鳥尾 鶴代(とりお つるよ、1912年5月25日 - 1991年12月27日)は、日本子爵・鳥尾敬光の妻。旧姓下條(げじょう)。のち鳥尾多江。美貌と社交術に長け、マダム鳥尾としてマスコミを賑わせた。下条正雄の孫。

経歴

編集

三井物産社員・下條小四郎の娘として、祖父の持つ東京市麹町区(現在の東京都千代田区)の豪邸で生まれ育った。祖父・下條桂谷(本名・下條正雄)は日本画家で貴族院議員。母方祖父は津田出1919年女子学習院初等科に入学。平民出身のため華族の生徒からいじめられた[1]1923年3月、神奈川県大磯に転居。聖心女子学院語学校に進学[1]

1932年11月23日、子爵・鳥尾敬光(のりみつ)と結婚。東京・音羽の7千坪の邸宅で夫の祖母と母と同居し[1]1933年9月4日、長男・鳥尾敬孝1935年に長女・絵美を生む。1937年から1940年、鳥尾家後見人の事業失敗によって東京市小石川区(現在の東京都文京区)の屋敷やその他の地所を失い、世田谷区深沢に転居。1945年6月、戦火を避けて長野県軽井沢町に疎開する。

1946年楢橋渡内閣書記官長宅で開かれたパーティでGHQ民政局次長チャールズ・ケーディスと知り合い、不倫関係に陥る[1]。これにより、ケーディスと鳥尾家は家族同然の交流を深める。鶴代がケーディスに接近したのには情報収集の任もあったという。ケーディスについては後年自著で「決断力、抱擁力、女子どもをいたわり養う力など、夫にないものをすべて持っていた」「ケーディスのセックスは満点に近かった」などと述べている[2]。かたわら、東銀座の洋装店に勤務して家計を助ける。橋本徹馬によると禁制品を売る店であってもってケーディスの愛人ということで不問にふされていたという[2]1948年、ケーディスは鶴代と温泉に入っているのを尾行中の警察に盗撮され、帰国[3]。ケーディス帰国にはGHQ内の対立が背景にあったという[2]

1949年6月24日、夫が脳溢血で急死。夫の死後、洋装店の仕事に加えて株式会社日本開発機械に渉外部長として勤務。1950年青山に転居。筋向いに住む森清森矗昶の四男、当時昭和電工社長、のち衆議院議員)と恋に落ちる。1953年、「マダム鳥尾」と呼ばれた鳥尾は [4]銀座でバー「鳥尾夫人」を開くが、2年8か月で閉店。1968年6月19日、清逝去。

1991年12月27日、胃がんにて79歳で死去。

家族

編集
  • 祖父・下條正雄 ‐ 元米沢藩士。
  • 父・下條小四郎 ‐ 三井物産
  • 夫・鳥尾敬光(1910-1949) ‐ 子爵。鳥尾小弥太の孫(長男・鳥尾光の子)。学習院大学卒業後、不動産収入で生活していたが、鶴代の勧めで自動車会社に勤務。没時の肩書は新日本自動車工業取締役、新日本炭業監査役。結婚時に互いの浮気は認めると合意していたため、たびたび自邸を訪ねていた妻の恋人のケーディスとも家族ぐるみで交流があり、自身も秘書と恋愛関係にあった。[1]
  • 長男・鳥尾敬孝 ‐ ミュージシャン

自著

編集
  • マダム鳥尾『おとこの味』(サンケイ新聞社、1969年)
  • 鳥尾多江『私の足音が聞える ― マダム鳥尾の回想』(文藝春秋、1985年7月1日)

参考文献

編集
  • 南博「鳥尾夫人の生活と意見」(『文藝春秋』昭和27年臨時増刊、第30巻第9号、1952年6月5日)– 南博『日本の社会と文化』(勁草書房、2001年8月10日)所収
  • マダム鳥尾『おとこの味』(サンケイ新聞社、1969年)
  • 鳥尾多江『私の足音が聞える ― マダム鳥尾の回想』(文藝春秋、1985年7月1日)
  • 木村勝美『子爵夫人 鳥尾鶴代 ― GHQを動かした女』(立風書房、1992年1月)
  • 橘かがり『焦土の恋 "GHQの女"と呼ばれた子爵夫人』 (祥伝社文庫、2011年3月11日)

関連書

編集

脚注

編集

外部リンク

編集