龍照院
龍照院(りゅうしょういん)は、愛知県海部郡蟹江町にある真言宗智山派の寺院。本尊は十一面観音菩薩。例祭として須成祭を行う冨吉建速神社・八剱社に隣接している。JR関西本線蟹江駅から徒歩約15分。
龍照院 | |
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本堂 | |
所在地 | 愛知県海部郡蟹江町大字須成字門屋敷上1364番地 |
位置 | 北緯35度8分50.89秒 東経136度47分15.46秒 / 北緯35.1474694度 東経136.7876278度座標: 北緯35度8分50.89秒 東経136度47分15.46秒 / 北緯35.1474694度 東経136.7876278度 |
山号 | 蟹江山 |
宗派 | 真言宗智山派 |
本尊 | 十一面観音菩薩 |
中興年 | 1182年 |
正式名 | 蟹江山龍照院常楽寺 |
札所等 | 尾張三十三観音霊場十三番 |
文化財 | 十一面観音菩薩立像(重要文化財) |
法人番号 | 9180005013145 |
歴史
編集中世以前
編集『尾張誌』(1846年完成)によると天平5年(733年)に行基が創建したという[1]。 その後鎌倉時代の寿永元年(1182年)、木曽義仲が七堂伽藍と十八坊を建立し、その中央に蟹江山常楽寺を置いたとされ[2]、常楽寺には本尊として十一面観音菩薩を安置し、栂尾(とがのお)の明恵上人を中興開山としたという[2]。ただし、以上の創建、再建、中興開山に係る記述の真偽については諸説ある[1]。当時の常楽寺境内は24町歩(7万2000坪)、寺領は76町歩(30万坪)もあったが、天正12年(1583年)に羽柴軍と織田・徳川軍が戦った蟹江城合戦の際には、龍照院と鎮守(冨吉建速神社・八剱社)を残し、兵火のために灰燼に帰した[2]。
近世・近代
編集寛文12年(1672年)完成の『寛文村々覚書』や宝暦2年(1752年)完成の『張州府志』には龍照院が掲載されており、当時は真言宗名古屋大須宝生院(大須観音)の一派に属していた[3]。天明3年(1783年)には龍照院に寺子屋が開かれ、多くの子女が通ったという[2]。明治初期には神仏分離令(廃仏毀釈運動)や寺領上地令などにより、境内や寺領は大幅に縮小され、境内は常燈を備えるのみとなった[2]。1891年(明治24年)の濃尾地震では本堂・客殿・庫裡などが全て倒壊した[2]。第68世の政覚和尚、第69世の政隆和尚のときに、本堂・客殿・庫裡・経堂・鐘楼・大日堂・地蔵堂などが建てられて復興した[2]。
現代
編集1931年(昭和6年)12月には本尊の十一面観音菩薩が旧国宝(現在の重要文化財に相当)に指定された[4]。第70世の政運和尚の時代の1972年(昭和47年)には、文化庁の要望を受けて収蔵庫が完成し、現在の本尊は収蔵庫に安置されている[4]。1993年(平成5年)11月に名古屋市博物館で開催された「東海百観音名宝展」のポスターや記念誌の表紙には、龍照院の十一面観音菩薩の写真が使用された[4]。第71世の静顕和尚の時代の1993年(平成5年)11月には、客殿・集会室・庫裡が新築された[4]。
文化財
編集重要文化財(国指定)
編集- 木造十一面観音立像[5]
蟹江町指定文化財
編集- 大日如来坐像[6]
- 鰐口[6]
- 須成龍照院のイチョウ(天然記念物)[6]
画像集
編集-
鐘楼
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大日堂
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宝物殿
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経蔵
脚注
編集参考文献
編集- 蟹江町誌編さん委員会『蟹江町史』蟹江町、1973年
- 須成文化財保護部『須成の歴史と文化』須成文化財保護委員会、1994年