インペロ (戦艦)
![]() 1939年、進水するインペロ | |
艦歴 | |
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発注: | |
起工: | 1938年5月14日 |
進水: | 1939年11月15日 |
就役: | 未就役 |
退役: | |
その後: | 1949年から解体 |
除籍: | |
性能諸元 | |
排水量: | 46,215トン(計画) |
全長: | 227.5 - 240.7 m |
全幅: | 32.9 m |
吃水: | |
機関: | |
最大速: | |
兵員: | 1,920名(計画) |
兵装: |
インペロ (Impero) は、イタリア海軍が戦間期に建造を開始した超弩級戦艦[1][2]。いわゆる高速戦艦である(Nave da battaglia veloce)[注釈 1]。 ヴィットリオ・ヴェネト級(リットリオ級)[4]戦艦[5]。 同級の3番艦であり[6][注釈 2]、艦名はイタリア語で帝国を意味する単語である。1939年11月中旬に進水[9]。翌年にイタリアの参戦を迎えたあと造船所を転々として建造は遅滞し[10]、イタリアの降伏までに完成しなかった[11]。ナチス・ドイツのイタリア進駐によりドイツ軍に鹵獲されたあと、標的艦として使用された[12]。第二次世界大戦の終結後、浮揚されて解体された。
艦歴
編集1930年代中盤以降、列強国の間で主力艦をめぐる建艦競争が激化していた[13][注釈 3]。 イタリア王立海軍(Regia Marina)の新世代戦艦(公称35,000トン、15インチ砲9門、速力30ノット以上)は[15]、「リットリオ」が1934年10月28日にジェノヴァのアンサルド造船所で[16]、「ヴィットリオ・ヴェネト」がトリエステの造船所で同日付で起工した[17]。だが進水したのは2隻とも1937年中盤だった[18]。 同級の3番艦と4番艦は[19]、先行艦2隻と比較すると各所に相違がある[20]。この3番艦と4番艦は、1938年1月に建造が公表された[21][22]。
インペロは、ジェノヴァのアンサルド社で[23]、1938年5月14日にベニート・ムッソリーニ伊首相(旗艦コンテ・ディ・カブール)も参列して起工式をおこなう[24]。インペロとローマは1941年末の竣工を予定していたという[25][26]。 アンサルド社は進水を1939年10月15日としていた[27]。だがローマ進軍の日(ファシスト記念日)にあたる10月18日に延期された[28]。さらに悪天候のため延期され[27]、1939年11月15日になって進水した[注釈 4][注釈 5]。
1940年になりイタリア王国が枢軸国として第二次世界大戦に参戦する時期が迫ると、ジェノバは攻撃を受ける危険があることから、トリエステへ移してインペロの艤装を行うことが決定された[27][注釈 6]。出発は1940年5月31日の予定であったが天候不良のため24時間延期され、6月1日にインペロは曳航されトリエステへ向け出発した[27]。だが、イタリア参戦の予定日までにトリエステにたどり着けないことから、途中で目的地がブリンディジに変更され、6月9日に到着した[31]。その後、ブリンディジで自力航行が可能なようにしてからトリエステへ移すことが決定された[32]。
1942年1月22日、インペロはブリンディジを離れ、自力でまずドック入りするためヴェネチアへ向かった[33]。ヴェネチアには翌日到着したが、インペロ建造の優先順位が最低とされたことから、10ヶ月間ヴェネチアにとどまることになった[34]。1942年11月15日にヴェネチアからトリエステへ移ったが、工事の進みは遅く、連合国軍のイタリア本土への侵攻が迫ると1943年4月4日にインペロの工事も中断された[35]。その時点での完成度は船体が88パーセント、機関が76パーセント、艤装は28パーセントであった[35]。
1943年9月上旬、イタリアが連合国と休戦すると、リットリオ級戦艦を含めたイタリア艦隊主力艦艇は連合国に降伏するためマルタなどへ移動し[36]、建造中の本艦や、修理中の艦艇がイタリア本土に取り残された[37][注釈 7]。 9月9日、インペロは進駐してきたナチス・ドイツの手に渡った[38]。ドイツ軍はインペロの装備品を取り外し、また船体を爆薬の試験に用いた[38]。1945年2月20日には空襲で損傷した[38]。トリエステを放棄する際、ドイツ軍はインペロの船体に爆薬をしかけ、それによりインペロは着底した[38]。
戦後の1946年7月にインペロは港のスペースを空けるため、一度引き揚げられて移動させられた[38]。1947年3月27日には除籍され、「C320」と言う名称が与えられた[38]。元インペロの船体は1947年9月に再び浮揚され、解体のため曳航されて9月14日にヴェネチアへ向け出発する[39]。9月15日に到着したが入港時に何度も座礁し、航路をふさぎそうになったため航路外に座礁させられて動かないようにされ、そのまま1年以上放置された[40]。1949年に引き揚げられ、解体された[41]。
インペロが計画通り完成していた場合、同級の3隻に比べ全長、排水量共に最大となるはずであった[要出典]。
出典
編集注
編集- ^ 第一章 主力艦(中略)[3] 上記各海軍國の新型戰艦を表示すれば第一表の如し。第一表 新型戰艦〔 伊|リトリオ ビトリオ・ベネト ローマ インペロ|三五,〇〇〇|三〇|一五〇,〇〇〇|一五吋砲九門 六吋一二門 三.五吋高角一二門 機銃四〇門|(リットリオ)三四.一〇/(ベネト)三四.一〇/(ローマ)三八.九/(インペロ)三八.三|(リットリオ、ベネト)四〇 〕
- ^ 姉妹艦のローマを3番艦[7]、インペロを4番艦とする資料もある[8]。
- ^ 伊海軍の現有勢力[14]【ローマ三十日發國通】(中略)一、主力艦リツトリオ號、ヴイツトリオ・ベニート號(三萬五千噸級一九三四年着工)の兩艦は近く竣工、ドリオ號、ドウイリオ號(改装中の二萬六千噸級主力艦)も近く進水ローマ號、イムペロ號(リツトリオ號姉妹艦)は一九四一年末竣工の豫定、かくしてイタリー海軍は四隻の最新艦、二隻の改装艦なる六主力艦を所有することゝならう(記事おわり)/四萬噸級主力艦二隻を建造 英・日獨伊三國に對抗【東京特電三十一日發】ロンドン來電=英國政府は愈々四萬トン十六インチ砲の新主力艦「ライオン」「テメレーヤ」の建造に着手する事になつたが消息通の間では左の如く觀測してゐる 英國海軍の建造中若しくは建造計畫中の主力艦は三萬五千トン級五隻、四萬トン級四隻で戰時に於て自治領、植民地との連絡確保のため英國海軍は二ツの主力艦隊を保有する必要あり、從つて右の他に更に主力艦の建造を急ぐことゝならう 而して日獨伊三國の建艦計畫に對處するため右計畫中の「キングジョージ五世」型三萬五千噸級五隻の建造を特に急ぐことにならう(記事おわり)
- ^ (四)伊國の主力艦[6] 三五,〇〇〇噸リットリオ級の新主力艦四隻中二隻は一九三四年十月に起工され、五ヶ年後の一九三九年十一月に公試運轉を施行された。その結果は總馬力一三〇,〇〇〇に對し速力三〇節以上を得たと傳へられる。この級の殘りの二艦は前二艦と異なりその工程比較的急速なる進捗を爲し、第三艦イムペロは一九三九年十一月十五日ゼノアのセストリ・ボネンテに於けるアンサルド造船所にて造船臺上に在ること僅か十八ヶ月の後進水した。第四艦ローマは一九四〇年六月に進水したる筈である。(以下略)
- ^ 伊新主力艦進水[29](十五日ローマ發ルーター)イタリー海軍の新鋭三萬五千トン主力艦インペロ號は十五日ゼノアに近いアンサルト港で進水式を擧行した(記事おわり)
- ^ 実際に、連合国の艦隊によるジェノバへの艦砲射撃は二度実施された。1940年6月14日にフランス海軍が敢行したヴァード作戦と、1941年2月9日にイギリス海軍が敢行したグロッグ作戦である[30]。
- ^ 建造中の艦艇は本艦や空母「アクィラ」「スパルヴィエロ」、修理中の艦艇は戦艦「カブール」、重巡「ゴリツァ」や「ボルツァーノ」など。
脚注
編集- ^ Hoji Shinbun Digital Collection、Burajiru Jihō, 1939.06.01、p.2、2023年5月21日閲覧 面目一新の伊海軍界 超弩級建艦着々遂行 海軍次官建艦方針を【羅馬卅日同盟】
- ^ 「同盟旬報第2巻第01号(通号020号)昭和13年1月20日作成、同盟通信社」 アジア歴史資料センター Ref.M23070004000 、p.58〔 イタリア ☆國防/大海軍計畫發表/完成後の海軍陣容/新主力艦建造に着手 〕
- ^ 海軍要覧、昭和16年版 1941, p. 73原本69頁
- ^ 海軍要覧、昭和16年版 1941, p. 75(原本72頁)第二圖 新型戰艦ノ圖(其ノ二) 伊.LITTORIO級(四隻)
- ^ 海軍要覧、昭和16年版 1941, p. 53原本53頁
- ^ a b 海軍要覧、昭和16年版 1941, p. 80原本80-81頁
- ^ 丸、写真集世界の戦艦 1977, p. 8.
- ^ ジョーダン、戦艦 1988, pp. 86–89イタリア リットリオ級
- ^ 「同盟旬報第3巻第32号(通号087号)昭和14年11月30日作成、同盟通信社」 アジア歴史資料センター Ref.M23070017400 、p.101〔 イタリア/新巡洋戰艦進水 ローマ【一一.一五】イタリア政府は十五日午前イタリア海軍の新鋭巡洋戰艦インぺーロ號(三五、〇〇〇噸)が無事進水式を終了せる旨發表した 〕
- ^ 丸、写真集世界の戦艦 1977, p. 76aインペロ
- ^ ジョーダン、戦艦 1988, p. 89.
- ^ 丸、写真集世界の戦艦 1977, p. 174.
- ^ 海軍要覧、昭和14年版 1939, p. 112原本130-131頁
- ^ Hoji Shinbun Digital Collection、Manshū Nichinichi Shinbun, 1939.06.01、p.1、2023年5月21日閲覧
- ^ 海軍要覧、昭和14年版 1939, p. 69(原本48)第五節、伊太利/二、建艦状況
- ^ 丸、写真集世界の戦艦 1977, p. 63.
- ^ 丸、写真集世界の戦艦 1977, p. 57.
- ^ 海軍要覧、昭和14年版 1939, p. 114原本135頁
- ^ 伊太利陸海空軍充実計画 1938, p. 44原本76-77頁
- ^ 丸、写真集世界の戦艦 1977, pp. 70–74ローマ
- ^ Hoji Shinbun Digital Collection、Manshū Nichinichi Shinbun, 1938.01.09 Edition 02、p.1、2023年5月21日閲覧 伊の建艦計畫 政府、コンミュニケ發表【ローマ七日發國通】
- ^ 「Shin Sekai Nichinichi Shinbun, 1938.01.09、新世界朝日新聞/nws_19380109(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022229200 、p.1〔 伊太利「大海軍」へ突進 三万五千トンの主力艦二隻 巡洋艦十二隻等建造を發表/伊の地中海上制覇へ 英佛關心甚大 〕
- ^ The Littorio Class, p.46
- ^ 「同盟旬報第2巻第14号(通号033号)昭和13年5月30日作成、同盟通信社」 アジア歴史資料センター Ref.M23070006600 、pp.58,75-76〔 ム首相ゼノアで大演説 〕
- ^ 「同盟旬報第3巻第15号(通号070号)昭和14年6月10日作成、同盟通信社」 アジア歴史資料センター Ref.M23070014000 、p.92〔 伊海軍勢力全貌 〕
- ^ 「Shin Sekai Nichinichi Shinbun, 1939.06.01、新世界朝日新聞/nws_19390601(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022328800 、p.1〔 伊國の軍備愈々充實 海軍、間もなく六主力艦を保有 〕
- ^ a b c d The Littorio Class, p.154
- ^ 「同盟旬報第3巻第30号(通号085号)昭和14年11月10日作成、同盟通信社」 アジア歴史資料センター Ref.M23070017000 、p.133〔 ファシスト記念日に新主力艦進水 〕
- ^ Hoji Shinbun Digital Collection、Singapōru Nippõ, 1939.11.16、p.2、2023年5月21日閲覧
- ^ 列強の臨戦態勢 1941, p. 129(原本234-235頁)第二四、哨戒を怠りゼノア砲撃を受く
- ^ The Littorio Class, p.155
- ^ The Littorio Class. p.156
- ^ The Littorio Class, p.157
- ^ The Littorio Class, p.158
- ^ a b The Littorio Class, p.159
- ^ “卅二隻の伊艦隊 逃亡降服 目下マルタで待機中”. Yuta Nippō, 1943.09.13. pp. 03. 2024年12月22日閲覧。
- ^ “伊艦隊復歸を希望”. Manshū Nichinichi Shinbun, 1943.09.16. pp. 01. 2024年12月22日閲覧。
- ^ a b c d e f The Littorio Class, p.160
- ^ The Littorio Class, pp.160-161
- ^ The Littorio Class, pp.162-163
- ^ The Littorio Class, p.163
- ^ 瀬名堯彦、『仏独伊 幻の空母建造計画 知られざる欧州三国海軍の画策』、潮書房光人社、2016年、ISBN 978-4-7698-2935-5、287ページ
参考文献
編集- ジョン・ジョーダン『戦艦 AN ILLUSTRATED GUIDE TO BATTLESHIPS AND BATTLECRUISERS』石橋孝夫(訳)、株式会社ホビージャパン〈イラストレイテッド・ガイド6〉、1988年11月。ISBN 4-938461-35-8。
- 月間雑誌「丸」編集部編『丸季刊 全特集 写真集 世界の戦艦 仏伊ソ、ほか10ヶ国の戦艦のすべて THE MARU GRAPHIC SUMMER 1977』株式会社潮書房〈丸 Graphic・Quarterly 第29号〉、1977年7月。
- Erminio Bagnasco, Augusto de Toro, The Littorio Class: Italy's Last and Largest Battleships 1937-1948, Seaforth Publishing, 2011, ISBN 978-1-84832-105-2
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 財團法人海軍有終會 編「第二篇 海軍艦船」『海軍要覧 昭和十四年版』有終会、1939年6月 。
- 財團法人海軍有終會 編「第一篇 軍備/第二章 列國の造艦政策と建艦現状」『昭和十六年版 海軍要覧』海軍有終会、1941年8月 。
- 外務省調査部「第四章 海軍」『伊太利陸海空軍充実計画及仮想敵国との比較並に戦争の勝敗に関する結論的考察 (調 ; 第151号. 防共協定国国情調査 ; 第5号)』外務省調査部、1938年12月 。
- 中外商業新報政治部 編「第四章 今次大戦に於ける海戦の様相」『烈強の臨戦態勢 経済力より見たる抗戦力』東洋経済新報社、1941年12月 。
外部リンク
編集- Impero本艦の写真とスペックがあるページ。(イタリア語)