのは上田哲である(自著で紹介されている)。騒然とする議場は、通例として行われる万歳三唱のタイミングを逸し、まとまった万歳がないまま前議員たちが退場する異例の幕切れとなった。

解散後、武村正義田中秀征ら若手議員10人(うち武村、田中を含む8人は不信任案に反対票を投じていた)が、自民党を離党して新党さきがけを結成した。羽田・小沢らは当初自民党を離党する気はなく、党内で改革運動を行うつもりであり、一連の不信任騒動を巡って逆に執行部を懲罰にかけるといった作戦を練っていたが、不信任に反対した武村らまでが離党したことにより方針を転換し、自民党を離党して新生党を結成した。自民党は過半数を大きく割り込んだ状況の中で第40回衆議院議員総選挙を迎えた。

政治改革法案を巡って意見が対立した自民党総務会では、若手議員が議事妨害を企みピケを張る中、「人柱」役を買って出て総務会メンバーを中に入れようとした浜田幸一が実力を行使してピケ破りを図り、躓いて「この人殺しが」と叫ぶシーンがよくテレビで放映された。

「嘘つき解散」という名称がどのような経緯で誕生したのかは不明であるが、解散当日に放送されたテレビ朝日の『ニュースステーション』ではキャスターの久米宏が使用している。また、同日に公明党の神崎武法国対委員長が「首相がこの国会で必ず『改革を実現する』と言ってきたのに、やらなかったのだから、嘘つき解散だ」と批判している[5]

なお、2024年現在最後の内閣不信任決議案可決に伴う衆議院解散である。

年表

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以下、日付はいずれも1993年。

  • 6月14日 - 宮澤が自民党執行部の意向をうけて、開会中の第126通常国会での政治改革関連法案の成立を断念。
  • 6月17日 - 社会党、公明党、民社党が内閣不信任決議案を提出。自民党羽田派が不信任決議案に賛成の意向を表明。
  • 6月18日
    • 昼頃から宮澤と羽田や櫻内との会談がもたれ、不信任を回避しようと協議されたものの不調。
    • 18:30 衆議院本会議が開会し、内閣不信任決議案が賛成255、反対220で可決。本会議は休憩に。
    • 20:30 臨時閣議を開き、衆議院の解散を決定。船田経済企画庁長官、中島科学技術庁長官が辞任したため、宮澤がこれらを兼任。
    • 22:00 衆議院本会議が再開。
    • 22:04 解散詔書が朗読され、日本国憲法第7条により衆議院が解散。
    • 不信任決議案が可決された直後、武村、鳩山由紀夫田中秀征ら10人は梶山静六幹事長に離党届を提出[6]
  • 6月21日 - 離党した10人により新党さきがけが結成される。
  • 6月25日 - 羽田らが新生党を結成。
  • 7月18日 - 衆議院議員総選挙。自民党は過半数を回復できず。新生党、新党さきがけ及び前年に細川護煕が結成した日本新党保守3新党が躍進した。社会党は歴史的大敗。
  • 7月29日 - 新生党の小沢代表幹事が提唱した非自民・非共産連立政権が合意し首相統一指名候補を細川とすることで一致。
  • 7月30日 - 宮澤総裁の辞意表明で行われた自民党総裁選河野洋平渡邉美智雄を破り当選。
  • 8月5日 - 第127特別国会が召集。衆議院議長に土井たか子を選出。細川が首相に指名される。
  • 8月9日 - 細川内閣が成立。 55年体制が崩壊し38年ぶりの政権交代が実現。

自民党議員の動向

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※カッコ内に不信任案への賛否を示す。

離党、新生党に参加

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離党、新党さきがけに参加

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その他の離党者

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不信任案に賛成・欠席したが自民党に残留した議員

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脚注

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注釈

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  1. ^ 議案提出者は山花貞夫石田幸四郎大内啓伍赤松広隆市川雄一米沢隆村山富市神崎武法神田厚の7名。議案趣旨説明は山花、討論は反対の立場から関谷勝嗣、賛成の立場から佐藤観樹渡部一郎川端達夫金子満広が行った。ただし、日本共産党は不信任決議案には賛成の立場ではあるが、自民党による小選挙区導入などの選挙制度「改悪」には、社公民三党もまた宮澤内閣と同様の責任があると糾弾している[4]
  2. ^ 日本国憲法下での解散としては初の第2次吉田内閣の解散を除き、あとの3回(第4次吉田内閣第2次大平内閣、宮澤内閣)について、内閣不信任可決を受けた解散でも「第7条により衆議院を解散する」と読み上げるのが慣例となっている。

出典

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  1. ^ 朝日新聞』1993年6月23日 朝刊 3社 「何て呼ぼう? 命名乱立、今度の衆院解散(メディア)」
  2. ^ 読売新聞』2003年10月12日 東京朝刊 解説 13頁 「総選挙は与党常勝? 政権交代、わずか2例(解説)」
  3. ^ 『読売新聞』1993年06月19日 東京朝刊 三面 03頁 「[社説]政治の危機を示す“自爆解散”」
  4. ^ 第126回 衆議院 本会議 第34号 平成5年6月18日 - 国会会議録検索システム
  5. ^ 『朝日新聞』1993年06月18日 夕刊 2総 「野党、宮沢首相の政治責任をさらに追及 衆院解散・総選挙で」
  6. ^ 「朝日新聞」1993年6月19日。

関連項目

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外部リンク

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