1957年の近鉄パールスでは、1957年の近鉄パールスの動向をまとめる。

1957年の近鉄パールス
成績
パシフィック・リーグ6位
44勝82敗6分 勝率.349[1]
本拠地
都市 大阪府大阪市
球場 藤井寺球場(デーゲーム)
大阪球場(ナイター)
球団組織
オーナー 佐伯勇
経営母体 近畿日本鉄道
監督 芥田武夫(6月20日まで)
加藤久幸(6月22日から代行)
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この年の近鉄パールスは、芥田武夫監督の5年目のシーズンである。

概要

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シーズン開始前、大映ユニオンズの永田雅一オーナーから、「リーグ強化のために今シーズンの最下位球団を合併させる」案が出され、1954年のAクラス入り以降、年々成績が下降するチームは危機感を持ってのシーズン開幕となった[2]

チームは6月初めまで最下位に転落すると芥田監督が休養。6月22日から加藤久幸助監督が監督代行として指揮を執るが、8月までは最下位を独走した。しかし、加藤監督代行のもと、息を吹き返したチームは9月に9勝7敗、10月に7勝6敗と勝ち越し、最下位脱出をかけて戦っていた大映との直接対決でも9月の4連戦で4連勝、10月の5連戦も3勝2敗で勝ち越した。最終的には大映を5ゲーム差で突き放して7球団6位でシーズンを終えるが、最終的には優勝の西鉄には38ゲーム差を、5位の東映には10ゲーム差もつけられる体たらくだった。投手陣はこの年から関根潤三が野手に転向したものの[2]榎原好がチーム最多の12勝で奮闘し、黒田勉は打線の援護なく負け越したものの防御率9位に入る活躍を見せ、チーム防御率3.22とまずまず。打撃陣は小玉明利が急成長を見せたものの、南海から移籍の木塚忠助が打率2割台と衰えを見せた。

一方、最下位となった大映はシーズン終了後に毎日と合併。8球団→7球団と変遷してきたパ・リーグはようやく6球団制となり、現在の2リーグ12球団制に移行した。

チーム成績

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レギュラーシーズン

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開幕オーダー
1 五島道信
2 木塚忠助
3 戸口天従
4 小玉明利
5 武智修
6 木村勉
7 大石雅昭
8 原勝彦
9 武智文雄
1957年パシフィック・リーグ順位変動
順位 4月終了時 5月終了時 6月終了時 7月終了時 8月終了時 9月終了時 最終成績
1位 毎日 -- 西鉄 -- 南海 -- 西鉄 -- 西鉄 -- 西鉄 -- 西鉄 --
2位 西鉄 1.0 毎日 2.0 毎日 1.0 毎日 2.0 南海 6.0 南海 5.0 南海 7.0
3位 阪急 1.0 南海 3.0 西鉄 3.0 南海 2.5 毎日 6.5 阪急 6.5 毎日 8.0
4位 南海 2.0 阪急 4.5 阪急 4.0 阪急 6.0 阪急 10.5 毎日 8.0 阪急 8.0
5位 東映 4.5 東映 6.5 東映 6.5 東映 7.5 東映 19.0 東映 20.5 東映 28.0
6位 大映 5.5 大映 13.0 大映 14.5 大映 14.5 大映 27.5 近鉄 35.5 近鉄 38.5
7位 近鉄 7.0 近鉄 近鉄 20.0 近鉄 23.5 近鉄 35.5 大映 36.5 大映 43.5
1957年パシフィック・リーグ最終成績
順位 球団 勝率
1位 西鉄ライオンズ 83 44 5 .654 優勝
2位 南海ホークス 78 53 1 .595 7.0
3位 毎日オリオンズ 75 52 5 .591 8.0
4位 阪急ブレーブス 71 55 6 .563 11.5
5位 東映フライヤーズ 56 73 3 .434 28.0
6位 近鉄パールス 44 82 6 .349 38.5
7位 大映ユニオンズ 41 89 2 .315 43.5

[1]

オールスターゲーム1957

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ファン投票 選出なし
監督推薦 小玉明利

できごと

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選手・スタッフ

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[3][4]

表彰選手

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リーグ・リーダー
受賞者なし
ベストナイン
選出なし

脚注

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出典

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  1. ^ a b 年度別成績 1957年 パシフィック・リーグ”. 日本野球機構. 2017年8月6日閲覧。
  2. ^ a b 「NEWSポストセブン」近鉄パールス消滅の危機を救った関根潤三さんの打者転向”. 週刊ポスト. 2022年4月11日閲覧。
  3. ^ ベースボールマガジン2002夏季号, ベースボールマガジン社, (2002), p. 138 
  4. ^ 『日本プロ野球80年史 1934-2014』 【記録編】、ベースボール・マガジン社、2014年12月24日。ISBN 978-4-583-10668-7