鶴見守義
司法官
鶴見 守義(つるみ もりよし、1858年4月25日(安政5年3月12日[1][2]) - 1939年(昭和14年)12月18日[3])は、明治から大正時代の司法官。大審院判事。関西法律学校創立者。
経歴
編集日光(現栃木県日光市)に生まれる[2][4]。1876年(明治9年)県の貢進によって司法省法学校に入学し[5]、1884年(明治17年)同校卒業と同時に司法省御用掛を拝命する[2]。1886年(明治19年)大阪始審裁判所判事補となり、同年6月、判事に、1890年(明治23年)には部長判事に進む[2]。1895年(明治28年)長崎控訴院判事に転じるまで在阪する[2]。この間、関西法律学校創立に関与し初代学監としてフランス民法を講じた[2]。1899年(明治32年)大審院判事となり、1922年(大正11年)まで務めた[2]。
親族
編集脚注
編集- ^ 人事興信所 1903, 545頁.
- ^ a b c d e f g “創立者|関西大学 年史編纂室”. 関西大学. 2024年7月23日閲覧。
- ^ 『官報』第3891号「彙報」昭和14年12月23日。
- ^ 身分は士族であるが、家系や父母、司法省法学校入学以前の経歴は不明(『関西大学百年史』 人物編 48頁)。
- ^ 入学時に「平賀守義」と名乗っていたが、その事情は不明(『関西大学百年史』 人物編 48頁)。
- ^ 人事興信所 1915, つ16頁.