鹿島 (練習巡洋艦)

日本海軍の練習巡洋艦

鹿島(かしま)は、日本海軍練習巡洋艦[2]香取型練習巡洋艦の2番艦[3]。艦名は茨城県鹿島神宮に由来する。

鹿島
1940年8月上旬、上海に停泊中の鹿島[1]
1940年8月上旬、上海に停泊中の鹿島[1]
基本情報
建造所 三菱重工業横浜船渠[2]
運用者  大日本帝国海軍
艦種 練習巡洋艦[3]
級名 (香取型[4][注釈 1])
建造費 成立予算 6,600,000円[5]
母港[6]
艦歴
計画 昭和13年[5](1938年)
起工 1938年10月6日[7]
進水 1939年9月25日[7]
竣工 1940年5月31日[7]
除籍 1945年10月5日[8](日本海軍)
その後 戦後復員輸送任務[8]
1946年11月12日から翌年6月15日解体[9]
要目(竣工時)
基準排水量 計画 5,830英トン[10] または 5,890英トン[11]
公表値 5,800英トン[7]
公試排水量 計画 6,300トン[12][10][注釈 2]
実際 6,280トン[9][13][14]
満載排水量 計画 6,720トン[14]
実際 6,697トン[14]
全長 133.50m[12][10]
水線長 130.00m[10]
または 129.77m(公試状態)[13][15]
垂線間長 123.50m[10]
最大幅 16.700m[10] または16.60m[16]
水線幅 15.95m[7][10]
深さ 10.5m[10]
吃水 公試計画 5.750m[12][13][10][15]
公試実際 5.71m[14]
満載実際 5.98m[14]
ボイラー ホ号艦本式重油専焼水管缶 3基[17]
主機 艦本式(高低圧)2段減速タービン2基[17]
艦本式22号10型ディーゼル機関2基[17]
(フルカン・ギア接続)[17]
推進 2軸[7] x 280rpm[17]
直径2.800m、ピッチ2.580m[17]
出力 8,000馬力[7][17]
(うちタービン 4,400馬力、ディーゼル 3,600馬力)[12][17]
速力 計画 18.0ノット[7][10][15]
実際 19.0ノット[12]
燃料 計画 重油:600トン[10]
実際 772トン[12]
航続距離 計画 7,000カイリ / 12ノット[10]
実際 9,500カイリ / 12ノット(タービン・ディーゼル併用)[12]
乗員 計画:固有乗員315名[10]、士官候補生375名[18][注釈 3]
竣工時定員505名[19]
1945年1月時点の乗員675名[20]、司令部52名[21]
兵装 竣工時[15][22]
50口径14cm連装砲 2基4門
12.7cm連装高角砲 1基2門
25mm連装機銃2基4挺
53cm六年式連装発射管2基4門
5cm礼砲4基4門
爆雷兵装なし(推定)[23]
装甲 なし[24]
搭載艇 計画 12m内火艇2隻、12m内火ランチ3隻、9mカッター2隻、6m通船1隻[22][25]
搭載機 計画 一二試水偵(三座)1機[15]
呉式2号射出機5型 1基[22]
計画要目は香取型練習巡洋艦の要目を参照。
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ここでは、戦後海上自衛隊公称鹿島1号となった搭載内火艇についても説明する。

概要

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日本海軍は士官候補生の遠洋航海に旧式となった装甲巡洋艦磐手出雲等を用いていたが、機関は石炭燃焼であり、さらに昭和に入り艦の老朽化が目立って来た[26]。そこで新たに練習巡洋艦2隻の予算が昭和13年度(1938年)に成立した[5]。これが後の練習巡洋艦香取と鹿島である[5]。仮称艦名は「第73号艦」[5]、鹿島と命名され[2]1940年(昭和15年)5月31日三菱重工業横浜船渠で竣工した[7]

同型艦香取と共に日本海軍で最後となる昭和15年度の練習艦隊を編成[27]、 昭和16年度(1941年)は第4艦隊旗艦兼第18戦隊旗艦となり、サイパントラックを基地に南洋方面の警備に当たった[28]太平洋戦争開戦時は第4艦隊旗艦であり、開戦後は主にトラックから作戦支援を行った[29]1943年(昭和18年)12月1日呉練習戦隊に編入され[30]、翌1944年(昭和19年)中は海軍兵学校生徒の乗艦実習などを行った[31]。 その間に沖縄台湾などへの緊急輸送を4回(または6回[31])実行する[8]1945年(昭和20年)1月1日に第102戦隊を編制し[32]、 船団護衛や対潜掃討に従事、 無傷で終戦を迎えた[33]。 戦後、復員輸送に従事[33]の後に解体された[34]

艦型の変遷

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竣工時

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竣工時の艦型は香取型練習巡洋艦#艦型を参照のこと。 鹿島の場合、固定バラストは576トン搭載(計画587トン)、軽荷補填状態での液体バラストは141トン(計画140トン)とした[14]。 竣工時(1940年5月31日)に舷外電路は装備していない[35]。 (なお香椎は竣工(1941年7月)時より舷外電路を装備している[36]。)

1941年

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艦橋トップ後方(前部マスト直前)にあった方位測定用のアンテナ[35]は前部マストと煙突の間に移動した[37](香椎は竣工時より移動済み[36])。 昭和16年度(1941年)の第18戦隊(天龍龍田と編制)旗艦(1番艦)の時は煙突に白線1本が巻かれていた[28]

大戦時

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鹿島は1942年7月から8月に呉海軍工廠で整備を行ったが、 その時の公式図(完成図)が残されている[4]。竣工時の艦型と比較すると以下の相違がある。

  • 5cm礼砲2門を撤去、2門を天測甲板へ移動し、25mm連装機銃2基を増備[4]、機銃・礼砲は竣工時の香椎と同じになっている[38]
  • 後部の上甲板両舷に爆雷投下台2基ずつ、計4基を装備[4]。1942年2月、香椎に出された爆雷兵装新設の訓令には仮装備とあり、戦争中だけの装備を予定していた[23]。なお、爆雷投下軌道は描かれていない[4][注釈 4]
  • 羅針艦橋には防弾板が装備される[4]
  • 艦橋トップにある4.5m測距儀の後方に兵員待機所が新設される[4]
  • 搭載艇は12m内火艇2隻、12m内火ランチ3隻、9mカッター2隻になる(6m通船は描かれていない)[4]
  • 舷外電路は公式図に描かれていない[4]。ただし香取・香椎ともに1941年には装備済みであり[39][36]、鹿島も装備の可能性がある。

対潜掃討艦

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鹿島は1945年1月1日に海防艦と第102戦隊を編制[32]、 1月21日まで呉海軍工廠で修理、整備が行われ[40]、 対潜掃討艦への改装が行われた[38][注釈 5]。 「あ号作戦後の兵装増備の状況調査」によると1945年2月時点の兵装は以下とされる[41]

  • 50口径14cm連装砲 2基4門
  • 40口径12.7cm連装高角砲 3基6門
  • 25mm3連装機銃4基、同連装4基、同単装18挺
  • 片舷爆雷投射機(装填台共)4基、爆雷投下軌道2条
  • 22号電探1基、13号電探1基(共に前部マスト上)
  • 哨信儀2組
  • 探照灯2基
  • 射出機1基

搭載爆雷は100個とされる[38]が、AS1作戦(1945年)の時には配下海防艦への供給分を含めて爆雷300個を搭載している[42] また1945年時には三式探信儀が装備されていた[43]。 水測兵器は最終時で水中聴音機2基、探信儀2基を装備、その他逆探2基も装備していた[44]

特別輸送艦

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終戦後、特別輸送艦となったときは、兵装(22号電探はそのまま)・射出機を撤去、後甲板などに便乗者用の仮設構造物を設けた[33]。 舷側には船首楼後部付近に日の丸、船体中央には艦名の「KASHIMA」と記入されていた[33]

艦歴

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香取型練習巡洋艦2番艦は1938年(昭和13年)10月6日、横浜で起工された[7]1939年(昭和14年)3月31日、鹿島の艦名が与えられた[2]。9月25日に進水、1940年(昭和15年)5月31日に竣工し[7]鍋島俊策大佐が初代艦長となった[45]

6月1日、鹿島は香取と共に練習艦隊に編入された。8月7日、鹿島と香取は昭和15年度の遠洋航海(司令官清水光美中将:兵学校68期生、機関学校49期生、主計学校29期生)[46]に出発[47]江田島〜舞鶴 [48]〜野辺地[49]〜大湊[50]鎮海 [51]大連旅順〜上海を歴訪する[26]。しかし情勢の変化により9月20日に前期航海のみで中止が決定、これが帝国海軍最後の遠洋航海となった[26]

第四艦隊旗艦(太平洋戦争開戦前)

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11月15日附の艦隊改編で第四艦隊(司令官高須四郎中将)は拡充され、新造艦で士官居住区等の充実した香取型の鹿島は第四艦隊旗艦となった[52]。第十八戦隊(鹿島、軽巡天龍龍田)に所属し、鹿島は同戦隊の旗艦も兼ねた[要出典][52]

1941年(昭和16年)2月上旬、高知沖で行われた大規模演習に参加。2月3日、鹿島は仮想敵(陸奥型戦艦)として戦艦比叡の砲撃目標になるが、比叡は潜水母艦大鯨を鹿島と錯覚して射撃目標にしていた[53]。2月から4月、第四艦隊と共に南洋で行動した[54]

5月25日、高須中将と高松宮軍令部員が乗艦した鹿島は横須賀を出港して内南洋へ向かった[55][54]。5月30日、空母龍驤、駆逐艦帆風と行動[56]。6月1日にマーシャル諸島エニウェトク環礁に到着した[57]。それ以降、第四艦隊各艦と共に南洋で行動した[54]

7月22日、第四艦隊の鹿島、軽巡夕張、駆逐艦朝凪を除く各艦は内地に戻り、整備に従事した[58]。8月11日、高須中将は第一艦隊司令長官へ転出し、後任の第四艦隊司令長官は海軍航空本部部長だった井上成美中将となった[59]。10月中旬から下旬にかけて、第四艦隊各艦はトラック泊地に集結した[58]

11月18日、対米開戦について日本本土での協議に参加した井上中将ら第四艦隊司令部はサイパン停泊中の鹿島に帰艦し、鹿島は20日トラック泊地へ戻った[60]。12月1日、第四艦隊司令部が独立し、鹿島は第十八戦隊を離れて単独旗艦となった[61][62][54]

第四艦隊旗艦(開戦後)

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鹿島は1943年(昭和18年)11月まで第四艦隊旗艦を務め、第四艦隊司令長官は鹿島艦上から南洋部隊・内南洋部隊の重要な作戦を指揮した[63]。ただ開戦直前に単独旗艦に変更されたのは、兵装と速力(計画18ノット)の不足から、僚艦と行動しない後方からの作戦支援による運用を前提としていた。このため鹿島が前線で重要な海戦に参加する機会はなかった[61](艦隊編制は第四艦隊(三代目)参照)。

鹿島は太平洋戦争開戦をトラック泊地で迎え[64]、井上中将が中部太平洋・南太平洋の作戦を統括する「南洋部隊」の指揮を執った[65][64]。開戦時の南洋部隊は第四艦隊のほか第六戦隊(重巡青葉加古衣笠古鷹)、駆逐艦、第23駆逐隊(菊月卯月夕月)も指揮下にあった[66][67]。開戦後、南洋部隊は ギルバート諸島を占領し[68]ウェーク島を攻略 (ウェーク島の戦い)。1942年(昭和17年)1月には第一航空艦隊と協力してラバウルを占領した[69]が、鹿島は待機が続いた[70][71]

2月20日、空母レキシントンを基幹とする米機動部隊(第11任務部隊)がラバウル攻撃のためラバウル東方沖に進出した[72][73]。井上中将は航空兵力に攻撃を命じ、水上攻撃のため鹿島、敷設艦沖島、第六戦隊、第十八戦隊(天龍、龍田)でトラック泊地を出撃した[74][75][76]。21日、第六水雷戦隊(夕張)と第23駆逐隊が合流し[77]、第六戦隊、第十八戦隊と合わせて支援部隊を編制した[78][79]。22日には空母祥鳳、帆風も合流した[80][81]。だが米機動部隊が20日に航空隊の攻撃を受け撤退していたため(ニューギニア沖海戦)、鹿島は戦闘を行わずトラック泊地に戻った[82][83]

5月1日、鹿島はポートモレスビー攻略作戦に備えてトラック泊地を出発。ラバウルに移動し、井上中将がラバウルに在泊する鹿島から攻略作戦を指揮した[84]。しかし珊瑚海海戦で菊月と祥鳳が沈没、翔鶴が損傷し、作戦の延期が決まったため、鹿島は5月16日にトラック泊地に戻った[84]。6月下旬、南洋部隊はガダルカナル島で飛行場の建設を開始した[85]

7月、ミッドウェー海戦後の艦隊再編制で誕生した第八艦隊が、南太平洋のパプアニューギニアソロモン諸島方面の重要な作戦を担当することになった。このため第四艦隊から第十八戦隊、第30駆逐隊、敷設艦津軽等が第八艦隊の指揮下に移り、第八艦隊に第六戦隊も加わって「外南洋部隊」が編制された[86][87][88]。第四艦隊は中部太平洋を管轄する「内南洋部隊」となり[89][90]、旗艦鹿島、日本と中部太平洋を結ぶ航路の安全を確保する 第二海上護衛隊の他は、根拠地隊を中心とする艦隊編制に縮小された(第四艦隊(三代目)参照)。その結果、鹿島は直後に激戦となるソロモン諸島の戦いの前戦から外れた。

その後、呉に戻って機銃増設等の改修工事を行い、9月にトラック泊地に戻った[63][91]

11月17日、新任の第四艦隊司令長官鮫島具重中将は「鹿島」と駆逐艦「夕凪」、「朝凪」を率いてトラックから巡視に出発[92]。クェゼリン、ルオット、イミエジ、ヤルートと訪れ、「朝凪」をヤルートに残して12月2日にトラックに戻った[93]

その後は待機が続いた[94]

1943年4月、駆逐艦初風に護衛されて内地へ向かい修理を受けた[95][96]。5月、空母冲鷹雲鷹、駆逐艦海風、測量艦筑紫と共にトラックに戻った[97][98]。8月、駆逐艦涼月に護衛されてクェゼリン環礁に移動、根拠地を移した[99]。11月にトラック泊地に戻り、10日附で第四艦隊旗艦を軽巡長良に譲った[100]

11月18日、潜水母艦長鯨、特設巡洋艦護国丸、駆逐艦若月と共にトラック泊地を離れ[101]、駆逐艦山雲が護衛した[102][103]。11月19日、山雲は米潜水艦スカルピンを撃沈し、トラック泊地に戻った[104]。 11月25日、鹿島は呉に到着した[105][106]。米軍は11月21日にギルバート諸島に上陸を開始し、中部太平洋で本格的な反抗を始めた(ギルバート・マーシャル諸島の戦い)が、鹿島はその直前にトラック泊地を離れた。

練習戦隊、輸送任務

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12月1日、鹿島は新編の呉練習戦隊に装甲巡洋艦磐手八雲と共に編入し[30]、以降は主に内海で海軍兵学校生徒らの乗艦実習などを担当した。しかし戦局が悪化し、1944年7月以降はしばしば練習戦隊を離れ、連合艦隊司令長官の指揮下で沖縄や台湾への輸送任務に従事した。

鹿島は12月から1月にかけ、整備と修理、乗員の訓練などを行った[107]。12月31日、練習戦隊に香椎が編入した[30]

1944年(昭和19年)1月16日、修理を終えた鹿島は磐手、八雲と共に乗艦実習を開始した[108]。2月26日、機密呉鎮守府命令第42号(詳細不明)を受けた[109]。3月22日、兵学校卒業式で皇族乗艦のために香椎と共に江田内に在泊[110]。この日は磐手、八雲、2月20日に編入した装甲巡洋艦出雲も江田内にあり、呉練習戦隊の5隻がそろった[111]。その後、6月まで修理や海軍兵学校生徒の乗艦実習などに従事した[112][113][114]

7月11日、沖縄方面への輸送作戦「ろ号作戦」部隊に編入された[115]。作戦は第十一水雷戦隊(司令官:高間完少将)の指揮下で長良、重巡摩耶、鹿島、駆逐艦清霜朝雲浦風冬月が参加し[116]、出撃時に主隊(長良、摩耶、鹿島)と警戒隊(冬月、清霜、竹、朝雲、浦風)が編制された[117]。鹿島は7月17日に沖縄に到着[118]、輸送を成功させた。8月、再び沖縄方面への輸送任務に就いた。7月から実務練習で鹿島乗艦の新任海軍少尉[119]は、ろ号作戦時に離艦したが、8月の輸送任務では乗艦した[120][121]。9月17日から連合艦隊司令長官の指揮下に入り[122]、台湾方面への輸送任務のため9月に基隆[123]、10月に高雄に向かった[124]。11月から12月は海軍兵学校生徒や海軍砲術学校練習生の乗艦実習を行うと共に、呉で訓練整備、補給を行った[125][126][127]

船団護衛、対潜掃討任務

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1945年(昭和20年)1月1日、船団護衛のため第一護衛艦隊に第102戦隊(司令官浜田浄少将[128])が編制され、旗艦鹿島、海防艦6隻(屋代、御蔵、2号、33号、34号、35号)が編入した[32]。対潜攻撃力を増強する改修工事を施した後、2月、海防艦第14号第16号、第46号と共にモタ36船団(めるぼるん丸、日昌丸)を上海まで護衛した[63][129]

22日から3月12日までAS1作戦(対潜掃討作戦、北緯32度線以南の中国沿岸[130][129])の指揮を執った[131]。3月13日から17日までは台湾海峡北部から揚子江口までの対潜掃討作戦(AS2作戦)が、また19日から対馬海峡から黄海南部までの対潜掃討作戦(AS3作戦)が行われた[132]

5月は朝鮮半島沿岸での対潜掃討に従事した。5月19日に巨済島沖で貨物船大進丸と衝突し、鹿島は艦首を小破、鎮海で応急修理に入った[133]。7月、102戦隊を外れて舞鶴に入港し、修理を完了させた後、北陸から東北にかけての北部日本海の対潜・掃海作戦を指揮するため海防艦高根鵜来竹生と共に七尾湾に移動[134]。8月、終戦を迎えた[135]

8月22日呉に寄港した[8]。10月5日帝国軍艦籍を除籍され、復員輸送艦となった[8]。10月23日には第4艦隊所属時に管轄したヤルート島を再訪、第62警備隊911人を収容するなど[136]、12回に渡る復員輸送で活躍した。1946年(昭和21年)11月26日から翌1947年(昭和22年)6月15日にかけて川南工業香焼島造船所で解体された[9]

公称鹿島1号

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鹿島が解体された後、鹿島に搭載されていた内火艇1隻が1948年海上保安庁に移管されて掃海船となる。 1952年8月1日、同艇は海上警備隊(後の海上自衛隊)に移管され、雑船内火艇公称鹿島1号と改名される。 同年12月28日、鹿島1号は雑船となり、交通船1011号と改名される。 1956年10月1日、交通船1011号は解役され、解体された。

略歴

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  • 1938年10月6日 三菱重工業横浜船渠において起工[7]
  • 1939年3月31日 「鹿島 (カシマ)」と命名[2]
    • 9月25日 進水[7]。横浜船渠に鹿島艤装員事務所を設置[137]
  • 1940年5月31日 竣工[7]。鹿島艤装員事務所を撤去[138]
  • 1941年2月5日 南洋諸島に向け須崎発
    • 4月13日 呉着
    • 5月25日 横須賀発
    • 6月1日 エニウェトク環礁着
    • 11月18日 サイパン発
    • 11月20日 トラック着
    • 12月1日 第18戦隊から外れ、第4艦隊旗艦専任となる
  • 1942年2月20日 米機動部隊邀撃のためトラック発
    • 2月23日 トラック着。以降、待機[139][140]
    • 5月1日17時 トラック発[141]
    • 5月4日7時30分 ラバウル着[141]
    • 5月13日 朝凪と共にラバウル発[141]
    • 5月16日 カビエン経由でトラック着[141][142]
    • 7月19日 トラック発[143][144]
    • 7月26日 呉着[144][145]。8月26日まで修理
    • 9月3日 トラック着[63][91]。以降、待機[144][146]
    • 11月下旬 海軍陸戦隊輸送のためトラック発[147]
    • 12月2日 トラック着
  • 1943年4月8日トラック発
    • 4月16日 呉着[148]
    • 5月21日 呉発、横須賀へ移動[98]
    • 5月24日 横須賀発[97]
    • 5月29日 トラック着[98]
    • 8月下旬 クェゼリン環礁に移動。以降、待機[149][150]
    • 11月5日 クェゼリン環礁発[100]
    • 11月8日 トラック着[100]
    • 11月10日 第四艦隊から外れる
    • 11月18日朝 トラック発[101]
    • 11月25日 呉着[105]
    • 12月1日 呉練習戦隊に編入[30]
    • 12月16日 入渠(21日まで)[107]
  • 1944年1月6日 入渠(12日まで)[151]
    • 2月1日 江田内着[152]
    • 2月5日 呉着[152]
    • 2月13日 乗艦実習(3月4日まで) [153][154]
    • 3月22日 兵学校卒業生を乗せ江田内発[111][155]
    • 3月23日 大阪着[111]
    • 3月25日 呉着[111]
    • 4月15日 海上護衛総司令部部隊に編入[156]
    • 4月25日 呉練習戦隊に編入[157]
    • 5月15日 呉海軍工廠第3船渠で修理(26日まで)[158][113]
    • 7月8日 旗艦を出雲に変更[159]
    • 7月15日 ろ号作戦。摩耶など8隻で中津湾発[160]
    • 7月17日 中城湾[118]
    • 7月19日 沖縄発。長良、冬月、清霜、竹が同行[161]
    • 7月20日 瀬戸内海西部着[162][163]
    • 7月28日 沖縄方面への輸送作戦発令[164]
    • 8月2日 呉発[165][166]
    • 8月3日 佐世保着[167]
    • 8月29日 作戦任務終了[168]
    • 9月1日 呉着[169]
    • 9月3日 兵学校最上級生徒の乗艦実習(18日まで)[170]
    • 9月12日 旗艦を出雲から鹿島に変更[122]
    • 9月18日 旗艦を鹿島から出雲に変更[122]
    • 9月20日 第43駆逐隊と共に鹿児島[171]
    • 10月1日 呉着[172]
    • 10月12日 特別任務命令[173][174]、呉発
    • 10月14日 駆逐艦と寺島水道発、鹿児島着[175]
    • 10月19日 鹿児島発。夕月、卯月が護衛[176]
    • 10月22日 高雄着[124]
    • 10月23日 高雄発。夕月と卯月は26日佐世保に帰港[176]
    • 10月28日17時 呉着[177]
  • 1945年1月1日 第102戦隊を編制[32]
    • 1月21日 呉で修理終了[40]
    • 1月24日 佐伯を基地に対潜訓練(2月1日まで)[178][179][180]
    • 2月2日 呉着。整備、作戦準備を実施[129]
    • 2月13日午前6時[181] (または午前4時[182]) 船団護衛のため六連[179]
    • 2月16日 上海沖着、護衛終了[129]
    • 2月17日 上海入港[129]
    • 2月21日 定海に碇泊(28日まで)[179]
    • 3月 定海、泗礁山で海防艦への補給と碇泊訓練実施[183]
    • 3月12日 上海で整備補給(16日まで)[183]
    • 5月19日 鎮海発。対馬海峡で貨物船と衝突、鎮海に入港し修理
    • 7月3日 舞鶴護衛部隊に編入[184]
    • 7月4日 釜山発[184]
    • 7月6日 舞鶴着、修理[184]
    • 7月15日 第1護衛艦隊北方面護衛部隊に編入[185]
    • 7月22日 修理完了、舞鶴発[134]
    • 7月23日 七尾北湾着[134]
    • 7月25日 能登島・牧山陸岸に係留[186]
    • 10月5日 除籍[8]
    • 12月1日 呉地方復員局所管特別輸送艦に指定される[187]
  • 1946年11月22日 シンガポールからの第12次復員輸送を終えて佐世保入港
    • 11月26日 特別輸送艦の指定を解かれる[188]
  • 1947年6月15日 解体完了[9]

歴代艦長

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艤装員長
  1. (兼)宮里秀徳 大佐:1939年9月25日(香取艤装員長)[189] - 11月1日[190]
  2. (兼)市岡寿 大佐:1939年11月1日 (香取艤装員長)[190] - 3月10日 [191]
  3. 鍋島俊策 大佐:1940年3月10日[191] - 5月31日[45]
艦長
  1. 鍋島俊策 大佐:1940年5月31日[45] - 11月1日[192]
  2. 武田勇 大佐:1940年11月1日[192] - 1941年9月1日[193]
  3. 千田金二 大佐:1941年9月1日[193] - 1942年9月7日[194]
  4. 高田栄 大佐:1942年9月7日[194] - 1943年7月1日 [195]
  5. 林彙邇 大佐:1943年7月1日[195] - 10月21日[196]
  6. 梶原季義 大佐:1943年10月21日[196] - 12月3日[197]
  7. (兼)長井満 大佐:1943年12月3日[197]隼鷹艦長) - 12月9日[198]
  8. 山澄忠三郎 大佐:1943年12月9日[198] - 5月15日[199]
  9. 高馬正義 大佐:1944年5月15日[199] - 8月13日[200]
  10. 平岡義方 大佐:1944年8月13日[200] - 1945年4月28日[201]
  11. 高橋長十郎 大佐:1945年4月28日[201] - 9月27日[202]
  12. 井浦祥二郎 大佐:1945年9月27日[202] - 10月2日[203]
  13. 横田稔 大佐/第二復員官/第二復員事務官/復員事務官:1945年10月2日[203] - 1946年11月26日[204]

同型艦

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参考文献

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  • Eric Lacroix; Linton Wells II (1997). Japanese Cruisers of the Pacific War. Naval Institute Press 
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  • 『日本巡洋艦史』 世界の艦船 2012年1月号増刊 第754集(増刊第101集)、海人社、2011年12月。 
  • 高橋雄次『鉄底海峡 重巡「加古」艦長回想記』光人社NF文庫、1994年10月(原著1967年)。ISBN 4-7698-2062-3 
  • 高松宮宣仁親王嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第三巻 昭和十五年五月一日~昭和十六年十二月三十一日』中央公論社、1995年11月。ISBN 4-12-403393-1 
  • 高松宮宣仁親王嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第四巻 昭和十七年一月一日~昭和十七年九月三十日』中央公論社、1996年7月。ISBN 4-12-403394-X 
  • 永井喜之・木俣滋郎「第2部 第二次大戦/日本軍編(13)練習巡洋艦「香取」」『新戦史シリーズ 撃沈戦記』朝日ソノラマ、1988年10月。ISBN 4-257-17208-8 
  • (社)日本造船学会 編『昭和造船史 別冊 日本海軍艦艇図面集』 明治百年史叢書 第242巻(四版)、原書房、1978年(原著1975年)。 
  • (社)日本造船学会 編『昭和造船史(第1巻)』 明治百年史叢書 第207巻(第3版)、原書房、1981年(原著1977年10月)。ISBN 4-562-00302-2 
  • 原為一ほか『軽巡二十五隻 駆逐艦群の先頭に立った戦隊旗艦の奮戦と全貌』潮書房光人社、2014年12月。ISBN 978-4-7698-1580-8 
    • 当時「阿賀野大淀」設計主務・海軍技術大佐大薗大輔『私が設計した阿賀野&大淀の真価と秘密 凌波性と耐波性と機動性にとむ理想の名艦生みの親が語る造艦秘話』(香取で得た貴重な教訓)
    • 戦史研究家伊達久『航跡でたどる軽巡二十五隻の栄光と悲惨』
    • 戦史研究家落合康夫『日本海軍軽巡洋艦戦歴一覧』
  • COMPILED BY SHIZUO FUKUI (1947-04-25). JAPANESE NAVAL VESSELS AT THE END OF WAR. ADMINISTRATIVE DIVISION, SECOND DEMOBILIZATION BUREAU (COMPILED BY 福井静夫『終戦時の日本海軍艦艇』第二復員局、1947年04月25日)
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  • 福田啓二 編『軍艦基本計画資料』今日の話題社、1989年5月。ISBN 4-87565-207-0 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書6 中部太平洋陸軍作戦(1) マリアナ玉砕まで朝雲新聞社、1967年。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書31 海軍軍戦備(1) 昭和16年11月まで』朝雲新聞社、1969年。 
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  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2) 昭和十七年六月以降』朝雲新聞社、1973年2月。 
  • 牧野茂福井静夫 編『海軍造船技術概要』今日の話題社、1987年5月。ISBN 4-87565-205-4 
  • 『重巡利根型 軽巡香取型』 丸スペシャル No.44、潮書房、1980年10月。 
  • 雑誌『丸』編集部 編『写真 日本の軍艦 第9巻 軽巡II』光人社、1990年4月。ISBN 4-7698-0459-8 
  • 丸田研一『わが祖父井上成美』徳間書店、1987年12月。ISBN 4-19-173579-9 
  • アジア歴史資料センター(公式)(国立公文書館、防衛省防衛研究所)
    • 『昭和14年達 完/3月(2)』。Ref.C12070105300。 
    • 『巡洋艦 鹿島 引渡目録(①-引渡目録-384)』。Ref.C08011359200。 
    • 『昭和20年10月5日 引渡目録 軍艦鹿島(①-引渡目録-351)』。Ref.C08011343000。 
    • 『LIGHT CRUISER KASHIMA』。Ref.C08011344400。 
    • 『昭和15年12月25日現在 10版 内令提要追録第8号原稿/巻3 追録/第13類 艦船(1)』。Ref.C13071993800。 
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    • 『昭和17年6月30日現在 10版 内令提要追録第11号原稿(下)』。Ref.C13072008800。 
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    • 『昭和16年12月1日~昭和19年8月31日 第4艦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030018200。 
    • 『昭和16年12月1日~昭和19年8月31日 第4艦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030018300。 
    • 『昭和16年12月1日~昭和19年8月31日 第4艦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030018400。 
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    • 『昭和16年12月1日~昭和17年5月7日 軍艦祥鳳戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030580700。 
    • 『昭和17年4月10日~昭和19年4月24日 第2海上護衛隊司令部戦時日誌(1)』。Ref.C08030142500。 
    • 『昭和17年7月1日~昭和17年7月31日 軍艦加古戦時日誌』。Ref.C08030571400。 
    • 『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030022500。 
    • 『昭和17年7月1日~昭和17年11月30日 呉防備戦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030366400。 
    • 『昭和18年4月1日~昭和18年11月15日 第14戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030052200。 
    • 『昭和18年4月1日~昭和18年4月30日 佐伯防備隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030404800。 
    • 『昭和18年1月1日~昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。Ref.C08030100700。 
    • 『昭和18年11月1日~昭和18年11月30日 特設巡洋艦護国丸戦時日誌 南海守備隊輸送 丁2.4号輸送(4)』。Ref.C08030654200。 
    • 『昭和18年11月1日~昭和18年12月31日 佐伯防備隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030410200。 
    • 『昭和19年4月1日~昭和19年8月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(5)』。Ref.C08030086800。 (昭和19年8月-第11水雷戦隊ろ号輸送部隊任務報告)
    • 『昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030127500。 
    • 『昭和20年1月1日~昭和20年3月31日 第102戦隊戦時日誌 AS作戦(1)』。Ref.C08030075200。 
    • 『昭和20年1月1日~昭和20年3月31日 第102戦隊戦時日誌 AS作戦(2)』。Ref.C08030075300。 
    • 『昭和18年12月1日~昭和20年5月31日 呉練習戦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030078800。 
    • 『昭和18年12月1日~昭和20年5月31日 呉練習戦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030078900。 
    • 『昭和18年12月1日~昭和20年5月31日 呉練習戦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030079000。 
    • 『昭和18年12月1日~昭和20年5月31日 呉練習戦隊戦時日誌(4)』。Ref.C08030079100。 
    • 『昭和20年1月1日~昭和20年3月31日 第1海上護衛隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030142000。 
    • 『昭和19年6月1日~昭和19年12月13日 第30駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030149800。 
    • 『昭和17年2月1日~昭和17年2月28日 横須賀鎮守府戦時日誌(4)』。Ref.C08030315400。 
    • 『昭和19年4月1日~昭和20年2月28日 呉鎮守府戦時日誌(1)』。Ref.C08030329300。 (昭和19年4月)
    • 『昭和19年4月1日~昭和20年2月28日 呉鎮守府戦時日誌(2)』。Ref.C08030329400。 (昭和19年5月)
    • 『昭和19年4月1日~昭和20年2月28日 呉鎮守府戦時日誌(4)』。Ref.C08030329600。 (昭和19年7月)
    • 『昭和19年4月1日~昭和20年2月28日 呉鎮守府戦時日誌(5)』。Ref.C08030329700。 (昭和19年8月)
    • 『昭和17年2月1日~昭和17年2月28日 佐世保鎮守府戦時日誌(5)』。Ref.C08030333700。 
    • 『昭和20年5月1日~昭和20年5月31日 軍艦鹿島戦時日誌(1)』。Ref. C08030580000。  (昭和20年5月、7月)
    • 『昭和20年5月1日~昭和20年5月31日 軍艦鹿島戦時日誌(2)』。Ref. C08030580100。  (昭和20年7月)

脚注

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注釈

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  1. ^ 公式には類別等級内での艦(艇)型に「香取型」はない(#S20-03-26内令提要/第13類 艦船(1)画像5など)
  2. ^ #軍艦基本計画資料Sheet116では練習艦として6,650トンとしている
  3. ^ #軍艦基本計画資料Sheet7では275名としている。
  4. ^ #衣島(2011)香取型p.56では、同時期の香取に爆雷投下軌道2条の装備を推定している。
  5. ^ #衣島(2011)香取型pp.59-60では、1943年12月から翌1944年1月の工事とする。

出典

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  1. ^ #日本巡洋艦史(2011)p.141上写真と解説。
  2. ^ a b c d e #達昭和14年3月(2)p.23『達第四十八號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十三年度ニ於テ建造ニ着手ノ練習巡洋艦二隻、驅逐艦一隻及敷設艇一隻ニ左ノ通命名ス|昭和十四年三月三十一日 海軍大臣 米内光政|三菱重工業株式會社横濱船渠ニ於テ建造 練習巡洋艦 香取(カトリ) 練習巡洋艦 鹿島(カシマ)|浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 驅逐艦 早潮(ハヤシホ)|株式會社石川島造船所ニ於テ建造 敷設艇 巨濟(キョサイ)』
  3. ^ a b #艦艇類別等級表(昭和17年6月30日)p.4『軍艦|練習巡洋艦|香取、鹿島、香椎』
  4. ^ a b c d e f g h i #日本海軍艦艇図面集図42-1、「練習巡洋艦 香取型 鹿島 一般艤装図 1/2」舷外側面、上部平面。
  5. ^ a b c d e #戦史叢書31海軍軍戦備1pp.532-535
  6. ^ 『艦艇、特務艦本籍別一覧表 昭和十五年十二月二十五日調』、#S15-12-25内令提要/巻3 追録/第13類 艦船(1)画像11
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n #艦船要目公表範囲(昭和17年6月30日)p.4『鹿島|練習巡洋艦|長(米)129.65|幅(米)15.95|喫水(米)5.47|排水量(噸)基準5,800|速力(節)18.0|短艇數7|製造所 三菱横濱船渠|起工13-10-6|進水14-9-25|竣工15-5-31|大砲14.0cm…4、12.7cm高角2|発射管4|探照燈2|機械 種類 數「タルビン」2「ヂーゼル」2|罐 種類 數 艦本式3|推進器數2|馬力8,000』
  8. ^ a b c d e f 伊達久「軽巡洋艦『香取、鹿島、香椎』行動年表」#重巡利根型 軽巡香取型pp.56-57
  9. ^ a b c d 運輸省海運総局掃海管船部管船課「日本海軍終戦時残存(内地)艦艇処分状況(1948年3月20日現在)」p.21、#終戦と帝国艦艇(復刻版)巻末資料2。
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m #軍艦基本計画資料Sheet7
  11. ^ #昭和造船史1pp.784-785
  12. ^ a b c d e f g #鹿島引渡目録p.1『二.要目表』
  13. ^ a b c #終戦時の日本海軍艦艇p.13
  14. ^ a b c d e f #JapaneseCruisersp.667, Table13.3 "Stability Data of the Katori Class". 1940年5月22日の鹿島の値。
  15. ^ a b c d e #重巡利根型 軽巡香取型pp.46-47
  16. ^ #JapaneseCruisersp.833
  17. ^ a b c d e f g h #海軍造船技術概要pp.1693-1694
  18. ^ #海軍造船技術概要pp.371-372
  19. ^ 昭和15年5月31日付 海軍内令 第358号改正、海軍定員令「第48表ノ3 練習巡洋艦定員表」。この数字は飛行科要員を含み、候補生を含まない。
  20. ^ #S20.1-S20.3第102戦隊日誌AS作戦(1)画像15、士官18名、特務士官・准士官24名、下士官182名、兵448名、傭人3名。
  21. ^ #S20.1-S20.3第102戦隊日誌AS作戦(1)画像14、准士官以上6名、下士官兵46名。電信兵26名未転入(1月中)。
  22. ^ a b c #重巡利根型 軽巡香取型p.48
  23. ^ a b #S17.2佐鎮日誌(5)画像20-21、2月21日海軍大臣発、官房機密第2208号 『軍艦香椎爆雷兵装新設ノ件訓令 佐世保海軍工廠ヲシテ首題ノ件左記ニ依リ施行セシムベシ 記 一、工事要領 爆雷手動投下台四個ヲ後甲板適当ナル位置ニ装備ス但シ本兵装ハ戦時中ノミ仮装備トス 二、所要兵器 爆雷手動投下台一型 二組「四個」在庫品 三、試験 施行セズ 四、完成期 時期ヲ得次第成ルベク速ニ 五、費目 艦艇製造費、艦艇製造費、造船費造兵費第百一號艦(船)(水)別途配布豫算内支弁トス』。 #S17.2横鎮日誌(4)画像25、1942年2月24日『横工廠ヲシテ軍艦香取爆雷兵装新設ノ件訓令受領(官房機密第二二〇八)号』
  24. ^ #JapaneseCruisersp.834 "Armor and Protective Plating".
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  27. ^ a b 鈴木範樹「帝国海軍最後の練習艦隊」#重巡利根型 軽巡香取型p.54
  28. ^ a b c #重巡利根型 軽巡香取型p.63上写真とその解説。
  29. ^ #重巡利根型 軽巡香取型p.60下写真の解説。
  30. ^ a b c d #S18.12-S20.5呉練習戦隊日誌(1)画像4、昭和18年12月の経過『 (一)十二月一日附呉練習戦隊ヲ編制セラレ同日附鹿島、磐手、八雲ヲ十二月三十一日附香椎ヲ麾下ニ編入セラル (二)練習兼警備ノ新任務ニ備ヘ船体、兵器、機関ノ整備並乗員ノ教育、訓練ヲ実施セリ』
  31. ^ a b #JapaneseCruisersp.675,"The Kashima as a Training Ship at Kure(December 1943-January 1945)".
  32. ^ a b c d #S20.1-S20.3第102戦隊日誌AS作戦(1)画像4、昭和20年1月の第102戦隊戦時日誌『一、経過 一月一日第百二戦隊(鹿島、御蔵、屋代、海二、海三三、海三四、海三五)編制セラル 三日海上護衛総司令部内ニ於テ事務ヲ開始シ六日鹿島ニ将旗ヲ掲揚ス 呉在泊中所在1EF所属艦艇ノ修理工事ノ促進連絡教育訓練ノ統制指導ヲ行フ 鹿島ハ呉ニ於テ訓令諸工事及修理施行後二十三日ヨリ佐伯湾方面ニ行動諸訓練ニ従事シツツ待機 各海防艦ハ船団護衛ニ従事ス』
  33. ^ a b c d #重巡利根型 軽巡香取型p.62の写真とその解説。
  34. ^ #重巡利根型 軽巡香取型p.63下写真とその解説。
  35. ^ a b #海軍艦艇史2p.447、No.2859の写真
  36. ^ a b c #艦艇写真集(2005)巡洋艦p.184
  37. ^ #重巡利根型 軽巡香取型p.60下写真、同p.61下写真、同p.62上写真。
  38. ^ a b c #重巡利根型 軽巡香取型p.49
  39. ^ #写真日本の軍艦第9巻p.161、1941年9月下旬の香取の写真。
  40. ^ a b #S20.01-S20.03第1海上護衛隊日誌(1)画像12、(五)入渠修理工事実施のため行動せざりし艦艇。
  41. ^ 「あ号作戦後の兵装増備の状況調査」#世界巡洋艦物語p.355の図、及び同p.356の表。
  42. ^ #S20.1-S20.3第102戦隊日誌AS作戦(1)画像41、第102戦隊戦時日誌(昭和20年2月分)の参考事項『(三)AS1作戦用トシテ鹿島ニ搭載輸送セシモノ 爆雷三〇〇個 爆弾二十五番一〇発 六番二〇発 航空揮発油 二九〇罐(五八 キロリットル※) 零式水偵二機搭載上必要なる諸物件』※キロリットルは漢字1字で「立」に「千」と書かれている。
  43. ^ #S20.1-S20.3第102戦隊日誌AS作戦(1)画像19
  44. ^ #鹿島引渡目録画像8、三.現状摘要のうち電測兵器、水測兵器の欄。逆探は電波探知機と表記。
  45. ^ a b c 昭和15年5月31日(発令5月31日付)海軍辞令公報(部内限)第485号 p.46」 アジア歴史資料センター Ref.C13072078100 
  46. ^ 昭和15年6月1日(発令6月1日付)海軍辞令公報(部内限)第487号 p.24」 アジア歴史資料センター Ref.C13072078200 
  47. ^ 昭和15年8月8日(木)海軍公報(部内限)第3574号 pp.42-43」 アジア歴史資料センター Ref.C12070389400 
  48. ^ 昭和15年8月10日(土)海軍公報(部内限)第3576号 pp.51-52」 アジア歴史資料センター Ref.C12070389400 
  49. ^ 昭和15年8月14日(水)海軍公報(部内限)第3579号 pp.10-11」 アジア歴史資料センター Ref.C12070389500 
  50. ^ 昭和15年8月19日(月)海軍公報(部内限)第3583号 pp.25-26」 アジア歴史資料センター Ref.C12070389500 
  51. ^ 昭和15年8月22日(木)海軍公報(部内限)第3586号 pp.8-9」 アジア歴史資料センター Ref.C12070389600 
  52. ^ a b #叢書38中部太平洋(1)79-82頁『昭和十六年度の艦隊の改編』
  53. ^ #高松宮日記3巻196-197頁『初めにLC〔軽巡洋艦〕をうつたら、「北上」で味方だつた。次に「伊セ」。之がは間違なかつたが、陸奥型仮想の「鹿島」を打てと云ふので、うつてゐたら弾庫カラになる頃、艦橋から方向角シラセと云ふので、云つたら「大鯨」だつた。ヨくと見たらわきに、大きく「カシマ」が近づいてゐた。』
  54. ^ a b c d #叢書38中部太平洋(1)99頁『昭和十六年度第四艦隊行動一覧表』
  55. ^ #高松宮日記3巻245頁
  56. ^ #高松宮日記3巻246頁
  57. ^ #高松宮日記3巻247頁
  58. ^ a b #叢書38中部太平洋(1)98-100頁『第四艦隊の整備方針』
  59. ^ 昭和16年8月11日(発令8月11日付)海軍辞令公報(部内限)第688号 p.21」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081700 
  60. ^ #叢書38中部太平洋(1)85-86頁『各級指揮官集合と東京、岩國での打ち合わせ』
  61. ^ a b #叢書38中部太平洋(1)87-94頁『戦時艦隊編制の改定(抜粋)(昭16.12.10付)』
  62. ^ #S1612十八戦隊日誌(1)p.3『(一)一般情勢 十一月五日機密聯合艦隊命令作第一號仝二十一日機密南洋部隊命令作第一號夫々發令セラレ着々戰備ヲ整ヘツツアリシガ十二月一日當隊編成セラレ同二日司令官着任仝年十二月八日ヲ期シ開戰ノコトニ定メラレタル旨下達セセラレタリ』
  63. ^ a b c d #軽巡二十五隻341-342頁『鹿島(かしま)』
  64. ^ a b #S1612十九戦隊日誌(1)pp.8-9『三日二〇三〇第四艦隊司令長官|五日〇三二〇第四艦隊各司令官 第六戰隊司令官|機密南洋部隊電令作第七號 各部隊ハ指揮官ノ定ムル所ニヨリ對敵警戒ヲ厳ニセヨ 鹿島ハ「トラック」在泊中第三警戒碇泊ニ準ジ警戒ス』
  65. ^ #わが祖父96頁
  66. ^ #鉄底海峡23頁
  67. ^ #叢書38中部太平洋(1)123-124頁『南洋部隊に編入の部隊』
  68. ^ #S1612十九戦隊日誌(1)p.14『十日一三〇〇第十九戰隊司令官(宛略)一.〇一三〇「マキン」島及「タラワ」島(RY)ヲ占領一三〇〇』
  69. ^ #叢書38中部太平洋(1)314頁『トラック入港の機動部隊の上空哨戒とラバウル空襲』
  70. ^ #第4艦隊日誌(1)pp.12『四.参考(イ)麾下艦船部隊ノ行動(其ノ一)一月』
  71. ^ #第4艦隊日誌(1)pp.22『(イ)麾下艦船部隊ノ行動(其ノ一)』(昭和十七年二月)
  72. ^ #叢書38中部太平洋(1)437頁『二十一日早朝のラバウル空襲企図』
  73. ^ #叢書38中部太平洋(1)430頁『坂井機の敵発見報告と攻撃命令の下令』
  74. ^ #高松宮日記4巻130-132頁
  75. ^ #S1702十九戦隊日誌(1)p.23『別紙第三 第十九戰隊(二番艦以下欠)行動圖 自二月二十日至二月二十三日』
  76. ^ #S1702十九戦隊日誌(1)p.50『二十日第六戰隊司令官|二十日一三〇〇第六戰隊 第十八戰隊司令官〔第四艦隊司令長官 第十九戰隊司令官 第四根拠地隊司令官〕|出港時刻一三三〇ニ改ム 出港順序 六戰隊十八戰隊一四三〇 二十節即時 二十四節 三〇分 最大戰速一時間待機トナセ』
  77. ^ #S1702十八戦隊日誌(1)p.9『(オ)二十一日第六水雷戰隊第二十三駆逐隊ト合同支援部隊集結ス』
  78. ^ #S1702六水戦詳報(6)pp.17-18『(5)二十一日一一〇〇北緯一度二〇分東経一五二度〇分ニ於テ第六戰隊第十八戰隊第二十三駆逐隊ト合同シ爾後支援部隊指揮官ノ直接指揮下ニ在リテ概ネ六〇度方向ニ索敵進撃ス』
  79. ^ #S1702十八戦隊日誌(4)p.4『(二)艦隊編制軍隊区分及任務 第十八戰隊(旗艦天龍、2龍田)/支援部隊 指揮官第六戰隊司令官(第六戰隊第十八戰隊第六水雷戰隊第二十三駆逐隊)前記敵大部隊撃滅』
  80. ^ #祥鳳日誌(3)p.3『○二月十八日 本艦戦斗機補充竝ニ基地訓練ノ爲「トラツク」發「パラオ」ニ向ケ廻航中二月二十日敵機動部隊「ラバウル」東方海面ニ出現スルヤ命ニ依リ急遽反転二月二十二日「トラツク」南東海面ニ到達同日〇五〇〇支援部隊指揮官ノ指揮下ニ入リ作戰ス 同日夕刻的機動部隊ノ敗走後支援部隊指揮官ノ指揮ヲ解カレ再ビ前記任務ヲ以テ「パラオ」ニ廻航中…』
  81. ^ #叢書38中部太平洋(1)431-432頁『「祥鳳」のトラック南方海面への待機』
  82. ^ #S1702十九戦隊日誌(1)p.7『(2)「R」東方海面ニ出現セル敵機動部隊邀撃ノ爲第四艦隊司令長官直率ニテ二十日一五三〇「トラツク」南方海面ニ出撃二十三日〇八〇〇「トラツク」ニ入泊』
  83. ^ #叢書38中部太平洋(1)454-455頁『水上艦艇部隊』
  84. ^ a b #叢書38中部太平洋(1)562頁『南洋部隊指揮官のラバウル進出』
  85. ^ #高松宮日記4巻281頁
  86. ^ #S1704第二海上護衛隊日誌(1)p.53『II編制ノ経過概要 7月中旬以降當隊ノ編制右ノ如ク改メラレ稍兵力ノ充実ヲ見ルモ第三十駆逐隊ハ當隊ノ任務ニ従事スルニ至ラズシテ當隊ヨリ除カレ、夕張、第二十九駆逐隊又「ソロモン」「ニューギニヤ」方面作戦ニ従事中ニシテ本月ハ當隊固有ノ護衛任務ニ服スル機会ナク、専ラ能代丸、長運丸ノ2艦ニ依リ當隊任務ヲ遂行セリ』
  87. ^ #S1709八艦隊日誌(1)p.8『第八艦隊(七月十四日編成)第六戰隊ヲ加ヘ外南洋部隊トナル』
  88. ^ #S1707加古日誌pp.4-5『(二)友軍ノ状況 大東亜戦々局ノ趨勢ハ遂ニ外南洋方面ヲ以テ名実共ニ彼我攻防ノ最前線タラシムルニ至リ當方面部隊ノ任務倍々重大タラントスルノ期ニ際シ本月中旬艦隊編制替並ニ聯合艦隊第二段作戰第二期(後段)兵力部署発令セラレ新ニ第八艦隊及第六戰隊ヲ以テ外南洋部隊ヲ編制シ第四艦隊ノ任務ヲ継承シテSN作戰及「リ」號研究作戰ヲ續行以テ次期作戰ニ備フルト共ニR方面防備ノ強化ヲ図ルコトヽナレリ』
  89. ^ 昭和17年7月14日(発令7月14日付)海軍辞令公報(部内限)第899号 p.50」 アジア歴史資料センター Ref.C13072086200 
  90. ^ #S1709八艦隊日誌(1)pp.9-10『(1)中央及其ノ他トノ連絡 七月十四日附第八艦隊編成セラレ十六日鳥海ニ将旗ヲ掲揚ス 第四艦隊第八艦隊分擔境界線ヲ零度東経一五〇度ヲ通ズル二八〇度線トシ第四第八艦隊擔任区域方面ニ敵来襲ノ際要スレバ第十一航空艦隊長官ハ第四、第六及第八艦隊ヲ統一指揮ス/第八艦隊長官現地進出迄第四艦隊長官ハ現地所在第八艦隊兵力ヲ指揮シ従來ノ作戰ヲ續行ス/七月十九日鳥海(第九駆逐隊一小隊護衛艦トシテ随伴)ヲ率ヒ「トラツク」ニ向ケ桂島發二十四日同地着第四艦隊司令長官ヨリ任務継承ニ関シ申継ヲ受ク』
  91. ^ a b #第4艦隊日誌(2)pp.42-44
  92. ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』211、220ページ
  93. ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』220-221ページ
  94. ^ #第4艦隊日誌(3)pp.9-11,pp.16-18,pp.19-21,pp.23-25
  95. ^ #第4艦隊日誌(3)p.32『八(天候略)将旗陸上假廰舎移揚 鹿島修理ノタメ…ニ向ケPT発』
  96. ^ #S1804佐伯防備隊日誌(2)p.11『四月十二日一四二〇呉防戰司令官|豊後防備部隊〔伯司令 呉鎮長官 鹿嶋艦長 初風艦長〕|電令作第一四三號 一.鹿島初風四月十三日一九三〇ノ位置二九度四六分北一三四度一二分東冲島ニ向フ実速力十五節(以下略)』
  97. ^ a b #S1801二水戦日誌(6)p.6『五月二四日 五月二九日|海風|冲鷹雲鷹鹿島筑紫|横須賀→「トラック」』
  98. ^ a b c #第4艦隊日誌(3)pp.35-37
  99. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)386頁
  100. ^ a b c #第4艦隊日誌(4)pp.19-21
  101. ^ a b #S1808護国丸(4)p.22『長鯨艦長(宛略)長鯨機密第一八〇四〇〇番電発長鯨艦長 長鯨鹿島護國丸若月呉ニ向ケ「トラツク」発』
  102. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)518頁
  103. ^ #S1808護国丸(4)p.10『一八(天候略)〇三五六出港用意(長鯨鹿島若月)山雲ハ礁外二〇〇浬迄本船団護衛ニ任ズ』
  104. ^ #S1808護国丸(4)p.10『一九(天候略)〇六〇〇山雲護衛ヲ止メ解列(以下略)』
  105. ^ a b #S1811佐伯防備隊日誌(2)p.35『十一月十九日一六四三呉防戰司令官(宛略)電令作第三九八號 一.長鯨鹿島護國丸若月二十三日二十四日正午位置N25°0.5'E139°0.5'、N28°28'E136°17'西水道ニ向フ(以下略)』
  106. ^ #S1808護国丸(4)pp.11-12『二五(天候略)〇七五〇若月解列横須賀ニ向フ警戒航行止ム(略)〇八一七豊後水道西水道ニ入ル/一六一一入港用意』
  107. ^ a b #S18.12-S20.5呉練習戦隊日誌(1)画像4-6
  108. ^ #S18.12-S20.5呉練習戦隊日誌(1)画像13、昭和19年1月の経過『 (一)鹿島、磐手、八雲 (イ)一月十五日迄補給、整備並ニ単独訓練ニ従事スルト共ニ一部兵学校岩国分校教育ニ協力セシム (ロ)所在海面ノ防衛並ニ対潜、対空警戒ニ任ズルト共ニ一月十六日以降兵学校生徒乗艦実習ニ従事セリ (二)香椎 船体、兵器、機関ノ整備並単独訓練ニ従事セリ』
  109. ^ #S18.12-S20.5呉練習戦隊日誌(1)画像27、令達報告等『二月二十三日呉鎮守府司令長官発文書、二月二十六日呉練習戦隊司令官受 機密呉鎮守府日令第四二號 左ニ依リ官房艦機密第八五〇號訓令実験ヲ施行セシム 一、使用艦艇 (イ)発射艦 軍艦鹿島 (ロ)目標艦等別ニ指示ス 二、実施要領 官房艦機密第八六〇號訓令ノ通(以下略)』
  110. ^ #S18.12-S20.5呉練習戦隊日誌(1)画像35、令達報告等『三月十日海軍大臣発文書 三月十七日呉鎮守府司令長官受 (呉練習艦隊司令官通達) 官房軍機密三一二號 海軍兵学校卒業式当日同校ヘ差遣ノ皇族御乗用トシテ軍艦鹿島(予備軍艦香椎)ヲ充ツル様取計フヘシ』『三月十八日呉鎮守府司令長官発信號、三月十八日呉練習戦隊司令官受 (海軍省、海軍兵学校通達) 信令第一四一號 呉練習戦隊司令官ハ軍艦鹿島(予備軍艦香椎)ヲシテ官房軍機密第三一二號ニヨル役務ニ従事セシムベシ』
  111. ^ a b c d #S18.12-S20.5呉練習戦隊日誌(1)画像32
  112. ^ #S18.12-S20.5呉練習戦隊日誌(1)画像39、昭和19年4月の経過『 (三)所在海面ノ防衛並ニ対潜対空警戒ニ任ズルト共ニ自四月一日至四月三十日期間兵学校生徒乗艦実習ニ従事セリ』
  113. ^ a b #S18.12-S20.5呉練習戦隊日誌(1)画像48、『(二)麾下艦船部隊ノ行動』(昭和19年5月)
  114. ^ #S18.12-S20.5呉練習戦隊日誌(2)画像3、昭和19年6月の経過『(一)所在海面ノ防衛並ニ対潜対空警戒ニ任ズルト共ニ海軍兵学校生徒乗艦実習ニ従事セリ』
  115. ^ #S19.4-S20.2呉鎮日誌(4)画像50、7月11日『鹿島ハGF指揮下ニ入リ「ロ」號作戦輸送部隊ニ編入セラル』
  116. ^ #S1906十一水戦(2)pp.5-6『(四)麾下艦船部隊竝ニ訓練部隊一時加入艦船ノ行動』
  117. ^ #ろ号作戦pp.29-30『(イ)第一軍隊区分』
  118. ^ a b #ろ号作戦p.7『十七(天候略)一八〇二長良冬月霜月竹鹿島中城湾着/二三〇〇冬月清霜竹南大東島ニ向ケ中城湾発輸送物件人員陸揚』
  119. ^ #S18.12-S20.5呉練習戦隊日誌(2)画像17、(昭和19年7月12日)『海軍豫備学生出身海軍少尉実習開始』
  120. ^ #S18.12-S20.5呉練習戦隊日誌(2)画像15、昭和19年7月の経過『(一)所在海面ノ防衛並ニ対潜対空警戒ニ任ズルト共ニ補給整備並ニ戦隊訓練及海軍豫備学生出身海軍少尉実務練習任務ニ従事 (二)鹿島七月九日附一時連合艦隊司令長官ノ指揮下ニ入レラレタルニ依リ旗艦ヲ出雲ニ変更実務練習ノ為鹿島ニ配乗スベキ海軍豫備学生出身海軍少尉(実習員)ヲ出雲、磐手、八雲ニ分乗セシム、七月二十日鹿島任務解除ニ依リ同艦ニ復皈セシメタルノ外実務練習教育ハ順調ニ行ワレツツアリ (三)鹿島再ビ一時当隊ノ指揮下ヲ離レ特別任務ニ従事 八雲七月三十一日附当隊ノ指揮下ヲ離レ連合艦隊司令長官ノ』
  121. ^ #S18.12-S20.5呉練習戦隊日誌(2)画像29、昭和19年8月の経過『(一)所在海面ノ防衛並ニ対潜対空警戒ニ任ズルト共ニ補給整備及諸訓練ニ従事 (二)七月十日附任官ノ海軍豫備学生出身海軍少尉ノ実務練習ハ順調ニ行ハレツツアリ殊ニ鹿島、八雲ニ於テ実習中ノ者ハ両艦共ニ特別任務中ノ為外戦部隊ノ実戦及訓練ヲ体験スルノ機会ニ恵マレツツアリ』
  122. ^ a b c #S18.12-S20.5呉練習戦隊日誌(2)画像41、9月の経過『(二)九月十二日旗艦ヲ出雲ヨリ鹿島ニ変更セルモ鹿島九月十七日附一時連行艦隊司令長官ノ指揮下ニ入レシメラレタルニ依リ同十八日再ビ出雲ニ変更鹿島ニ乗艦実習中ノ海軍豫備学生出身海軍少尉(七月十一日以降ヨリ実習中ノ航海班ノモノ)ヲ出雲磐手ニ分乗セシム』
  123. ^ #S18.12-S20.5呉練習戦隊日誌(2)画像49、高雄空司令長官発、17日19時10分呉鎮司令長官受(KRS司令官・佐鎮司令長官・GF司令長官・2AF司令長官・11Sd司令官通報)、高雄空司令長官機密第17047番電『発第二航空艦隊参謀長 大海機密第一六一九〇八番電 軍艦鹿島ニ依ル当艦隊台湾転進部隊ノ人員物件ノ輸送ハ鹿児島基隆間ト致度ニ付同艦鹿児島湾入港至急知ラサレ度』
  124. ^ a b #S18.12-S20.5呉練習戦隊日誌(3)画像12、22日鹿島発、22日21時50分GF司令長官・2AF司令長官受(KRS司令官・呉鎮司令長官通報)、鹿島機密第221700番電(無電)『鹿島三十駆逐隊高雄着』
  125. ^ #S18.12-S20.5呉練習戦隊日誌(3)画像17、11月の経過『所在海面ノ防御並ニ対潜対空警戒ニ任ズルト共ニ主トシテ海軍兵学校生徒ノ乗艦実習ニ従事シ実習期間以外呉ニ在リテ訓練整備(訓令工事)及補給ニ任ゼリ』。同画像17-19『(一)麾下艦船部隊ノ行動』
  126. ^ #S18.12-S20.5呉練習戦隊日誌(3)画像27、12月の経過(1)(2)『(一)所在海面ノ防御並ニ対潜対空警戒ニ任ズルト共ニ補給整備及主トシテ海軍兵学校生徒並ニ海軍砲術学校練習生ノ乗艦実習ニ従事シ豫定通順調ニ経過セリ (二)十二月26日以降約三カ月間ノ豫定ヲ以テ出雲型三隻ニ一般兵科豫備学生出身海軍少尉九五名同豫備生徒出身海軍少尉候補生二九名配乗セラレ目下実務練習中』
  127. ^ #S18.12-S20.5呉練習戦隊日誌(3)画像27-29
  128. ^ 昭和20年1月9日(発令1月7日付)海軍辞令公報(甲)第1686号 p.27」 アジア歴史資料センター Ref.C13072102800 
  129. ^ a b c d e #S20.1-S20.3第102戦隊日誌AS作戦(1)画像22-23、経過(2月)
  130. ^ #S20.01-S20.03第1海上護衛隊日誌(1)画像36、(ロ)作戦海域。
  131. ^ #S20.01-S20.03第1海上護衛隊日誌(1)画像36、『1EF機密第一二一七五五番電 1EF電令第六二號(AS1作戦下令時発動) 一、百二戦隊及九三一空ヲ以テAS1部隊ヲ編成 百二戦隊司令官ヲ同部隊指揮官トス 九三一空参加兵力同隊司令所定』(二、以降略)。
  132. ^ #S20.1-S20.3第102戦隊日誌AS作戦(2)画像5、(註)。
  133. ^ #鹿島日誌(1)p.18-19
  134. ^ a b c #鹿島日誌(2)p.15-16
  135. ^ #JapaneseCruisersp.676
  136. ^ #叢書6中部太平洋陸軍作戦(1) 付表第6
  137. ^ 昭和14年9月28日(木)海軍公報(部内限)第3323号 p.31」 アジア歴史資料センター Ref.C12070381300 『○事務所設置 鹿島艤装員事務所ヲ横濱市中區緑町三丁目四番地ノ二 三菱重工株式會社横濱船渠内ニ設置シ九月二十五日事務ヲ開始セリ』
  138. ^ 昭和15年5月31日(金)海軍公報(部内限)第3515号 p.15」 アジア歴史資料センター Ref.C12070388100 『○事務所撤去 三菱重工株式會社横濱船渠内鹿島艤装員事務所ハ本月五月三十一日撤去ス』
  139. ^ #第4艦隊日誌(1)pp.36-38『四.参考(イ)麾下艦船部隊ノ行動(其ノ一)』(昭和十七年三月)
  140. ^ #第4艦隊日誌(2)pp.3-4『四.参考(イ)麾下艦船部隊ノ行動(其ノ一)』(昭和十七年四月)
  141. ^ a b c d #第4艦隊日誌(2)pp.12-14『四.参考(イ)麾下艦船部隊ノ行動(其ノ一)』(昭和十七年五月)
  142. ^ #叢書38中部太平洋(1)571頁
  143. ^ #高松宮日記4巻319頁
  144. ^ a b c #第4艦隊日誌(2)pp.27-29
  145. ^ #S1707呉防戦日誌(1)p.31『二六(天候略)一.鹿島豊後水道入泊掩護/二.第二東亜丸豊後水道南下掩護/三.朝潮下関海峡入泊掩護(略)』
  146. ^ #第4艦隊日誌(2)pp.48-50
  147. ^ #第4艦隊日誌(3)pp.3-5『四.参考(イ)麾下艦船部隊ノ行動(其ノ一)』(昭和十七年十一月)
  148. ^ #第4艦隊日誌(3)pp.29-31
  149. ^ #第4艦隊日誌(3)pp.49-51
  150. ^ #第4艦隊日誌(4)pp.5-7
  151. ^ #S18.12-S20.5呉練習戦隊日誌(1)画像14-15
  152. ^ a b #S18.12-S20.5呉練習戦隊日誌(1)画像22-24、『(三)麾下艦船部隊ノ行動』(昭和19年2月)
  153. ^ #S18.12-S20.5呉練習戦隊日誌(1)画像22、昭和19年2月の経過『 (三)所在海面ノ防衛並ニ対潜対空警戒ニ任ズルト共ニ二月十三日以降兵学校生徒乗艦実習ニ従事セリ』
  154. ^ #S18.12-S20.5呉練習戦隊日誌(1)画像31、昭和19年3月の経過『(五)所在海面ノ防衛並ニ対潜、対空警戒ニ任ズルト共ニ自三月一日至三月四日期間兵学校生徒乗艦実習ニ従事セリ』
  155. ^ #S18.12-S20.5呉練習戦隊日誌(1)画像35、令達報告等『三月十四日呉鎮守府司令長官発文書、三月十五日呉練習戦隊司令官受 機密呉鎮守府命令第一〇五號 貴官ハ麾下二艦ヲシテ三月二十二日海軍兵学校卒業海軍少尉候補生ノ江田内、大阪間輸送ニ任ゼシムベシ』
  156. ^ #S19.4-S20.2呉鎮日誌(1)画像28-29『四月十五日附 鹿島ヲ呉練習戦隊ヨリ除キ海上護衛総司令部部隊ニ編入ス』
  157. ^ #S19.4-S20.2呉鎮日誌(1)画像37、4月25日発無電、軍令部機密第250000番電(妙録)『一、鹿島ヲ海上護衛総司令部部隊ヨリ除キ呉練習戦隊ニ編入』
  158. ^ #S19.4-S20.2呉鎮日誌(2)画像6、麾下艦船(特設を含む)の行動。
  159. ^ #S18.12-S20.5呉練習戦隊日誌(2)画像16、(昭和19年7月)『八日 鹿島一時当隊ノ指揮下ヲ離レタルニ付旗艦ヲ出雲ニ変更』
  160. ^ #ろ号作戦p.6『十五|中津湾|(天候略)|〇八三〇摩耶入港/〇九〇〇輸送作戰打合セ/一八〇〇中津湾出撃』
  161. ^ #ろ号作戦p.8『十九(天候略)|〇一〇〇長良鹿島冬月清霜竹中城湾発/〇七〇〇清霜七六二空搭乗員救助作業ノ爲解列』
  162. ^ #ろ号作戦p.8『二〇(天候略)|一六〇六冬月機械故障ノ為列外ニ出ル/一六二七舵故障復旧列ニ入ル/二三〇二長良冬月竹八島着 呂号作戰部隊ノ編成ヲ解ク』
  163. ^ #S19.4-S20.2呉鎮日誌(4)画像53、7月20日『三、鹿島ハ内海西部帰着「ロ」號作戦輸送部隊ノ編成ヲ解カル』
  164. ^ #S19.4-S20.2呉鎮日誌(4)画像43、7月28日20時9分総長発、29日1時20分呉鎮・佐鎮・GF受 大海機密第282009番電(有線)『大海指第四三八號 一、GF長官及呉鎮長官ハ夫々長良、長鯨、鹿島、迅鯨ヲシテ南西諸島方面ニ対スル作戦輸送ニ関シ佐鎮長官ノ指揮ヲ承ケシムルモノトス 二、(略) 三、呉鎮長官ハ長鯨第一號任務従事中呉練戦ノ一艦ヲシテGF長官ノ指揮ヲ承ケ11SS訓練任務ニ任ゼシムルモノトス』
  165. ^ #S18.12-S20.5呉練習戦隊日誌(2)画像32-33
  166. ^ #S18.12-S20.5呉練習戦隊日誌(2)画像34、令達報告等(19年8月)『鹿島艦長発無電 八月一日一四〇〇 呉練戦司令官、大臣、総長、GF各司令長官司令官、佐鎮司令長官受 鹿島機密第〇一一二〇〇番電 本艦二日〇六〇〇佐世保ニ向ケ呉発』
  167. ^ #S18.12-S20.5呉練習戦隊日誌(2)画像34、令達報告等(19年8月)『鹿島艦長発無電 八月三日二一三三 呉練戦司令官、呉鎮、佐鎮司令長官、大臣、総長受 鹿島機密第〇三一六三〇番電 本艦三日一六三二〇佐世保着』
  168. ^ #S19.4-S20.2呉鎮日誌(5)画像36、8月29日19時49分総長発、30日5時58分呉鎮・佐鎮・GF受、大海機密第291949番電(無電)『大海指第四五五号 大海指第四三八號ニ依ル鹿島ニ対スル佐鎮長官ノ指揮ヲ解ク』
  169. ^ #S18.12-S20.5呉練習戦隊日誌(2)画像47、鹿島発、9月1日13時25分KRS司令官・大臣・総長・呉鎮司令長官受(佐鎮司令長官・2AF通報)、鹿島機密第011204番電(無電)『一二〇〇呉着』
  170. ^ #S18.12-S20.5呉練習戦隊日誌(2)画像40
  171. ^ #S18.12-S20.5呉練習戦隊日誌(2)画像49、20日鹿島発、21日12時KRS司令官・呉鎮司令長官・総長・大臣・2AF・31S受、鹿島機密第201745番電『第四十三駆逐隊ヲ率ヰ一七三〇鹿児島着』
  172. ^ #S18.12-S20.5呉練習戦隊日誌(3)画像8、1日鹿島発、大臣・総長・呉鎮司令長官・呉練戦司令官受、鹿島機密第011330番電『一三三〇呉着』
  173. ^ #S18.12-S20.5呉練習戦隊日誌(3)画像10-11、11日大本営海軍部発、12日午前0時50分呉鎮司令長官・GF司令長官受(呉鎮??・2AF司令長官・25SF司令官・下防通報)、大海機密第111903番電(無電)『大海指第四七四號 昭和十九年十月十二日 軍令部総長 及川古志郎 豊田連合艦隊司令長官ニ指示 澤本呉鎮守府司令長官ニ指示 呉鎮長官ハ鹿島ヲシテ内地ヨリ台湾方面ニ展開スベキ二航空艦隊基地員並ニ物件ノ輸送ニ関シ連合艦隊司令長官ノ指揮ヲ承ケシムルモノトス』
  174. ^ #S18.12-S20.5呉練習戦隊日誌(3)画像11、12日呉鎮司令長官発、KRS司令官受(GF司令長官・2AF司令長官・25SF司令官・大海一部・佐鎮司令長官・鹿島・沖縄根司令官通報)、呉鎮機密第120820番電(無電)『呉鎮電令作第四四號 呉練習戦隊司令官ハ鹿島ヲシテ内地ヨリ台湾方面ニ展開スベキ二航空艦隊基地員及物件ノ輸送ニ関シGF司令長官ノ指揮ヲ承ケシムベシ』
  175. ^ #S18.12-S20.5呉練習戦隊日誌(3)画像11、12日鹿島発、KRS司令官・呉鎮司令長官・佐鎮司令長官受、鹿島機密第121800番電(無電)『鹿島行動予定 十二日一八〇〇呉発 十三日〇八〇〇関門通過 一四〇〇ニ神島 一八三〇寺島水道仮泊 十四日〇五〇〇仮泊地発(梅桃合同) 〇八〇〇野母崎 一一〇〇甑島海峡 一三三〇坊ノ岬 一七三〇鹿児島着』
  176. ^ a b #S19.6.1-S19.12.13第30駆逐隊日誌詳報(3)画像3-4、『作戦経過概要 昭和十九年十月 第三十駆逐隊』
  177. ^ #S18.12-S20.5呉練習戦隊日誌(3)画像13、28日鹿島発、28日20時34分KRS司令官・GF司令長官・2AF司令長官・呉鎮司令長官・大臣・総長受、鹿島機密第281720番電(無電)『佐世保ニ於テ三十駆逐隊ヲ分離一七〇〇呉着』。28日鹿島発、28日17時30分KRS司令官受、信号『一七〇〇著異常ナシ』
  178. ^ #S20.1-S20.3第102戦隊日誌AS作戦(1)画像5-7、麾下艦船部隊の行動(1月)
  179. ^ a b c #S20.1-S20.3第102戦隊日誌AS作戦(1)画像24-26、麾下艦船部隊の行動(2月)
  180. ^ #S20.1-S20.3第102戦隊日誌AS作戦(1)画像12、『二十七日、二十九日、三十日対潜訓練隊共同同隊指導下基礎的術力ノ練成ニ従事(鹿島)』
  181. ^ #S20.1-S20.3第102戦隊日誌AS作戦(1)画像29、作戦経過概要、13日の項。
  182. ^ #S20.1-S20.3第102戦隊日誌AS作戦(1)画像39、五、参考事項、(一)モタ三六船団護衛任務
  183. ^ a b #S20.1-S20.3第102戦隊日誌AS作戦(2)画像3-5、経過(3月)
  184. ^ a b c #鹿島日誌(1) p.36-37
  185. ^ #鹿島日誌(2)p.13
  186. ^ #鹿島日誌(2)p.3
  187. ^ 昭和20年12月1日付 第二復員省 内令第6号」 アジア歴史資料センター Ref.C12070535400 
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  193. ^ a b 昭和16年9月1日(発令9月1日付)海軍辞令公報(部内限)第701号 pp.2-3」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081900 
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  195. ^ a b 昭和18年7月1日(発令7月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1162号 p.2」 アジア歴史資料センター Ref.C13072092000 
  196. ^ a b 昭和18年10月22日(発令10月21日付)海軍辞令公報(部内限)第1245号 pp.31-32」 アジア歴史資料センター Ref.C13072093900 
  197. ^ a b 昭和18年12月3日(発令12月3日付)海軍辞令公報(部内限)第1273号 p.32」 アジア歴史資料センター Ref.C13072094700 
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  199. ^ a b 昭和19年5月15日(発令5月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1471号 p.8」 アジア歴史資料センター Ref.C13072098200 
  200. ^ a b 昭和19年8月16日(発令8月13日付)海軍辞令公報(甲)第1565号 p.5」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100600 
  201. ^ a b 昭和20年5月13日(発令4月28日付)海軍辞令公報(甲)第1798号 p.23」 アジア歴史資料センター Ref.C13072104800 
  202. ^ a b 昭和20年10月9日(発令9月27日付)海軍辞令公報(甲)第1946号 p.15」 アジア歴史資料センター Ref.C13072107900 
  203. ^ a b 昭和20年10月18日(発令10月2日付)海軍辞令公報(甲)第1955号 p.5」 アジア歴史資料センター Ref.C13072108000 
  204. ^ 昭和21年12月4日付 復員庁第二復員局辞令公報 甲 第102号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072160000 

関連項目

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外部リンク

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鹿島