鹿島 重好(かしま しげよし、天保元年(1830年) - 明治25年(1892年))は、日本商人政治家島根県会議員。米子町年寄。

鹿島 重好
かしま しげよし
生年月日 1830年
出生地鳥取県米子市
没年月日 1892年
前職 質屋

在任期間 1877年10月 -
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経歴

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米子に下鹿島家2代重意の四男として生まれ、嘉永7年(1854年)分家して岩倉町に住み“岩鹿”と称された[1]。家業は質屋醤油砂糖・荒物も商った[1]

安政7年(1860年)2月米子為替座御用を務め、文久2年(1862年)には藍座にも関与、慶応元年(1865年)2月町年寄仮役に任ぜられ、以後町年寄として働き、明治2年(1869年)4月荒尾氏自分手政治廃止後も町年寄役を命ぜられた[1]

明治5年(1872年)1月第83・84区の仮戸長となり、明治7年(1874年東倉吉町戸長となった[1]明治10年(1877年)10月島根県初の県会議員に選出された。この間米子勧業社の設立にもかかわった[1]

人物像

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重好は文人としても優れ、その歌は『鰒玉集』、『稲葉和歌集』にも採られている[1]。重好が記録した町年寄『御用日記』は、幕末・明治初年の米子に関する根本史料として価値は極めて高い[1]

家系

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参考文献

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  • 『鳥取県大百科事典』(編集・新日本海新聞社鳥取県大百科事典編集委員会)1984年 169頁

関連

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g 『鳥取県大百科事典』169頁

外部リンク

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