パラオ
- パラオ共和国
- Beluu er a Belau (パラオ語)
Republic of Palau (英語) -
(国旗) (国章) - 国の標語:Rainbow's End
- 国歌:我等がパラオ
-
公用語 パラオ語、英語
- 州独自の公用語
首都 マルキョク(首都機能は市内にあるンゲルルムッド) 最大の都市 コロール 通貨 アメリカ合衆国ドル(USD) 時間帯 UTC+9 (DST:なし) ISO 3166-1 PW / PLW ccTLD .pw 国際電話番号 680
パラオ共和国(パラオきょうわこく、パラオ語: Beluu ęr a Belau、英: Republic of Palau、通称パラオは、太平洋に位置し、フィリピンの東方にあるミクロネシア地域の島々からなる共和制国家。首都はマルキョク。2006年10月7日にコロールから遷都した。
国名
編集正式名称はパラオ語で Beluu er a Belau。公式の英語表記は、Republic of Palau。通称、Palau。日本語表記は「パラオ共和国」。漢字表記では「帛琉」と書き「帛」と略す。現地ではべラウと呼ぶこともある。国名の由来は、マレー語で「島」を意味する「Pulau」である[6][7]。
国旗
編集国旗のデザインは海を表す青地に月を表す黄色い丸が配置されている。日本の国旗である日の丸が元となっている説もあるが、パラオの国旗の発案者のジョン・ブラウ・スキーボング(John Blau Skebong)は「私はもちろん日の丸を知っているが、特別にそれを意識してデザインしたわけではない」と否定している[8]。
歴史
編集有史以前
編集有史以前のパラオについては未解明の状況であるが、国内に多く残る遺跡などを研究した結果、約4000年前から人が住んでいたと推定されている。
スペインの植民地
編集16世紀ごろから、海軍の進歩によりミクロネシア諸島にヨーロッパ人が訪れるようになった。最初にこの地を踏んだのはスペイン人で、次いでポルトガル人やイギリス人がやってきたとされる。1885年にパラオはスペイン領東インド(Indias Orientales Españolas)の一部となった。これらのヨーロッパ人の来訪により天然痘が流入したほか、彼らの現地人に対する搾取が原因で、パラオの人口は約98%減少したとされる。
ドイツの植民地
編集1899年、国力が衰退の一途を辿っていたスペインは、ドイツ・スペイン条約によって、グアムを除くスペイン領東インドを450万ドルでドイツ帝国に売却した。パラオもこれに含まれ、これ以降ドイツ領ニューギニア(Deutsch-Neuguinea)の一部となった。
ドイツはパラオでココナッツ、タピオカ栽培、アンガウルにおけるリン鉱石採掘などの産業振興を行った[9]。しかし、遠く離れたドイツから送られる人員はほとんどないにもかかわらず、パラオがもたらす富はドイツ人に独占された。貨幣経済の一般市民への浸透もままならず、それどころか他のドイツの植民地と同様に道路や水道などのインフラ整備や、現地人への初等教育すらほとんど行われなかった[10]。実際に、スペインや日本時代の遺構や遺跡は数多く残されているものの、ドイツ時代の遺構や遺跡などはほとんど残されていない。
1914年に第一次世界大戦が開始されると、当時締結されていた日英同盟により、イギリスやフランスなどと同じ連合国の一員として、ドイツに対して宣戦を布告した日本が海軍を派遣し、ドイツ守備隊を降伏させてパラオ島を占領下に置いた。
日本の植民地
編集1919年、第一次世界大戦の戦後処理をするパリ講和会議によって、パラオは日本の委任統治領(実質的な植民地)になった[11]。コロールには南洋庁および南洋庁西部支庁(パラオ支庁)が置かれ、パラオは周辺諸島の中核的な島となり、多くの日本人が移住した。パラオ支庁管内の住民の4人に3人は日本人となった。軍人を除く1943年6月末時点の居住者33,960人の内訳は、内地人(内地出身日本人)25,026人、朝鮮人(朝鮮半島出身日本人)2,460人、パラオ人先住民6,474人、他にスペイン人・ドイツ人宣教師18人。
日本の統治が始まってからは、ドイツの統治下ではほとんど進んでいなかった電気や水道、学校や病院、道路や公的施設など社会的基盤の整備、貨幣経済への移行が重点的に行われた。これにより1920年代ごろになるとコロールは近代的な町並みへとその姿を変貌させた。元駐日大使のミノル・ウエキによれば、日本はパラオでは積極的な日本化をおこなわず、教育や医療、経済といった、社会基盤の整備に努めた[12]。
また、日本統治の開始に伴い日本語による学校教育が現地人に対しても行われるようになった。ただし、本科3年・補習科2年の課程であり、日本人子弟とは学校が別だった(公学校)。現地用の教科書編纂のため、南洋庁の書記として赴任していた中島敦は個人的感想として、原始的に暮らしている現地住民に近代的な高等教育を施すことへの疑問の手紙を家族に送っているが[13]、基礎的な日本語がわからないうちに日本歴史、地理、理科などを教えるのは島民児童や教員への負担が大きく困難だとして、民政時代には3科目を省くなどパラオの実態を考え、変更を重ねた[9]。
日本は1933年(昭和8年)に国際連盟から脱退したが、統治委任はパリ講和会議によるものであることから、国際連盟の加盟諸国も日本による統治の継続を認めたために委任統治を続けた。なお、国際連盟からの脱退により、国際連盟の「委任統治領に軍事施設を建設してはならない」という規則の制約から逃れた日本は、各地に海軍の関連施設を建設した。
民間の大日本航空が設立されると、1940年(昭和15年)3月6日、海外路線として横浜 - サイパン - パラオの間に九七式飛行艇を使用した民間航空路が開設された[14]。更に1941年(昭和16年)1月9日からはパラオを起点として南洋島内を結ぶ空路が開設された[15]ほか、同年10月以降にはパラオと東ティモール(当時ポルトガル領)間に空路が開設された[16]。
第二次世界大戦(太平洋戦争)が始まると、コロールは海軍の重要な基地として北西太平洋方面の作戦拠点となった。そのため、西方のフィリピン戦線の状況と連動して連合軍の攻撃対象となり、1944年(昭和19年)にはペリリューの戦いなどで両軍に多くの戦死者を出した。なお、ペリリュー島の戦いではパラオ民間人の死者はなかった[17]。しかし、日本国籍を持たない現地人であっても、本人の事前の了承を受けてパラオ挺身隊などに軍属として動員されることがあった。
1945年(昭和20年)8月の連合国に対するポツダム宣言受諾に伴う日本の降伏により、日本の統治が終了したものの、現在でも非常に親日的でかつ多くの日本人観光客が訪れている上、アメリカからの援助額を超え、日本から最も多くの経済援助を受けている(2017年)[18][注釈 2]。
アメリカの信託統治
編集戦争終結後の1947年に、アメリカが施政権者である太平洋諸島信託統治領の一部となった。アメリカはミクロネシア地域には動物園政策をとり、教育や福祉健康には援助を行ったが、日本とは違い産業開発にはほとんど投資を行わなかった[10]。
アメリカ統治の開始にともない、今度はアメリカ英語による教育が住民に対して行われるようになった。パラオ住民は一部かつ英語によるものではあるものの、引き続き高等教育も受けることが出来るようになった反面、上記のように日本と違い産業開発は行われず、経済はアメリカの援助に依存し、パラオ人は農業などの肉体労働に就くのを嫌がるようになり、かつてアメリカの植民地支配下にあったフィリピンからの出稼ぎ労働者が担うようになった。
食料がアメリカによって豊富に供給されたことにより、蛋白源が伝統的な魚介類から輸入肉製品中心となり、肥満の問題も発生している。また、高等教育を受けた若者は、アメリカの教育の影響を受けて統治国のアメリカやグアムでの就職を希望する者が多く、パラオの人口動態は流動的なものとなって把握が難しくなった。アメリカによる教育の「成果」は、後述するパラオ憲法の非核条項をめぐるコンパクトの国民投票において、アメリカ側の軍事的利益に反する結果をたびたび出したことにも現れている。
独立への動き
編集1979年7月には、アメリカによる核兵器の持ち込みを禁止した「非核憲法」を住民投票で可決したが、アメリカの意向を受けた信託統治領高等裁判所が無効を宣言した。10月、非核条項を緩和した憲法草案で再び住民投票を行ったが、今度は否決された。しかし1980年7月に、1年前と同じ内容(修正前)の草案での住民投票で可決された。
1981年に、自治政府の「パラオ共和国」を発足させ、憲法を発布した。翌1982年に、内政・外交権はパラオが、安全保障はアメリカ合衆国が担うものとし、アメリカ軍が駐留することになった。その見返りとしてアメリカが財政援助をする自由連合盟約(コンパクト)の内容に関して両政府が合意した。だが翌年行われた住民投票でコンパクトは否決され、これ以降、1990年まで都合7回の住民投票が行われたが全て否決された。
独立
編集1990年代初頭の冷戦終結を受けて、アメリカにとってパラオの利用価値がなくなった後の1992年に行われた住民投票で、憲法内の非核条項をアメリカとの自由連合協定においてのみ凍結することが決まり、コンパクト承認のための住民投票の可決条件を緩和(75%から50%へ)する憲法改正のための住民投票が行われ、これが可決された。また、同時に行われた大統領選挙でクニオ・ナカムラが当選した。
1993年には、緩和された可決条件の下、8回目の住民投票でアメリカ合衆国とのコンパクトが承認された。これにより、1994年10月1日に、コンパクトによる自由連合盟約国として独立し、国連による信託統治が終了した。同年に国際連合へも加盟した。信託統治領としては最後の独立となる。
現在でもパラオ国会では日系の政治家が強い影響力を持つなど、日本と歴史的に密接な繋がりを持つ国である。
地理
編集パラオを構成する島は386であるが、実際に人が住んでいる島は9つのみである[19]。首都マルキョクやロマン・トメトゥチェル国際空港のあるバベルダオブ島と旧首都のあるコロール島とは橋で結ばれている。コロール島とペリリュー島の間にあるロックアイランドは、2012年7月に世界遺産に登録された。
地方行政区分
編集パラオは、16の行政区域に分かれている。
州内の自治は州政府(州知事が首長)によっておこなわれるが、伝統的な酋長制度も並存している。パラオには州単位の酋長で構成される酋長協議会がある。
気候
編集全域が熱帯雨林気候(Af)であり、年平均気温は27℃と温暖である。また、スコールなど通年で雨が多いが、特に7月と10月の雨量が多い。年間雨量は3,800mmになり、平均湿度は82%である。台風の襲来はほぼない。
標準時
編集全土でパラオ時間 (Palau Time, PWT) が施行されている。UTC+9で、日本標準時 (JST) との間に時差はない。
政治
編集パラオは任期4年の大統領制をとり、議会は二院制の国民議会(下院16名、上院13名。任期4年)である[20]。独立時にアメリカ合衆国と自由連合盟約を締結しており、安全保障並びに外交上の権限の一部をアメリカ合衆国が保持している。そのため自国軍隊は保持していない。また、この盟約に基づき一部のパラオ国民はアメリカ軍人として採用されている。
今日の政治課題として、アメリカの経済援助が2025年に終了することによる財政の自立化や、世界に広まったCOVID-19以降減少した観光客の誘致などが挙げられている。
2023年、世界銀行は太平洋諸国の過剰債務のリスクを検討。他国が2019年以降、COVID-19対策で政府支出を拡大して債務を増やす中、パラオの債務に関しては持続可能という判断を示した[21]。
国際関係
編集日本との関係
編集- 2003年現在、日本や台湾(中華民国)、アメリカ、フィリピンを含む29ヶ国と外交関係を樹立しているが、その中でも旧統治国である日本やアメリカとの関係を重視している。中華民国と対立関係にある中華人民共和国とは国交がない。
- 1996年に崩落したKBブリッジの再建を始めとした多くの援助が日本によってなされているなど、パラオと日本の関係は国際連盟の委任統治時代以降も深い。
- 三重県はナカムラ元大統領の父が三重県伊勢市の出身であった縁で、1996年以降友好提携関係にある。また旧首都コロールは現在東京都と姉妹都市になるべく交渉中である。
- コロール島の旧官幣大社南洋神社やペリリュー島のペリリュー神社(南興神社)、アンガウル神社が、1980年代以降に日本からの資金により再建された。また、日本からの遺骨収集団や慰霊団も度々訪れている。
- 現在でも日本や日本語に親しみを持ち、子供に日本風の名前をつけるパラオ人も多い。パラオ語には多くの日本語の言葉が取り入れられており、また、パラオにある唯一の公立高校では、1964年から選択科目として日本語を取り入れている。さらに、アンガウル州では州の公用語の一つとして採用されている。
- 第7代大統領のトミー・レメンゲサウは、2005年7月の来日前に行われた会見で当時の小泉首相の靖国神社参拝について「すべての人のために祈るのは正しいことだ」と支持を表明した。また、第6代大統領クニオ・ナカムラの代理人が靖国神社に参拝した。
- 一方でクニオ・ナカムラは「南洋」という言葉が旧植民地宗主国の主観に基づくものとして「われわれの国々を“南太平洋”と呼ぶのもけっして適当とはいえない。“太平洋諸国”といってほしい。“南”は不要です」と発言している[22]。なお、パラオは北半球に位置する。
- 2021年、他のミクロネシア圏の4カ国とともに太平洋諸島フォーラムからの離脱を表明[23]。
- 2022年2月、中台関係問題に関する不満から、2021年2月に始まった太平洋諸島フォーラムからの脱退手続きを停止し、2022年7月に脱退を撤回した[24]。
天皇・皇后の訪問
編集2015年4月8日から9日にかけて、日本から明仁天皇、美智子皇后(いずれも当時)が国際親善と戦没者慰霊のため訪問した[25]。
明仁天皇は長年、パラオを含む西太平洋地域での戦没者の慰霊を強く希望しており、慰霊に際してはパラオのトミー・レメンゲサウ大統領夫妻のほか、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島の大統領夫妻も同席することとなった[26]。天皇の訪問はパラオの報道で大きく取り上げられ、歓迎ムードのなか、天皇を迎えるにあたって道路の整備が行われ、道路脇などにはいくつもの日の丸が掲揚された[25][27]。
この訪問に際し、パラオ人に行われたインタビューでは「日本との交流は素晴らしかったので年配の人たちは日本と交流したい気持ちである」との声や「パラオ人も嬉しいが一番嬉しいのは同地での戦没者であろう」との声が寄せられた[25]。9日、供花のために訪れるペリリュー島では、学校、職場が休日となり全島民600人で天皇皇后を出迎えることとなり[25]、ペリリュー州は4月9日を「天皇皇后両陛下ご訪問の日」として州の祝日に法律で制定した[28]。
この訪問後、観光でペリリュー島に訪れる日本人が増加している[29]。
経済
編集IMFの統計によると、2013年のGDPは2億4,600万ドルである。一人当たりのGDPは14,022ドルで、世界平均を30%ほど上回る[5]。漁業とココナッツなどの農業、観光が主産業で、歳入のほとんどがアメリカ合衆国からの無償援助である。公務員の削減による緊縮財政政策や、観光や軽工業の振興を奨励している。
パラオの貿易収支は大幅な貿易赤字である。2000年時点で輸出1,800万ドルに対して、輸入は9,600万ドルに達する。主な輸出品は、全輸出金額の7割を占めるマグロ、次いでココヤシを加工した農業生産物のコプラ、わずかな手工芸品などである。日本への輸出品は2003年時点でマグロ (98.6%) が大半を占め、航空貨物による輸出も頻繁に行われている。
主な輸入品は、各種機械 (24.2%)、各種原料 (19.0%)、食料品 (15.2%)、各種製品 (13.3%)、原油 (10.4%) である。輸入元はアメリカ合衆国 (39.3%)、グアム (14.0%)、日本 (10.2%)、シンガポール (7.7%)、大韓民国 (6.4%) である。
火力発電所はアメリカの統治時代に建設されたものが1か所しかない。フィリピン人労働者で維持されている。パラオ人の多くは公務員であり、その他もホワイトカラー指向であり、教員や看護師などの専門技能を持つ人たちは、給与格差などの理由で1990年代にサイパンへ移住した人も多い。
観光
編集温暖な気候と美しい海を求めた日本や台湾などの近隣諸国からの観光客が多く、それらのための大規模なリゾートホテルが数多く運営している。1990年代まで、日本航空の関連会社が経営する「ホテル・ニッコー・パラオ」が存在したが、老朽化や台風被害の影響で2002年に閉館、その後2005年に同じJALホテルズ(現・オークラ ニッコー ホテルマネジメント)運営の「パラオ・ロイヤル・リゾート」が開業した(所有は台湾企業)。また、東急不動産の関連会社パシフィック・アイランズ・デベロップメント・コーポレーションが「パラオ・パシフィック・リゾート(1984年開業)」を運営している。
また、美しい海やサンゴ礁と合わせて、第二次世界大戦時に沈んだ船舶や航空機を売りにしたスクーバダイビングも盛んであり、多くのダイビングショップがあるほか、日本などからダイビングツアーも企画されている。本島の近くにも多くの離島があり、元プロレスラーのアントニオ猪木が名誉オーナーの通称「イノキアイランド」という、保護大型シャコガイが多数生息する離島が存在する。
情報・通信
編集パラオの放送局はICTなどがあり、ほかに専門チャンネルなどでNHKやCNNの番組が配信されている。インターネットにおいてはパラオの番組が survivorpw.pw というサイトを開設している。新聞は「パラオ・ホライズン」「ティア・ベラウ」「アイランド・タイム」などがある。
交通
編集国内
編集自動車は右側通行であるが、日本から輸入された右ハンドルの日本製中古車が多く走っている。離島との交通手段には船が使われている他、 数社が小型飛行機やヘリコプターを使って、バベルダオブ島から、ペリリュー島、アンガウル島へ定期便を毎日運航している。鉄道や公共バス運行はないが少数ながらタクシーはある。
主要島であるバベルダオブ島を周回する通称「コンパクト・ロード」が2007年に完成したため、同島内の交通の利便性が高まった。バベルダオブ島とその南の、パラオ最大の都市である旧都コロールがあるコロール島とは、KBブリッジ(Koror-Babeldaob Bridge、正式名称「日本・パラオ友好の橋 (Japan-Palau Friendship Bridge)」)という橋で繋がっている。韓国企業建設による旧KBブリッジは1996年に突然崩落[30]、同時に電気、水道などのライフラインも失われたため、首都機能は麻痺し、パラオは非常事態宣言を発令した。現在の橋はパラオからの求めに応じ[30]、日本が無償援助にて建設、2002年に開通したものである。
コンパクト・ロードを使いレンタカーで島内を巡ることも可能である。なお中心部の殆どの道路は舗装整備されているが、中心部を離れたり離島部に行くと道路が舗装されていないため、スコールが来るとぬかるむので注意が必要である。
国外
編集バベルダオブ島にあるロマン・トメトゥチェル国際空港と、東京/成田国際空港からの直行便がデルタ航空によって運航されていたが、2018年5月5日に廃止された。グアムやマニラの間にユナイテッド航空が、中華航空は台北から、アシアナ航空はソウルから定期便を就航させている。
グアムとの間には1日1便または2便直行便が就航している。また、日本航空なども年に十数回から数十回の直行チャーター便を、日本の三大都市圏である東京/成田国際空港や名古屋/中部国際空港、大阪/関西国際空港から就航させている。成田からの定期国際便は通年運航されているが、乾季となる観光シーズンには週4便ほど運航される時期もあり、年間約3万人を超える日本人観光客が訪れる。
国民
編集人種構成
編集パラオでは、海外へ移住するパラオ人と1990年代初頭から海外からの非パラオ人の移住という二つの現象が起きている。人口の70%程度はパラオ人で、他に1990年代からフィリピン人労働者が多い。人口の半分以上は旧首都コロールに住む。日系パラオ人は全人口の25%を占めるともいわれている[31]。
1970年の人口規模は1万数千人で、海外移住者は2500人以上であったと推定されており、この年以降も数百人規模で海外移住が行われている。特に1972年以降に大規模な海外移住が始まっている[32]。
言語
編集パラオでもっとも使われている言語はパラオ語 (64.7%|公用語) である。次いでフィリピン語 (13.5%)、英語 (9.4%|公用語)、中国語 (5.7%)、カロリン語 (1.5%)、日本語 (1.5%)となっている[33]。
日本統治時代に教育を受けたパラオ人は、日本語で不自由無く意思疎通ができるレベルに達している者が多い。また、パラオ語にはかつての統治国の言語に由来する借用語が多く存在し、日本語に由来する語彙も日常的に用いられている。
宗教
編集主な宗教はキリスト教で、カトリックが41.6%、プロテスタントが28.2%。他にカトリックと伝統宗教が融合した新宗教モデクゲイが8.8%、エホバの証人(166人)、末日聖徒イエス・キリスト教会(124人)や、土着の宗教がある(2000年センサスより)。
文化
編集パラオでは映画やテレビ、ラジオが娯楽の中心であり、「エコパラダイスFM」はエフエム東京(TFM)と日本航空などが協力し設立されたラジオ局で、TFMの一部番組もネットされている。
音楽
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教育
編集外務省によると、義務教育は小学校(1年生から8年生)と高校(1年生から4年生)。卒業後多くの学生が、下記の国内唯一の短大であるパラオ短期大学に進学している。2013年時点で小学校は16校、高校は5校ある[34]。2020年時点では、公立小学校が15校、私立小学校が2校。高校は公立校1校、私立校4校存在している[35]。赤道近くに位置するため、一年を通じて気温は28度前後であり、四季はない代わりに雨期と乾期がある。それゆえ小学校では、夏休みが2ヶ月半と長く、年末年始の休みは10日間、イースター休暇(日本の春頃のお休み)は1日となっている[34]。
ただ、ミノル・ウエキ氏によるとケネディ大統領の時代、アメリカ本土やハワイ、グアムの大学に通う事も可能だったという[12]。
- パラオ地域短期大学(Palau Community College)
世界遺産
編集2023年現在、パラオの世界遺産として登録されているのは、以下の一つだけである[36][37]。
祝祭日
編集日付 | 日本語表記 | 現地語表記 |
---|---|---|
1月1日 | 元日 | New Year's Day |
3月15日 | 青年の日 | Youth Day |
5月5日 | 敬老の日 | Senior Citizens Day |
6月1日 | 大統領の日 | President's Day |
7月9日 | 憲法記念日 | Constitution Day |
9月 第1月曜日 | 労働者の日 | Labor Day |
10月1日 | 独立記念日 | Independence Day |
10月24日 | 国連の日 | United Nation's Day |
11月 最終木曜日 | 感謝祭 | Thanksgiving Day |
12月25日 | クリスマス | Christmas |
スポーツ
編集サッカー
編集パラオ国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、2004年にパラオサッカーリーグが創設された。パラオサッカー協会によって構成されるサッカーパラオ代表は、FIFAワールドカップやOFCネイションズカップには未出場である。
野球
編集1920年代の日本による委任統治時代に持ち込まれ、1927年には日本人との試合が行われた記録がある[38]。かつては人気スポーツであったが、他のスポーツの人気拡大などに伴って人気は低迷している[39]。
実力は周辺諸国の中では抜きん出ており、パシフィックゲームズ野球競技では全ての回でメダルを獲得している[39]。しかしながら、オリンピックやワールド・ベースボール・クラシックには未出場である。
オリンピック
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脚注
編集注釈
編集- ^ 以下は、1973年(昭和48年)12月18日に開催された参議院外務委員会での社会党の田英夫参議院議員の質問。
これはパラオですが、五人の大体五十過ぎの人たちですが、全部日本語で話してくれましたので非常に意思の疎通が早かったわけですが、この人たちは皆日本の軍隊に強制的に徴用され、パラオ挺身隊という名前をつけられてニューギニアに連れていかれた。仲間の多くは現地で死んでいるわけであります。この人たちが口々に訴えましたのは、自分たちの仲間の遺骨はいまだにニューギニアにある。
- ^ 以下は、NPO法人日本パラオ国際交友協会のサイトに掲載されているパラオの第7代・第9代大統領トミー・E・レメンゲサウ・ジュニアからのメッセージとされる文章である。
(第一次世界大戦後から第二次世界大戦)終戦までの日本は、数万人に及ぶ日本人入植者をパラオに送り込み南洋庁を作り、私たちパラオ人のために様々な教育や産業を伝えました。それは後に、パラオ独立のための貴重な原動力となりました。そして現在でもパラオの長老たちは日本のことを「内地」と呼び、世界で最も親日感情が高い国、といっても過言ではないのです。 — 「パラオ大統領からのメッセージ 親愛なる日本の皆様に」、日本パラオ国際交友協会、2018年6月3日閲覧。
NPO法人日本パラオ国際交友協会は、パラオにおいて国際コンベンションセンター、リゾート施設、老人ホーム、ゴルフ場などの大規模開発を謳う オーシャン・デヴェロップメント・カンパニー と同じ代表者である。
出典
編集- ^ “Constitution of the State of Angaur: Angaur, Republic of Palau”. Pacific Digital Library. 2018年7月13日閲覧。
- ^ “Sonsorolese language”. sonsorol.com. 2018年7月13日閲覧。
- ^ a b “The World Factbook/Palau”. 中央情報局 (2018年7月12日). 2018年7月13日閲覧。
- ^ “Palau Population 1950-2020”. macrotrends. 2020年12月8日閲覧。
- ^ a b c d “World Economic Outlook Database, October 2014” (英語). IMF (2014年10月). 2014年10月12日閲覧。
- ^ http://tospa-flags.com/oceania-11.html
- ^ スペイン語で「島々」という説もあるが、スペイン語では「Islas」というため、異説と唱えられている。
- ^ 吹浦忠正 (2010年10月26日). “パラオ国旗の作者との対話”. 吹浦忠正(ユーラシア21研究所理事長)の新・徒然草. 2018年8月18日閲覧。
- ^ a b 森岡純子. “パラオにおける戦前日本語教育とその影響” (PDF). 立命館法学別冊 ことばとそのひろがり (4) 山口幸二教授退職記念論文集: 339頁. 41684195 2007年10月24日閲覧。.
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- ^ 外務省: パラオ共和国 日本国外務省によるパラオの略史
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- ^ 中島敦「書簡I――153 昭和16年11月9日」(ちくま2 1993, p. 468-474)
- ^ 大日本航空が南洋定期航路を開設『東京日日新聞』昭和15年3月6日(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p146 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 南洋島内線空路の第一便が初飛行『朝日新聞』昭和16年1月10日夕刊(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p147)
- ^ パラオ島とチモール島間の空路も開設『朝日新聞』昭和16年10月15日夕刊(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p147)
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- ^ a b c d 両陛下のパラオご訪問を心待ちにしている日系人を取材しました。(15/04/08) FNN 2015年4月8日
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- ^ 待ち受けるパラオでは 現地メディアも大きく報道(15/04/08) ANN 2015年4月8日
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参考文献
編集- 須藤健一監修『パラオ共和国 過去と現在そして21世紀へ』おりじん書房、2003年
- 中島敦『中島敦全集2』ちくま文庫、1993年3月。ISBN 978-4480027528。
関連文献
編集- 坂上澄夫、八田明夫「パラオ諸島の歴史と地質」『地学雑誌』第99巻第3号、東京地学協会、1990年、230-246頁、doi:10.5026/jgeography.99.3_230、ISSN 0022-135X。
関連項目
編集外部リンク
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観光
その他