龍造寺家和
龍造寺 家和(りゅうぞうじ いえかず)は、戦国時代の武将。龍造寺氏15代当主。
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 大永8年3月7日(1528年3月27日)[1] |
別名 | 家員 |
墓所 | 佐賀県佐賀市の高伝寺 |
官位 | 隠岐守 |
主君 | 九州千葉氏、大内氏 |
氏族 | 龍造寺氏 |
父母 |
父∶龍造寺康家 母∶不明 |
兄弟 |
胤家、内田左京亮室、家和、澄覚、 大炊助、家兼、天亨 |
子 | 胤和、胤久、胤門、忠清 |
略歴
編集肥前国国人・龍造寺氏14代当主・龍造寺康家の次男として誕生。長兄・胤家が家中に争いを起こして出奔したため、家督を相続して15代当主となる。永正4年(1507年)に大内義興が中国・四国・九州の諸大名を招集して上洛を開始した際、大内軍の一員として上洛した。その後は九州千葉氏や大内氏に従いながら肥前に勢力を保った。
脚注
編集- ^ 『鍋島直正公伝』
出典
編集- 『鍋島直正公伝』(第1編)
- 『龍造寺隆信譜』