永尾泰憲

日本のプロ野球選手、コーチ (1950-)

永尾 泰憲(ながお やすのり、1950年5月2日 - )は、佐賀県佐賀市出身の元プロ野球選手内野手、右投左打)・コーチ。娘は関西地区でレポーターナレーターとして活動する永尾光湖

永尾 泰憲
佐賀県立太良高等学校 監督
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 佐賀県佐賀市
生年月日 (1950-05-02) 1950年5月2日(74歳)
身長
体重
169 cm
73 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 二塁手遊撃手
プロ入り 1972年 ドラフト1位
初出場 1973年4月17日
最終出場 1987年7月22日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

経歴

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プロ入りまで

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佐賀西高では内野手、控え投手として活躍。2年次の1967年夏には、3年生卒部による部員不足で試合ができなくなったため、各教室を回って選手を集めたという逸話が残る[1]。3年次の1968年には夏の甲子園県予選で準決勝に進出するが、佐賀工に9回逆転負けを喫し甲子園出場はならなかった。卒業後はいすゞ自動車に入社し、二番打者として1971年の都市対抗に出場。エースの豊田憲司を擁して2回戦に進むが、三菱自動車京都に敗退[2]同年のドラフト西鉄から3位指名をされるも入団を拒否し、翌年は三菱自動車川崎の補強選手として準優勝[2]

現役時代

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1972年のドラフト1位でヤクルトアトムズに入団。

1974年には東条文博とレギュラー争いを争った。

1975年には益川満育遊撃手の定位置を争う。

1976年二塁手に回る。

1977年にはレギュラーに定着。同年は初の規定打席(32位、打率.244)に達し、3年ぶりのAクラス入りとチーム初の2位躍進に貢献。1978年にはデーブ・ヒルトンの入団によりポジションを譲るが、控え内野手としてチーム初のリーグ優勝に貢献。同年の阪急との日本シリーズには代打として2試合に出場し、10月18日の第4戦(西宮)では0-5の場面で今井雄太郎から逆転のきっかけとなる安打を放ち、チーム初の日本一に貢献。

同年のオフに神部年男佐藤竹秀寺田吉孝との交換トレードでチャーリー・マニエルと共に近鉄バファローズへ移籍。新天地でも内野のユーティリティプレイヤーとして活躍。

1979年には主に二塁手として、規定打席未満ながら打率.310の好成績を記録。同年の広島東洋カープとの日本シリーズでは5試合に二塁手、遊撃手として先発し、20打数4安打を記録。

1980年は打撃が低迷するが、広島東洋カープとの日本シリーズでは第5戦から二塁手として起用され、8打数4安打2打点と活躍。在籍3年間でチームのリーグ2連覇に貢献した。

1982年1月、金銭トレードで阪神タイガースに移籍。同年シーズン中の5月25日には自宅が火事になる。主に代打として起用され、自己最高の打率.358と活躍。

1985年には、移籍入団の長崎啓二とともに左の代打の二本柱となる。同年も打率.327を記録して21年ぶりのリーグ優勝に貢献。西武ライオンズとの日本シリーズでも第3戦に代打で起用された。

1987年限りで現役を引退。

引退後

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引退後は阪神で二軍守備・走塁コーチ(1988年 - 1990年, 2010年)、二軍内野守備・走塁コーチ(1994年 - 1995年)、二軍内野守備コーチ(1996年)、二軍育成コーチ(2011年)、編成部スカウト(1991年 - 1993年, 1997年 - 2009年)を歴任。コーチ2期目には星野修に居残り特守など付きっきりで指導し、野球の技術よりも言葉遣いや人への態度などでいつも叱り、「野球バカじゃいかん」が口癖であった[3]。スカウト時代は主に九州地区を担当し、的場寛壱喜田剛野原将志白仁田寛和甲斐雄平の獲得に貢献。2014年12月から2017年まで母校のコーチを務め[4]2018年からは太良高校の監督に就任。

人物

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八重樫幸雄とは仲が良く、自宅に遊びに来るよう誘っていた。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1973 ヤクルト 33 42 42 3 6 1 0 0 7 0 0 2 0 0 0 0 0 2 0 .143 .143 .167 .310
1974 84 273 249 23 64 4 3 3 83 17 7 8 11 1 8 0 4 24 4 .257 .290 .333 .623
1975 75 224 203 13 51 3 3 3 69 9 4 5 8 0 10 0 3 19 2 .251 .296 .340 .636
1976 93 298 271 40 78 11 2 3 102 15 9 6 7 1 17 0 2 17 2 .288 .333 .376 .709
1977 128 549 476 68 116 21 5 4 159 30 13 6 35 2 33 0 3 40 6 .244 .296 .334 .630
1978 84 208 190 24 40 7 0 0 47 17 1 1 3 0 14 3 1 14 4 .211 .268 .247 .515
1979 近鉄 120 365 323 42 100 14 1 3 125 40 12 6 12 5 20 2 5 23 4 .310 .354 .387 .741
1980 104 194 172 20 40 3 1 1 48 15 4 2 5 1 14 0 2 13 2 .233 .296 .279 .575
1981 67 128 121 8 26 3 0 3 38 12 3 2 3 0 4 0 0 8 1 .215 .240 .314 .554
1982 阪神 65 71 67 3 24 2 1 0 28 18 1 2 0 0 4 2 0 7 3 .358 .394 .418 .812
1983 75 80 71 5 19 3 0 2 28 15 0 0 0 2 5 1 2 9 2 .268 .325 .394 .719
1984 22 22 19 0 3 1 0 0 4 2 0 0 0 1 2 0 0 2 1 .158 .227 .211 .438
1985 55 62 49 7 16 4 0 0 20 4 0 0 2 2 8 1 1 3 1 .327 .417 .408 .825
1986 80 87 80 7 24 1 1 1 30 12 0 0 0 1 4 1 2 10 1 .300 .345 .375 .720
1987 29 29 27 2 3 1 0 0 4 2 0 0 0 1 1 0 0 6 1 .111 .138 .148 .286
通算:15年 1114 2632 2360 265 610 79 17 23 792 208 54 40 86 17 144 10 25 197 34 .258 .306 .336 .642
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

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初記録
節目の記録
  • 1000試合出場:1985年10月1日、対広島東洋カープ23回戦(阪神甲子園球場)、5回裏に佐藤秀明の代打として出場 ※史上259人目

背番号

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  • 6(1973年 - 1978年)
  • 30(1979年 - 1981年)
  • 37(1982年 - 1987年)
  • 84(1988年)
  • 76(1989年 - 1990年)
  • 87(1994年 - 1996年)
  • 75(2010年)
  • 97(2011年)

脚注

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  1. ^ 内田雅也 (2012年3月27日). “猛虎人国記(31)~佐賀県~ 江川キラーの「宴会部長」”. スポーツニッポン. https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/mouko/kiji/K20120327002919920.html 2013年5月3日閲覧。 
  2. ^ a b 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  3. ^ “近鉄最後のバッター、星野おさむさん 地元・埼玉の運送会社で目指す地域貢献の夢”. スポーツ報知. (2018年1月28日). https://hochi.news/articles/20180128-OHT1T50295.html 2020年5月6日閲覧。 
  4. ^ 2時間で甲子園を提唱するスカウトマン”. デイリースポーツ. 2015年1月21日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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