1971年の西鉄ライオンズでは、1971年の西鉄ライオンズの動向をまとめる。

1971年の西鉄ライオンズ
成績
パシフィック・リーグ6位
38勝84敗8分 勝率.311[1]
本拠地
都市 福岡県福岡市
球場 平和台野球場
球団組織
オーナー 木本元敬
経営母体 西日本鉄道
監督 稲尾和久
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この年の西鉄ライオンズは、稲尾和久監督の2年目のシーズンである。

概要

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前年、黒い霧事件の処分により、主力4選手を永久追放処分で失った西鉄は、4月こそまずまずの成績を残すも5月に成績が低下。同じく黒い霧事件の影響を受けた東映に8ゲームも引き離され、最後は38勝84敗8分の2年連続最下位でシーズンを終えた。なお84敗については、53年後の2024年に91敗を記録し更新するするまで球団ワースト記録だったものの、38勝、ならびに勝率.311はいずれも同年終了時点においてもなお球団ワースト記録のままである。投手陣は前年入団の三輪悟柳田豊をはじめ、河原明東尾修などの若手投手が奮闘するが、打線の援護も乏しく、勝ち越すには至らなかった。打撃陣は後に三塁コーチとして西武の黄金時代に貢献した伊原春樹がこの年入団し、内野の控えとして一軍に定着した。船田和英竹之内雅史東田正義などの主力選手はそれなりの成績を残していたが、黒い霧事件を暴露した主力打者のカール・ボレスが球団と対立し、6月7日付で解雇(任意引退扱い)。アーロン・ポインターも打率一割台の不振で、打線の破壊力は大きく低下した。

シーズン終了後、黒い霧事件に連座していたことを嫌われ、正捕手の村上公康榎本喜八との交換でロッテへ、同じく船田もヤクルトへ移籍する。このことで更なる戦力低下が予想され、西鉄身売りの影がちらつき始める。この年のドラフトで若菜嘉晴が4位指名され入団するが、村上が抜けても捕手陣の層は厚く、一軍入りまでには時間がかかった。

チーム成績

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レギュラーシーズン

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開幕オーダー
1 阿部良男
2 基満男
3 ポインター
4 ボレス
5 船田和英
6 竹之内雅史
7 東田正義
8 村上公康
9 高橋明
1971年パシフィック・リーグ順位変動
順位 4月終了時 5月終了時 6月終了時 7月終了時 8月終了時 最終成績
1位 近鉄 -- 阪急 -- 阪急 -- 阪急 -- 阪急 -- 阪急 --
2位 阪急 0.5 ロッテ 2.5 ロッテ 6.5 ロッテ 1.0 ロッテ 3.5 ロッテ 3.5
3位 西鉄 1.0 近鉄 6.5 近鉄 14.0 近鉄 15.0 近鉄 15.5 近鉄 18.0
4位 南海 1.5 南海 12.0 南海 17.0 南海 14.5 南海 16.5 南海 22.5
5位 ロッテ 2.0 東映 13.5 東映 21.0 東映 24.0 東映 28.0 東映 35.5
6位 東映 7.0 西鉄 西鉄 24.5 西鉄 26.5 西鉄 32.5 西鉄 43.5


1971年パシフィック・リーグ最終成績
順位 球団 勝率
1位 阪急ブレーブス 80 39 11 .672 優勝
2位 ロッテオリオンズ 80 46 4 .635 3.5
3位 近鉄バファローズ 65 60 5 .520 18.0
4位 南海ホークス 61 65 4 .484 22.5
5位 東映フライヤーズ 44 74 12 .373 35.5
6位 西鉄ライオンズ 38 84 8 .311 43.5

[1]

オールスターゲーム1971

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ファン投票 監督推薦
東田正義 基満男

できごと

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  • 8月17日 - 和田博実、対ロッテ戦で小山正明から通算100号本塁打を打つ(代打同点3ラン)。だが1本前の99号は1968年10月18日に打ったもので、100号達成まで22ヶ月もかかったという記録となった。なお、これが和田にとって現役最後の本塁打となった。

選手・スタッフ

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表彰選手

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リーグ・リーダー
受賞者なし
ベストナイン
選出なし

ドラフト

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順位 選手名 ポジション 所属 結果
1位 吉田好伸 投手 丸善石油下津 拒否
2位 柳俊之 投手 電電北海道 拒否
3位 永尾泰憲 内野手 いすゞ自動車 拒否
4位 若菜嘉晴 捕手 柳川商業高 入団
5位 豊田憲司 投手 いすゞ自動車 入団
6位 望月彦男 投手 電気化学工業 入団
7位 児玉正三 投手 愛媛・長浜高 拒否・クラレ岡山入社
8位 斎藤輝美 内野手 横浜高 入団
9位 大屋好正 投手 和歌山・海南高 拒否・専修大学進学

出典

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