ナショナルリーグのシカゴ・カブスは遊撃手ジョー・ティンカー、二塁手ジョニー・エバース、一塁手フランク・チャンスが「併殺トリオ」と呼ばれ、投手には少年時代に事故で右手の指2本を失いながらも3本指でカーブに威力がありエースとなったモーデカイ・ブラウン(通称スリーフィンガー・ブラウン)が26勝を上げて、監督兼任のフランク・チャンス一塁手の指揮の下に公式戦116勝を上げて、勝率.763はいまだに破れない史上最高勝率である。
一方アメリカンリーグのシカゴ・ホワイトソックスはチーム打率.230で3割打者は皆無で、投手陣のフランク・オーエン(22勝)、ニック・アルトロック(20勝)、そしてドク・ホワイト(18勝)とエド・ウオルシュ(17勝)が中心となって貧打チームを支えた。
ワールドシリーズの事前の予想は圧倒的に古参チームのシカゴ・カブスが有利で新興チームのシカゴ・ホワイトソックスが不利との見方が多かったが、この史上唯一のシカゴ対決は新興チームで貧打のホワイトソックスが制覇した。そしてシリーズ終了後に貧打のチームが公式戦116勝した強豪チームに勝ったことで「ヒットレス・ワンダー」と呼んだ。
ワールドシリーズで負けはしたが、シカゴ・カブスはこの年からリーグ3連覇を果たす。
両リーグともシカゴのチームが優勝したが、この両チームとも前回の優勝時のチーム名は「シカゴ・ホワイトストッキングス」である。ナショナルリーグのカブスは1871年に「シカゴ・ホワイトストッキングス」として設立されてナショナル・アソシェーションに加わり、その後にシカゴ大火による中断もあったが、1876年のナショナルリーグ創設時に加盟した。その年に初のリーグ優勝をして以後1886年まで「シカゴ・ホワイトスットキングス」として11年間で6度優勝した。その後は1894年にコルツ、1898年にオーファンズと名称を変えて1903年にカブスとなった。そしてアメリカンリーグのホワイトソックスは1900年にそれまでのマイナーリーグのウェスタンリーグがアメリカンリーグに名称を代えて、ナショナルリーグの許可を得て、それまでの加盟チームのセントポール・セインツを大都市シカゴに移し、「シカゴ・ホワイトストッキングス」と名乗り、そしてこのチームはメジャーリーグ宣言の後の1901年の最初のシーズンを優勝した。ナショナルリーグもアメリカンリーグもその最初のシーズンはどちらも「シカゴ・ホワイトストッキングス」が初優勝していた。
- 審判がグラウンドキーパーに対して指示が出せるようになった。
10/ 9 – |
ホワイトソックス |
2 |
- |
1 |
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カブス
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10/10 – |
カブス |
7 |
- |
1 |
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ホワイトソックス
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10/11 – |
ホワイトソックス |
3 |
- |
0 |
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カブス
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10/12 – |
カブス |
1 |
- |
6 |
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ホワイトソックス
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10/13 – |
ホワイトソックス |
3 |
- |
6 |
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カブス
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10/14 – |
カブス |
3 |
- |
8 |
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ホワイトソックス
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- 『米大リーグ 輝ける1世紀~その歴史とスター選手~』≪1906年≫ 48P参照 週刊ベースボール 1978年6月25日増刊号 ベースボールマガジン社
- 『米大リーグ 輝ける1世紀~その歴史とスター選手~』≪モーデカイ・ブラウン≫ 49P参照
- 『米大リーグ 輝ける1世紀~その歴史とスター選手~』≪フランク・チャンス≫ 50P参照
- 『メジャーリーグ ワールドシリーズ伝説』 1905-2000 86P参照 上田龍 著 2001年10月発行 ベースボールマガジン社